炭酸水

常々思うことだが、(自明に)人は人を消費して生きている。私が今座っているベッドだとか、もう二日は点けっぱなしのエアコンだって、何ならこの建物だって、私はその製作や創造に一切のかかわりもなく、ただ金銭を支払うことによってのみその使用権を得ている。人は八方美人である、だがそれ以上に自分の脳が身体の行動を決定する権利を得ており、あくまで理性に基づくマシナリーな行動を取って生きる文明人だと錯覚したいがゆえ、あるいは自分の行動はその正義が正しいか間違っているかを抜きにして、正義という行動規範に一本の筋を貫き通していると思い込みたいがゆえ、おのがじしの行動の美化正当化に全力を尽くす。だから、どうせそうでなければ無駄たる無駄の骨頂であったろう自分自身の働いた時間というものを誰かへの報酬と称し、口では感謝だの自分は色々な人に支えられて生きているんだなぁだのべらべらしゃべりつくすのだけど、実のところそれは斜めに傾く天秤のトレードを道具にして、うまい具合に人を利用しているだけに過ぎない。両方が両方をそうやって歯牙にもかけないのだからちゃんと均衡が保たれていて、お互いはお互いをなくてはならない存在とか縁の下の力持ちとか辞書の紙がごとく薄っぺらい上っ面の言葉を投げつけるし、お互いはちゃんとそれが上っ面だと認識していて、うわべの言葉が飾る世界がどれだけ美しいクリスマスイルミネーションなのかを正しく悟っているから、誰も何も言わない。モミの木は毎日眠っては起きを繰り返し、おもちゃのベツレヘムの星は塗装がはだけようとしている。人間というのは嫌なものだってしっかり目に捉えることが出来るような目の構造に不具合でもあるに違いない生き物だから、うわべの言葉が飛び交っているのがちゃんと見える。あの人は実のところどう思っているのだろうと考えたところで、赤の他人は朱に交わることをやめない。結局行きつく島は興味がないの連続なんだから取り付く島もない。興味がないから消費をするのだ。一考を挟むに、大量消費の社会というものは、視界に映る「興味のない」人間が増えたことによる因果律なのだろう。いくら聖人とはいえ、視界に映る人のすべてにそれぞれ興味を持っていたらきりがない。普通の人にとってはすべてどうでもいいのだ。誰かが電車に轢かれようが、その人の人生には特に興味がない。興味がないから人の死を笑ってSNSにアップロードしたりする。興味がないから適当なことを言って、事件だの事故だのをエンターテインメントにできる。興味がないから罵詈雑言を叩ける。興味がないから他人の私見を決めつけられる。興味がないから人を馬鹿にできる。興味がないから何も考えようとしない。

人間からすれば、人間というのは目に映る一つのコンテンツに過ぎないんだと思う。テレビのチャンネルを切り替えるのに似ている。対岸で火事が起こっていればそれは面白いことなんだと思う。