拡声器

今日はクジラはお休みです。

 

好きなものについて嬉々として話す人と、嫌いなものについて嬉々として話す人。この2人を水平的に比較してみて、その光景を目にした人に与える心象の優劣は分かり切っていますが、息を止めて深くなった夜に潜ってしばらくが経った時間帯には後者になってしまいがちではないでしょうか。そうでもない人はおそらく邪な考えを持たない人徳者であり、他者を貶めることによって相対的に一時的な安心感を得る例の機構に無縁の人間なのでしょう。生憎ながら多くの人間は不完全ですので、何かを悪く言うことが笑いに昇華されがちだったり、あるいはそれが善と悪の軸において悪と判断されるものであると常々思考を推し進めながらも、一時の風向きから善悪の区別がつかない状態に捕まってしまって、そういう笑いを享受してしまいがちだったりするものです。

でも考えてみれば不思議なことで、そもそも事物に対する(論理的一貫性の有無に関わらない)痛烈な批判というものが笑いを生み出し得るというのはよく分かりません。理性というフィルターを通すことなく、私の中には度を超えた激しさの批判が一種の笑いとして甘受されるシステムがおよそ備わっているのです。その笑いと呼ばれるものはけして他者への嘲りなどという中途半端に発達した人間の理性と本能の中間に位置する悪辣な物体ではなく、ただそうなってしまうだけでありそこに理由を見出すも何もないというような純粋な笑いなのです。不思議な格好をした人間を子供が笑うときのような、そんな原始的な笑いなのです。

これは誰かに共感されて欲しいことなのですが、昔から毒舌という言葉が嫌いでした。より正確性を重視するならば、毒舌であるという形容が一種の誉め言葉のように扱われているらしい世間への憎悪が、過去進行形で重金属のように体内に蓄積されていっていたのです。批判めいた言葉で事物を的確に表現したように見えてその実空っぽの形容を投げつけるようなその毒舌家と評される人々の行為は、価値無価値を通り越して害ですらあると思うのですが如何でしょう。根底にあるのは想像力の欠乏で、どうも言葉は人を傷つけるのだというような小学生ですら知り得て然るべき事実を知らなかったり、あるいは知っているとしても具体的に人間が傷つくさまを想像するに至らないほどの脳の怠け癖が彼らの口をそういう風に開かせてしまうようなのです。

何かを批判することは悪ではない。それは批判という言葉の意味から推察されることでしょうが、逆に、批判という言葉の意味を正確に捉まえなければ、開き直りレベルでの都合のいい解釈が可能になります。思うにそもそも批判というのは、批判する権利が全てに与えられているというよりも、批判される権利が固有の属性のものに与えられていると考えるべきではないでしょうか。それに加えて、批判とただの悪口はしばし混同されるものであるから、批判という名前が標榜されたただの鋭利な刃物がそれとして幅を利かせているのです。

それはそれとして、ただの罵詈雑言が人の笑いを喚起するのは事実です。性善説だの性悪説だのあれこれ考えても、事実は事実として疑いようがない。ただ我々には、理性に刃物の使用を制限するよう頑張ってもらうことを願うしかないのです。各々には各々の理性というか行動規範というものがあって、例えば分かりやすいところで言うと、理由なく人を傷つけてはいけないだとか、そういう類のものです。自身にとって善いと思えるような規範で自身を束縛する以上の有効打は無いと思うのです。

ですから、この記事もまた、そういった意味合いで書かれているのだなと了解してください。私はこと生きるのが下手なので、こういった生存戦略に基づくまめな行為を逐一挟まなければ、他人を傷つけてしまうのです。一言追記しておきますが、人を傷つけること自体が怖いのではなく、人を傷つけることによって自身が傷つくことが怖いのでしょうね。