雑記-2019/10/21

 

 

 

プラネタリウム

 

文字を読むのが苦手なわりに、書くのは好きな方だ。深刻な活字アレルギーを患っていて、例えば半年ぐらい前に買った蜜蜂と遠雷をまだ30ページも読んでいない。

書くのが好きだというのに、日記は続かない。さて日記でも初めてみるかと思い立っても、その意志は3日が過ぎたあたりでふっと消える。

読むのが苦手なのも、日記が続かないのも、理由ははっきりしている。自分にとっての言葉というものが、自分の内面を表現するものでしかないから。そもそも読むのが苦手なくせに無理を押して文字を追うのだって、書くための努力に他ならないし、それ以外ほとんど何もない。これは、まぁ、撞着的な話のような気もするけど、ハンバーガー屋でバイトしている人が自分はハンバーガーを食べないのと同じだと思っている。

言葉でなくたって良かった、と思う。自己表現の舞台は別に言葉に限らない、という意味。それでも、言葉は手っ取り早かった。手っ取り早さが欲しかった。そういうものを求めるぐらいに、自己表現をむやみに振りかざしがっていた。

自己表現という言葉は、子供っぽいと思う。表現できる自分なんてものが、そもそもお前の中に存在するのか? 訊かれれば、返答に窮して、きっと押し黙る。本当のところは、紛い物の達成感に浸っていたいだけだと思う。言葉は借りることができる。借りるなんて言葉を使っているくせに、本当は盗んでいる。借り物の言葉を、さも自分の内側から浮かんできました、みたいな顔をして得意げにひけらかす。

言葉のことは、本当は、別に好きでもなんでもない。愛の正体は、きっと、自己愛。考えれば考えるほど、なんだか悲しい。せめて、人類の大勢が、同じようなことで悩んでいたらいいな、と思ったりする。それなら、自分も、その他大勢も、同じ穴の狢だ。

言葉についてひたすら考えるこの生活は、はたしていつまで続くのだろう? どこまで走っても、どこまで戻っても、借り物で息をつなぐ生き方からは逃れられない。本物の自分が紡ぐ言葉は、多分、くだらない。目を背けるために、盗んできた言葉たちで、視界を塞ぐ。8方向を覆ってしまえば、いつかその思い過ごしにも時効が来る。

ちょうど、星が見えなくなる日についてのことを思い出す。空が濁って、星が見えなくなって、そんなものがあったこと自体も忘れてしまうような日が来たら、人はプラネタリウムをどう思うのだろう。多分、ここの天井は汚れているな、とか、そういうことを思うんじゃないだろうか。それの何がどうというわけではないけれど、でも、きっと、紛い物の星を本物だと思ったりもするんだろうな、という話。