雑記-2019/10/20

 

 

 

*抹茶味

 

気づくと手癖で酒缶をあけている自分がそこにいる。酒は好きでも嫌いでもないけれど、口に含んだそのあとに広がる世界が好き。安酒の缶を空にする理由なんて、酔うため以外にはない。誰だってそうだと思う。ちなみに、高いお酒はときどき美味しい。

酒に弱い方なのも、いい方向に作用している。酔うと幸せ。簡単に酔える。酒を買う理由たり得る。それから、たまに、ご飯が美味しくなる。音楽を聴くのが、普段の何倍も楽しくなる。いいことずくめだ。

アルコールを飲んでいるつもりが、いつの間にかアルコールに飲まれているというのは、つまりこういうことなのだな。たまに考える。アルコール漬けの毎日は、それでも酒がないよりマシだ。これがない世界にいたら、多分、死ぬとは言わずとも、空っぽになっていたと思う。

一時期、木屋町にある公園で鴨川をぼんやりと眺めるのにはまっていた。はまっていたというか、そうでもしないと耐えられそうになかった。空っぽになる時間が必要だった。好きな音楽を聴いて、張り裂ける夕焼けを眺めて、悲しいとか吐きそうとか、そういう感情をその場に捨てて、どこかへ歩き出す。公園は、誰かの感情の掃き溜めだと思っている。ベンチに先客がいることが、何度かあった。一度だけ黒猫で、それ以外は、空の酒缶とか、タバコの吸い殻とか。ああ、あれは誰かが捨てていった感情なのだ。思って、酒缶の隣に座ったり、あるいはベンチを諦めたりする。

ただその場に缶を置いていきました、というのは、なんだか寂しい。できれば、自分の知らない記憶へとつながる扉、その鍵だと思いたい。鍵なんてものは、道端の至るところに落ちているものだと思う。その鍵を使って開けることのできる扉がどれなのか、ただそれがわからないだけで。

永遠に知ることのできない記憶があることは、やっぱり寂しい。例えば、電車に乗っている全員にも、それだけの年数を生きてきた記憶がある。それを思って、夕焼けみたいな苦しさを味わうことがある。公園に酒缶を置いていった人は、どういう気持ちで同じ空を見上げたのだろう。自分と同じような気持ちで、ただ何かから逃げたいと願うから酒を飲んだのかな。夜空は、きっと綺麗だったと思う。何にせよ、永遠に知り得ない。