人工太陽

例えば人は一度"人生の危機"のような状態を経験してしまえば、その薄氷の上からは二度と脱出することが叶わない。僕にだってその時代があって、それは生まれて18年ほど経過した頃のことだ。詳しくは語らないが、あの時代は確実に今の僕に暗い影を落としている。今にして思えば何とも下らないことで死にそうになっていたものだと思うが、それを下らないと棄却してしまえるのなら今の僕は元の世界に戻れているはずなのだ。結果として僕は、情報を口に入れてしまったが故に元の真っ白な世界に戻れなくなってしまっている。

例えば人が死ぬことを事実として知ってしまった人間は、一生その闇を背中に背負って生きていくことを強要される。架空の温室の中で如何にその闇を薄めようとも、自分を守っていた殻はある瞬間に嘘のように立ち消えて、思考停止状態から解き放たれたがゆえに深淵のような黒が視界を覆い尽くしてしまうのである。

さて、幸福とは何だろうね?

 

僕かい? 僕は煙草を吸うことじゃないかと思っている。

 

 

 

 

僕は人が死ぬ夢をよく見るから、逆説的に生を実感することができる。

小学校のときのスピーチで、僕はこんな話をした。僕はもとより大勢の前で話すことが苦手だった。こう言えば随分と凡庸な考え方だと呆れの対象にも数えられようものだが、粗方予想される"苦手"という言葉の軛の外に問題はある。常々思っていたことで、今でもふと頭を過ることだけれど、思考の経験も方向性も多種多様に異なる人間の前でたったひとつの概念について語ることは無価値ではないのか、と考えているのだ。

ともあれその反骨心が僕にその内容のスピーチをさせたのである。手元にはその事実だけが辛うじて残っていて、そのスピーチの具体的内容だとか他者の反応だとかは風化している。

 

「死から逃れる方法は何か」

 

クジラが言う。

例えばそれは、死を徹底的に避けることだ。

確率の低い方を選ぶ。それは死からの逃避と考えられる。

例えばそれは、精神的な死を避けることだ。

肉体的な死を通過点と考え、第二の死を可能な限り遅延させるために努力を払う。それは死からの逃避と考えられる。

例えばそれは、死を選ぶことだ。

それは死からの逃避と考えられる。

例えばそれは、目を逸らさないことだ。

それは死からの逃避と考えられる。

 

「正解はひとつだ」

 

クジラが言う。

曰く、君の挙げた4つの例は、前半が逃避のための逃避であり、後半が逃避のための直視であるという要領で、二等分することができる。

どちらが正しいのだろうか?

 

クジラは煙草を呑みながら笑う。

「逃避に対処する策を練ろうと考えたその時点で、どうしようもなく逃避に雁字搦めにされているのだ」それから天を仰いで息を吐く。「浅い話だったな」

僕は釣られるようにして空を見上げる。何らかの言葉で夜空を形容しようとして、それから無限を有限に貶めることに悦を見出すな、という言葉を思い出した。こういう事物には下らない形容詞をつけておけばいいのだ。

今日に限って言えば、空はシニカルに笑っているのである。絵の具の廃液を零したような雲が月を曖昧に象っていて、遠くに上がる煙を除けば空は麻酔にかかったような紫をしていた。金属が擦れる様な音が断続的に伝わって、どこか余所余所しい雰囲気をした夜だ。有体に言ってしまえば、それには相応しさが無い。ただ、そんな理由で空気を蹴ってしまえるほどの確証は持てなかった。

 

僕は保留とだけ呟くと、クジラは正解だと言って消えた。

 

 

 

 

「何を伝えたいんだと思う?」