雑記

 

 

好きな風景は何ですかと訊かれて、人はいろいろなことを答えるんだろうけど、それはそれとして美しくないものを美しいなと思うときがある。これはたぶん共通認識で、そうでなければそんなことをこれまでの人生で考えもしなかっただけなんだと思う。

そういう美しさのことを勝手に文学的と呼んでいて、意識的に言葉にするようにしている。そう表現する他にいい言葉が見当たらない。その実文学なんてまともに齧ってすらないので、どうにも背徳である。徳に背くと書いて背徳、でも背いているのは徳というより世界というか、つまり恨んでいるのであった。

人というものはいずれデジタルではないのだから、恨む恨まないの軸で考えても仕方がないのだろうけど、例えば、自分が文学的だなと考えたものを同じように考えられない人間のことを恨んだりする。機嫌が良ければそこまでなんだろうし、機嫌が悪かったり世界の終わりを当て付けのように神様の脳裏にちらつかせる日なんかには、消えて無くなったら幸せなんだろうな、と考えていたりもする。

それを毒だと考えることとその逆、どちらが正しいかなんて分からないのだけど、恨むことが正解だと考えている。つまり、わかりあえないのなら消えてしまえばいい。時間制限、ゴールテープ、どんな言葉を使ってもいいのだけど、それらが用意されていることこそがそれを裏付けている。

薬局で缶酎ハイを買うこと、果物を投げつけること、携帯電話を川に落とすこと、向こうから朝焼けが近づいてくること、プラネタリウムに連れていってくれる人殺し、吐き出すこと、全てが死体であること、生きていることを悔やむこと、午前4時の新宿の小雨、

分からないことを恨んでいる。軽蔑なんてし始めたらきりがないから、そのうちにやめてしまった。本当にどうしようもなくて救いようがないなと言葉が脳の裏側を跳ね回る。恨みがましい心地と記憶が堆積していって、重みに耐えきれずに吐き出す。傷ついたことを一生覚えている。苦しくはないが、恨みの質量が足を重くしている。きっとここに書いてある言葉もそうなのだ。だから他人なんてどうでもいいのだ。等価交換であるべき。