エイプリルフール

精神異常者ごっこ遊びの悦に浸る人間が特別視されたいという欲求を以て円形の有象無象やらの中心に侵入したところでいざ回りで行われている椅子取りゲームは彼を椅子にすらなれない木偶の棒と見做す。インサニティが誉め言葉だとかそんなはずがないとかそもそもそんなことどうでもいいだとかその心底どうでもいい議論の3秒前に人はそいつは狂ってすらいないという決断を下し溜飲を下し木偶の棒に向かって唾を吐く。お互いがお互いを見下し軽蔑し侮蔑し睥睨するものだからコミュニケーションのコの字もあっちゃいない。コミュニケーションにおける無限降下法である。棒は自身を選ばれた存在だといつの間にか取り違えてしまって尊大な言葉を矢継ぎ早に回転させてふらふらと足元を崩しているし、椅子たちは円の中心に背を向けて意味もなく途中でぶつ切りに切断される滑稽な音楽を聴きながら嗚呼愉快、嗚呼愉快とげらげらげらげら笑っている。ドグラマグラを右手に抱えた棒は右手に持っているそれを使いこなせるはずもなくそのうち訳の分からないことをのたまって自分の中で理論は整っているけど誰も理解しようとしてくれているはずもないから僕は一生孤独でいいやと世界の色即是空森羅万象に嘘を吐く。愉快な椅子たちはその棒の自己陶酔酩酊状態があまりにも可笑しくて可笑しくて仕方がないからぱしゃりぱしゃりと写真を撮ったりちょっと棒の方を見てやったふりをして煽り立てたりする。棒はやがて立つのもしんどくなって、でも四方八方を椅子に囲まれているから場所を今更変更するわけにもいかない。私たちは結局永遠に分かり合えないのだなどとプラスチック並みに安っぽくてくだらない諦念とか厭世観に逃避して何かを悟ったふりをする、分かり合おうという気なんて初めからなかったくせに。何の努力もなしに誰かの上に立ちたいとかいう安直な、人生を舐めているような小学生的な発想を片手に好き放題やろうとした自業自得のくせに。椅子は椅子で、竜宮城行きのバスに勝手に赤色の旗を立てて集団になって剣とか銃とか拳銃とかでカメをタコ殴りにして、集団でいる強さを自分の強さと勘違いしていたりする。下等動物同士の喧嘩を議論だの対話だの高尚な名前までつけてあれはこうだったとか武勇伝のごとく語るのだ。

初めから他人を消費するつもりの人間しかいないのは僕が一番よく知ってるよ。嘘だけど。