コロスニタル

例えば僕は世の中の全てが書かれた本を持っている。それは背幅10ミリ程度の存外薄っぺらいA5判の本で、表紙には僕には読めない言語の文字が煌びやかに並んでいる。本を開いたことは一度だってなかったし、この先の僕も同じように中を覗くことはないのだろう。アンティーク調の装丁がなされた1キロにも満たない本の中に何が書かれているのか。――思いを馳せることなら誰にだってできる。想像とは畢竟人間の頭脳の外へと飛び出すことなく安全圏にひたすら居座ることなのだから、それは実際の本の中身と無関係だ。危険を冒さずして手に入れられる情報というものは大概が脆弱なのだ。大事なことは、その本を開くに至るかどうかではないのか、と僕は思う。

君はどうだろう。その本を開いてみたいか?

 

・・・・・・僕かい? 僕はね、拳銃でも入ってるんじゃないかと思うよ。

 

 

 

 

アルカリの風味をした風が漂っている。カーテンの先にあるレモンは遠くのビルにぶら下がったような場所に間一髪留まっていた。他人事のようには思えなくて、何度も目を擦る。群れを成した鴉がこの世の終わりのような声で鳴いている。夜はまだ明けていない。

僕は毎晩夢を見るたちだ。歳が一桁の頃までは、全員がそういうものなのだと認識していた。どうやらそうでないということを悟ってから、僕は精神の安寧のために折り合いをつけて眠っている。――夢の中の自分はあくまで他人という意識を身体に染み込ませてから布団に潜ると、夢で起こる事象のおおよそが他人事のように思えるのだ。

地上百階建てのビルから飛び降りる夢をよく見る。足の踏み場が固体から気体へと変わるその瞬間、あるいは世界を抱きしめるようにして楽しげに宙を舞うその瞬間、僕の意識はテレビカメラのその先のような遠く離れた位置へと飛んでいく。目に映る景色は夜空をくるくると転がるレモンだ。夢の街の空は排ガスに汚れて星が見えない。僕は華麗に着地すると、レモンは真っ二つに割れ、中から鮮やかな色をしたジュースが蛇口をひねるように飛び出す。美しいか美しくないかと言われればそれは美しいのだと思う。テレビを眺める僕はポテトチップスとアルカリの瓶を取り出して、こう嘯く。――この番組もそろそろマンネリ化してきたな。

クジラの夜は大体3時間で終わる。長編映画とほぼ同じ長さだ。僕は椅子に縛り付けられているから、目を開いていなければならない。無理な体勢で長時間を過ごす僕に、クジラはいつも底抜けに希望のある言葉を投げかける。それは僕にはまるで嘘のように聞こえる。彼の言葉を借りれば、嘘でもなければ本当でもない、というところだ。

不思議なことに、クジラの街は僕の思考が前進する度に、少しずつリアルに近づいていくのだ。例えば地上百階建ての建物というのは現実味がないと思えば、翌日には建物は三十階建てに建て替わっていた。クジラを初めて目にしてから、ベランダの眼下に広がる景色はいつの間にやら見慣れた風景に変わっていた。それは僕の部屋のベランダから見える景色そのものなのである。

そのことをクジラに話すと、彼はこう言う。

「それは世の中の全てだよ」

ともあれ僕は、それ以来クジラの街について考えるのをやめてしまった。

 

 

 

 

きっと、本を開いたか開かなかったかなんて、結局どうだっていいんだよ。

多分ね。理由が大事なんだ。

何も考えずにレモンジュースを撒き散らすことは一種の幸福なんだろうし、海を漂流するようにクジラと他愛もない会話で停滞することだってそうだ。

 

ピアスで耳に穴を開けるのと同じ気分で、本の中に入っているそれで胸に風穴を開けることがどれだけ幸福なのか。

考えるまでもない。

初めからそれは僕らに平等に与えられている。