• 深夜に台所を左右に往復していると、自分が架空の生物だと思えて仕方がない瞬間がやってくる
  • 最も死を意識するのは、トイレの個室の天井に排気口を見つけたとき
  • あなたに会えて幸せでしたと言えるような瞬間が来ると子供のように信じている
  • これは夢ではないか?
  • 昨日は変な夢を見た
  • 俺が憎むアイツで遊ぶ夢だ。寝る直前に見た漫画に影響されているらしい
  • 定期的にそういう夢を見る。これのひとつ前は、"蜂蜜と風呂場"という曲に影響されたものだった
  • アイツは俺の手元に急接近して、時間をかけてじわじわと離れていく
  • 勝てるのかな そうでもないのかな
  • とりあえず今は幸せ
  • これからどうしようか

犬 かわいい

お前マジか?と思う人

 

  • 毒を含むためそのままでは食えないヒガンバナを三日水に漬けることで食えるようになることを発見した人
  • 一端の花に「ミヤマクワガタ」と非常にややこしい名前をつけた人
  • 「長押しすることで群れの仲間が一緒に攻撃してくれる」ボタンに△ボタンをあてがったTOKYO JUNGLEの開発チーム
  • 操作できる動物に"サラリーマン"をDLC配布したTOKYO JUNGLEの開発チーム
  • HPハングリーゲージポイズンゲージが完全回復するアイテムを"週刊少年ジャンプ"にしたTOKYO JUNGLEの開発チーム
  • プレイヤーの移動できる箇所が渋谷~代々木程度なのにゲーム名をTOKYO JUNGLEにしたTOKYO JUNGLEの開発チーム
  • TOKYO JUNGLEの開発チーム

拡声器

今日はクジラはお休みです。

 

好きなものについて嬉々として話す人と、嫌いなものについて嬉々として話す人。この2人を水平的に比較してみて、その光景を目にした人に与える心象の優劣は分かり切っていますが、息を止めて深くなった夜に潜ってしばらくが経った時間帯には後者になってしまいがちではないでしょうか。そうでもない人はおそらく邪な考えを持たない人徳者であり、他者を貶めることによって相対的に一時的な安心感を得る例の機構に無縁の人間なのでしょう。生憎ながら多くの人間は不完全ですので、何かを悪く言うことが笑いに昇華されがちだったり、あるいはそれが善と悪の軸において悪と判断されるものであると常々思考を推し進めながらも、一時の風向きから善悪の区別がつかない状態に捕まってしまって、そういう笑いを享受してしまいがちだったりするものです。

でも考えてみれば不思議なことで、そもそも事物に対する(論理的一貫性の有無に関わらない)痛烈な批判というものが笑いを生み出し得るというのはよく分かりません。理性というフィルターを通すことなく、私の中には度を超えた激しさの批判が一種の笑いとして甘受されるシステムがおよそ備わっているのです。その笑いと呼ばれるものはけして他者への嘲りなどという中途半端に発達した人間の理性と本能の中間に位置する悪辣な物体ではなく、ただそうなってしまうだけでありそこに理由を見出すも何もないというような純粋な笑いなのです。不思議な格好をした人間を子供が笑うときのような、そんな原始的な笑いなのです。

これは誰かに共感されて欲しいことなのですが、昔から毒舌という言葉が嫌いでした。より正確性を重視するならば、毒舌であるという形容が一種の誉め言葉のように扱われているらしい世間への憎悪が、過去進行形で重金属のように体内に蓄積されていっていたのです。批判めいた言葉で事物を的確に表現したように見えてその実空っぽの形容を投げつけるようなその毒舌家と評される人々の行為は、価値無価値を通り越して害ですらあると思うのですが如何でしょう。根底にあるのは想像力の欠乏で、どうも言葉は人を傷つけるのだというような小学生ですら知り得て然るべき事実を知らなかったり、あるいは知っているとしても具体的に人間が傷つくさまを想像するに至らないほどの脳の怠け癖が彼らの口をそういう風に開かせてしまうようなのです。

何かを批判することは悪ではない。それは批判という言葉の意味から推察されることでしょうが、逆に、批判という言葉の意味を正確に捉まえなければ、開き直りレベルでの都合のいい解釈が可能になります。思うにそもそも批判というのは、批判する権利が全てに与えられているというよりも、批判される権利が固有の属性のものに与えられていると考えるべきではないでしょうか。それに加えて、批判とただの悪口はしばし混同されるものであるから、批判という名前が標榜されたただの鋭利な刃物がそれとして幅を利かせているのです。

それはそれとして、ただの罵詈雑言が人の笑いを喚起するのは事実です。性善説だの性悪説だのあれこれ考えても、事実は事実として疑いようがない。ただ我々には、理性に刃物の使用を制限するよう頑張ってもらうことを願うしかないのです。各々には各々の理性というか行動規範というものがあって、例えば分かりやすいところで言うと、理由なく人を傷つけてはいけないだとか、そういう類のものです。自身にとって善いと思えるような規範で自身を束縛する以上の有効打は無いと思うのです。

ですから、この記事もまた、そういった意味合いで書かれているのだなと了解してください。私はこと生きるのが下手なので、こういった生存戦略に基づくまめな行為を逐一挟まなければ、他人を傷つけてしまうのです。一言追記しておきますが、人を傷つけること自体が怖いのではなく、人を傷つけることによって自身が傷つくことが怖いのでしょうね。

人工太陽

例えば人は一度"人生の危機"のような状態を経験してしまえば、その薄氷の上からは二度と脱出することが叶わない。僕にだってその時代があって、それは生まれて18年ほど経過した頃のことだ。詳しくは語らないが、あの時代は確実に今の僕に暗い影を落としている。今にして思えば何とも下らないことで死にそうになっていたものだと思うが、それを下らないと棄却してしまえるのなら今の僕は元の世界に戻れているはずなのだ。結果として僕は、情報を口に入れてしまったが故に元の真っ白な世界に戻れなくなってしまっている。

例えば人が死ぬことを事実として知ってしまった人間は、一生その闇を背中に背負って生きていくことを強要される。架空の温室の中で如何にその闇を薄めようとも、自分を守っていた殻はある瞬間に嘘のように立ち消えて、思考停止状態から解き放たれたがゆえに深淵のような黒が視界を覆い尽くしてしまうのである。

さて、幸福とは何だろうね?

 

僕かい? 僕は煙草を吸うことじゃないかと思っている。

 

 

 

 

僕は人が死ぬ夢をよく見るから、逆説的に生を実感することができる。

小学校のときのスピーチで、僕はこんな話をした。僕はもとより大勢の前で話すことが苦手だった。こう言えば随分と凡庸な考え方だと呆れの対象にも数えられようものだが、粗方予想される"苦手"という言葉の軛の外に問題はある。常々思っていたことで、今でもふと頭を過ることだけれど、思考の経験も方向性も多種多様に異なる人間の前でたったひとつの概念について語ることは無価値ではないのか、と考えているのだ。

ともあれその反骨心が僕にその内容のスピーチをさせたのである。手元にはその事実だけが辛うじて残っていて、そのスピーチの具体的内容だとか他者の反応だとかは風化している。

 

「死から逃れる方法は何か」

 

クジラが言う。

例えばそれは、死を徹底的に避けることだ。

確率の低い方を選ぶ。それは死からの逃避と考えられる。

例えばそれは、精神的な死を避けることだ。

肉体的な死を通過点と考え、第二の死を可能な限り遅延させるために努力を払う。それは死からの逃避と考えられる。

例えばそれは、死を選ぶことだ。

それは死からの逃避と考えられる。

例えばそれは、目を逸らさないことだ。

それは死からの逃避と考えられる。

 

「正解はひとつだ」

 

クジラが言う。

曰く、君の挙げた4つの例は、前半が逃避のための逃避であり、後半が逃避のための直視であるという要領で、二等分することができる。

どちらが正しいのだろうか?

 

クジラは煙草を呑みながら笑う。

「逃避に対処する策を練ろうと考えたその時点で、どうしようもなく逃避に雁字搦めにされているのだ」それから天を仰いで息を吐く。「浅い話だったな」

僕は釣られるようにして空を見上げる。何らかの言葉で夜空を形容しようとして、それから無限を有限に貶めることに悦を見出すな、という言葉を思い出した。こういう事物には下らない形容詞をつけておけばいいのだ。

今日に限って言えば、空はシニカルに笑っているのである。絵の具の廃液を零したような雲が月を曖昧に象っていて、遠くに上がる煙を除けば空は麻酔にかかったような紫をしていた。金属が擦れる様な音が断続的に伝わって、どこか余所余所しい雰囲気をした夜だ。有体に言ってしまえば、それには相応しさが無い。ただ、そんな理由で空気を蹴ってしまえるほどの確証は持てなかった。

 

僕は保留とだけ呟くと、クジラは正解だと言って消えた。

 

 

 

 

「何を伝えたいんだと思う?」

コロスニタル

例えば僕は世の中の全てが書かれた本を持っている。それは背幅10ミリ程度の存外薄っぺらいA5判の本で、表紙には僕には読めない言語の文字が煌びやかに並んでいる。本を開いたことは一度だってなかったし、この先の僕も同じように中を覗くことはないのだろう。アンティーク調の装丁がなされた1キロにも満たない本の中に何が書かれているのか。――思いを馳せることなら誰にだってできる。想像とは畢竟人間の頭脳の外へと飛び出すことなく安全圏にひたすら居座ることなのだから、それは実際の本の中身と無関係だ。危険を冒さずして手に入れられる情報というものは大概が脆弱なのだ。大事なことは、その本を開くに至るかどうかではないのか、と僕は思う。

君はどうだろう。その本を開いてみたいか?

 

・・・・・・僕かい? 僕はね、拳銃でも入ってるんじゃないかと思うよ。

 

 

 

 

アルカリの風味をした風が漂っている。カーテンの先にあるレモンは遠くのビルにぶら下がったような場所に間一髪留まっていた。他人事のようには思えなくて、何度も目を擦る。群れを成した鴉がこの世の終わりのような声で鳴いている。夜はまだ明けていない。

僕は毎晩夢を見るたちだ。歳が一桁の頃までは、全員がそういうものなのだと認識していた。どうやらそうでないということを悟ってから、僕は精神の安寧のために折り合いをつけて眠っている。――夢の中の自分はあくまで他人という意識を身体に染み込ませてから布団に潜ると、夢で起こる事象のおおよそが他人事のように思えるのだ。

地上百階建てのビルから飛び降りる夢をよく見る。足の踏み場が固体から気体へと変わるその瞬間、あるいは世界を抱きしめるようにして楽しげに宙を舞うその瞬間、僕の意識はテレビカメラのその先のような遠く離れた位置へと飛んでいく。目に映る景色は夜空をくるくると転がるレモンだ。夢の街の空は排ガスに汚れて星が見えない。僕は華麗に着地すると、レモンは真っ二つに割れ、中から鮮やかな色をしたジュースが蛇口をひねるように飛び出す。美しいか美しくないかと言われればそれは美しいのだと思う。テレビを眺める僕はポテトチップスとアルカリの瓶を取り出して、こう嘯く。――この番組もそろそろマンネリ化してきたな。

クジラの夜は大体3時間で終わる。長編映画とほぼ同じ長さだ。僕は椅子に縛り付けられているから、目を開いていなければならない。無理な体勢で長時間を過ごす僕に、クジラはいつも底抜けに希望のある言葉を投げかける。それは僕にはまるで嘘のように聞こえる。彼の言葉を借りれば、嘘でもなければ本当でもない、というところだ。

不思議なことに、クジラの街は僕の思考が前進する度に、少しずつリアルに近づいていくのだ。例えば地上百階建ての建物というのは現実味がないと思えば、翌日には建物は三十階建てに建て替わっていた。クジラを初めて目にしてから、ベランダの眼下に広がる景色はいつの間にやら見慣れた風景に変わっていた。それは僕の部屋のベランダから見える景色そのものなのである。

そのことをクジラに話すと、彼はこう言う。

「それは世の中の全てだよ」

ともあれ僕は、それ以来クジラの街について考えるのをやめてしまった。

 

 

 

 

きっと、本を開いたか開かなかったかなんて、結局どうだっていいんだよ。

多分ね。理由が大事なんだ。

何も考えずにレモンジュースを撒き散らすことは一種の幸福なんだろうし、海を漂流するようにクジラと他愛もない会話で停滞することだってそうだ。

 

ピアスで耳に穴を開けるのと同じ気分で、本の中に入っているそれで胸に風穴を開けることがどれだけ幸福なのか。

考えるまでもない。

初めからそれは僕らに平等に与えられている。

ピストル

あえて抽象化します。

「理由は分からないが、自分の作ったものが褒められている」みたいな現象にときたま出くわします。皆さんもそんな経験無いですか?

 

一種の人間不信なんですかね。大げさかもしれませんが。

「自分が良いと思ったものを他人は自分ほど好いていない」という経験の蓄積が、他人と自分を境界線で分割するような価値観を形成させたのでしょうね。その考え方は正しいものなのかもしれませんが、同時に一種の自己特別視であり自惚れともみなせるから、悪い方向に働き得ます。

かといって人を信じ過ぎてしまうと、これまた裏切られて傷つく結果に繋がるのです。

人に期待せずにいれば案外価値観は共有され得るものだなと思い、そこで調子に乗って人を信じてしまうとやはり裏切られる。私個人に関していえば人生はこれの連続で、徐々に収束した結果が「人を信じない」の方なのでしょう。私は(「自分の美しいと思ったものが人の心を揺さぶるとは限らない」という自明命題を拡充した、「自分の美しいと思ったものが人の心を揺さぶるはずがない」という非自明命題を常に念頭に置くという意味で)人を信じていませんし、その逆も然りです。だから別に好きな音楽を共有しようとも思わない(僕はこれが好きだということに関しては主張するけど)し、自分の書いた文章がどれだけ会心の出来であっても「誰も良さは分かってくれないんだろうな」と勝手に拗ねています。

 

ここまではどうでもいい話で、ここからが本題です。

先述のような世の中に対する背信は誰もが抱く感情だと思っています。それは単純に、自分の作り上げたものに対する客観的評価が本質的に不可能であることに起因していると考えています。

自分の武器に対して無自覚であるのはお互い損でしょう。

ですから、武器に対する自覚を与えてあげて欲しいのです。

「良い」とか「面白い」だけではその先に何をすれば良いかが見えてこないのです。

ちょっと捻った形容詞とかで充分ですので。

 

せめて他人には人間不信に陥って欲しくないなと思ったので、この文章を書きました。

校正クイズ

もうそろそろ夜が明けますね。みなさんは如何お過ごしでしょうか。

寝ることに理由を求める性分はよろしくないですね。こうやって文章を書かないと眠る決心がつかないのです。いつからこうなってしまったのでしょうか。

簡単に文章を書くと誰かに読んでもらえるだけで承認を得た気分に浸れるので良くないですね。多分僕は寝る前に承認を得なければやってられない体質になっているのでしょう。起きたらこの記事を書いたという旨のツイートがいいねされたという通知が来ているのを眺めるのがやめられなくなっているんですよね。良くないです。手軽に承認を得られるのは不健全だし、承認を得るために文章を書くのもまた不健全です。

 

昨日「明日こそはssを書くぞ!」と決意を固くして臨んだ今日という一日でした。サボりにサボって、結局書き始めたのは午前3時。しかも20分パソコンの前に腰掛けるだけで飽きてしまって、進捗はたったの700文字でした。少なすぎる。

明日の自分にバトンを渡す、という比喩があります。毎日を「明日の自分頑張ってくれ」という願いを込めて過ごしていますが、明日の自分が今日の自分と同じ程度にしか頑張らないのも無理はない話で、ゆっくりのそのそ歩いてきた奴が「ほらお前今からこれ持って走れ」なんかほざいていても走る気にはなりませんよね。明日の自分に期待するなら、バトンタッチのときぐらい全力出してるフリしましょう。

 

せっかく比喩の話が登場したので、今日無意識に書いてしまったクソ比喩を発表します。こんなものを書いてしまって忸怩たる思いです。

「彼女は『蜃気楼のように』消えてしまう」

ご清聴ありがとうございました。

 

何故クソ比喩なのかと言いますと、単純にクリシェだからです。

 

 

半分ジョークです。クリシェだから、以外にもこの比喩がダメな理由はあります。

みなさんもこの比喩が何故クソなのか考えてみてください。ヒントは前後の文脈です。

 

 

 

 

 

答え合わせ。

蜃気楼は「もともと存在しない架空が存在するように見える」機構のことであって、比喩の後の「消えてしまう」には結び付きません。これはどういうことかというと、「蜃気楼は消えるものではないから、『蜃気楼のように消えてしまう』という比喩は成立ししない」ということです。強引に成り立たせようとするなら『蜃気楼に近づいたときのように消えてしまう』になるのでしょうが、これも「蜃気楼はもともと架空であり実際的な物質が存在しないのだから、消えるも何もない」もっと分かりやすく言うと「蜃気楼は近づくと消えるものではなく、近づいて初めてもとより存在しなかったことがわかるものである」という理由から棄却されます。すなわちこの比喩は不適切です。なお、「彼女は蜃気楼のようだ」という比喩表現は(文法上)正しいです。クリシェに見えなくもないですが、「近づけば消えてなくなってしまっているかのように思える存在」という意味合いでの代替表現が見つからなければ、堂々と蜃気楼という言葉を用いるべきです。

如何だったでしょうか。大体僕と同じ感想を抱いた人は校正に向いてるので校正班に入ってください。