雑記-2019/10/14

*リユニオン

 

小学校のときの同級生が、明日誕生日を迎えるらしい。そういう通知が来た。

小学校の頃に連絡先を交換したっきりだと思う。それでも、幾つもの電子機器の引き継ぎを運良く生き延びて、連絡先は澄ました顔で携帯電話に居座っている。いや、多分、連絡先自体は生きていない。メールアドレスは変わっているだろうし、電話番号もそのままではないかもしれない。だから、正しいのはきっと誕生日だけ。

同じ窓の会と書いて同窓会。それはそうかもしれない。同じ窓を眺めていた。あるいは、同じ窓の外を眺めていた。窓の外にどんな風景が広がっているのか自体は、どうだっていい。同級生の顔を思い出せないのは、みんなで窓の外を眺めていたから。

会いたいとは思わない。会っても話すことなんてないし、きっと気まずい。それに、会いたいと思うのなら、とっくにそういう機会を探している。結局、一生会わないままなんだと思う。それでいい。それでいいのかな。たぶん、いい。

10年の歳月に、それでも引き剥がされまいと抵抗する意志と力があるのは、それはとても素敵なことだと思う。心の底から会いたいと思える人間がいるのは、恵まれていると思う。懐かしいことを、ただ、懐かしいと笑いあえるような感性は、どこかに置き忘れてきてしまった。会いたいなんて、話がしたいなんて、そんな見え透いた嘘をつく理由は、どこにもない。理由がないのは、なんとなく悲しい。悲しくないことを悲しいと思えるだけ、ほんの数センチ、恵まれているのかもしれない。

 

 

 

*コルクボード

 

中学の頃、骨折をした日付を覚えている。偶然、誕生日だったから。

だから、あのとき骨折をしてから何年が経ったかを、正確に計算できる。

中途半端に歳をとってしまうと、あれから何年が経ったのだろうと考える瞬間が増える。あれは2016年だったかなとか、もう1年先だったかとか。

たとえば3年が経ったという事実があったとして、それはあまり意味のない事実だと思う。多少の限界はあるかもしれないけれど、時間は伸び縮みをする。同じ一ヶ月でも、秋はやたらとのんびりしていたり、3月はライオンだったり。

指折り年月を数えていると、なんとなく懐かしい。3年前と今。おそらく、何もかも違っている。比べることができたら、楽しいのかもしれない。今更そんな願いは叶わない。

懐かしいということは、それが手に入らないということ。確かにそうだと思う。胸元までせり上がった懐かしさは、それでも、風邪の日の夕方のニュースみたいな、暖かい色をしている。夕焼けを綺麗だと思う理由に似ているのかもしれない。

二度と手に入らない夕焼けを写真に収めたくて、夕日に向かってシャッターを切った日のことを思い出す。いくら忘れたくなくても、まっすぐに忘れていく。たとえばアルバムの質量は、記憶の重さではなくて、忘れないようにと祈った願いの重さだと思う。

偽物だとわかっていても、現像されてプリンターから出てくる写真が好きだった。写真を貼ったコルクボードは、次第に体温を失っていって、やがて、冷たくなった。そういうものだと思う。