韜晦癖とかいう概念

 

 

 

同じだけの狂気があればそれでいいよな。狂気ってなんだろうね。想像力の操縦席に飛び乗ってどこまでも行くことじゃないの。そう考えている。

武器はうまく使いこなせるに越したことはないよな。滅茶苦茶な機能のついたナイフってあるじゃん。それぞれが中途半端だとよくないよな。ああはなりたくない。重いし。

どれかひとつを極めたとして、それだけじゃ意味がないよな。世の中はハイスペックを求めている。太宰メソッド。多機能にして高機能。大事なのは長さじゃなくて面積。うん。しっくりくる。

ごちゃごちゃ言ってないで行動しろって、うん、正論で、だからいまいち正しくない。だいたいそういうずさんなところに助けられているだろ。失くしたら二度と取り戻せないんだぜ。ふらふら酩酊して、目的地と全然別の方向へ歩いたり、そういう寄り道に助けられているんだよな。知ってる。書きゃいい。でもただ書くだけじゃ意味ねえよな。学ぶ。殊勝なことだ。でもまだ足りない気がするんだよね。それ、単純に動機とかそのあたりじゃない? 言えてる。

「社会はゴミ同然だよ」

「人間は皆ゴミだよ」

それ嘘だよ。知ってる。嘘だからいいじゃないの。自覚ぐらいあるだろう。怒りに呑み込まれてさ、掻き毟って、でもそういう古傷に助けられてたりしないの? そういうもんじゃない? たまにはそういうこともあるよな。どうしようもなくてさ、それを生かすも殺すも自分次第なんだよね。クリシェ

どうしようもなく人間、なんて聞き飽きたフレーズだけど、まぁ人間がどうとかそんなこと関係なく、とりあえずどうしようもない。不快だわ。うん。不快。不愉快。掃き溜めに鶴の死体って感じ。最悪。逆にさ、そういうこと考えねえの? 考えずにこんな文章読んでさ、絶対楽しくないよな。そもそも意味わかってねえもんな。わかるぜ。俺もそんな感じだもんな。

厭世とかリリシズムとかペシミストとか聞き飽きたな。束ねてくれてもいいし。一生わかんねえだろ。面白くなってきたな。遠ざかったらアイツ何考えてんのかよくわかんねえなって言いやがるくせに、近づいてみたら束ねられるんだよな。知ってる。俺もそんな人間。説得力? そんなのとっくに捨ててきたな。

触られたくねえ。触られたい。どっち? 気分。気分屋だ。場合による。相手による。みんなそう。例外なんてないだろ。犬メチャクチャ愛でた後に手を洗わない奴まぁ普通に軽蔑するし。汚いだろ。洗えよ。

なんかもう、新しくならない? 語彙追い付いてないけどそんな感じ。地球上の全員でさ。幸せだよ。それ。不幸の裏側には幸せがある。それ嘘だよ。知ってる。ね、新しくなろうぜ。もう一度なんかこう色々作り直してさ、冷やし中華に別の名前つけたりしてさ。来世。そっちの方が面白い。

いや、本当にな。楽しいだろ。それ。適切な距離感ってものがあるだろ。あれを、こう、ぐちゃっとやってさ。幸せじゃない。見限れ。見限られろ。触られたくねえ。消える日と消えない日をさ、1:1ぐらいで配置すればいよいよみんな幸福なんじゃない? あの、ボタン押すと床が抜けるやつ。あれ欲しいね。面白いよね。あれやりたいね。膝がね。多分死ぬよね。面白い。膝が笑うとか言うけど普通に笑うよね。押すと床が抜けるボタンでさ、頭をぶん殴るの。もう一回笑っちゃうな。ところで、自分の言動で相手の世界を縛ることをやすやす受容できる人間の気が知れない。多分無神経なんだろうね。無神経って何? 神経ないのお前? "無"だな。

 

 

 

銀色

 

 

一生綺麗なものだけを追い求めて生きていければいいです 正直、それが真理

現実逃避を繰り返して最後まで進むことはできる 嘘ではない

それを真っ向から否定する奴は自分の持たない能力を片手に踊る人間をひがんでいるのだ

花は好き 歯車は嫌い

青は好き 人食いの洞窟は嫌い

街を泳ぐ魚は好き 電灯のない街は歩けない

俺にはできる できない奴にはできない ただそれだけ

俺にとっては価値がある わからない奴にはわからないままでいい

そういうことができない人間のことを、わりと、どうでもいいものとして扱って生きてきました

正解です 真理です 事実です どっちでもいいのです コンビニに置いてある煙草みたいな 道沿いに等間隔に立つ電信柱みたいな

一生綺麗なものだけを追い求めて生きていればいいのです ゴミはゴミ箱へ よく知っているでしょう

苦痛は耐えられる耐えられない以前に、直面しなければいいのです

あなたにはその色が見えるか わからない奴は放っておけばいい 放っておけばお互い幸せでいられる よく知っている

見えなければその価値に気付くことすらできないのですが 御尤も、しょせんその程度の存在である あなたが積み上げたものよりずっと美しくて退屈な街を創り上げましょう

そういう視線で生きています いつだって監視者だ 生まれながらにして違っているのだ

 

まっすぐ歩け

 

 

 

サイダーアウトサイダーイン

 

 

部屋にものが増えていく。自然の摂理なのかもしれなかった。ゴミが増えていくというのではない。事実として使うものが増えていくのだ。なぜだか除湿器は2台あるし、パソコンも2台。ゲームのハードに至っては4つあるし(ひとつは俺のものではないのだが)、たくさんのCDに本棚を埋めていく本、売り切れない会誌の在庫に楽器までもが住んでいる。

どちらかというなら物欲はない方だ。説得力がないけれど、物欲がないわりに購買に対して行動力があるのだろう。俺は無駄に物を買う人間がいけ好かなくて、そうはなりたくなくて、だから裏を返せばここにあるすべてのものに意義があるとも言える(遥か昔に買って、読む気が全く湧かない本を除く)。高級品は望まない。身の丈に合うとも思えない。無理くり高いものを買って自分を誇示するのなら、その金を旨い飯に使いたいと思う。両立できるほどには金は余ってない。それが普通だ。その点俺は普通の範疇にいる。

 

これだけものが多いと、引っ越しが心配だ。京都での生活も折り返し地点にある。このままのペースで部屋にものが増えていくとなると、さらにこの3年後、引っ越し用トラックを3台は呼びつけなければ間に合わない。

果たしてどこに越すのだろう。住みにくさが高じると安いところへ引き越したくなる、どこへ越しても住みにくいと悟ったとき詩が生まれ画ができる、と誰かが言っていた気もするが、あいにくここは住みやすい。そのため詩も生まれなければ画もできない。さりとて、住みやすいとはいえ、京都にずっといるのはなんとなく嫌だ。だから就職先は別のところになるのだろうと考えている。

どこへ勤めるのだろう? わからない。横浜に住みたい。できれば、東京に近い街で暮らしたい。東京に住むのは気乗りしない。おそらく住んでみれば嫌気が差す。できれば嫌いになりたくない。横浜はよさそうだ。神戸に似ているし、そのうえ東京に近いものだから最適解だ。高望みなのかもしれないけれど。

ごちゃごちゃしているのは嫌いじゃない。今の自分の部屋も、楽器屋も、梅田のLOFTのあたりも。ああいう雑多感がむしろ救いに働くことがある。綺麗すぎるのは不気味だ。カラオケの、むせかえるような煙草の匂いが結構好きだったりする。チープさがいい。煙草の匂い自体もそんなに嫌いじゃない。煙草を吸うなんて死にに行くようなもので、でも現代文明に死にに行くという選択肢が残されているのがいい。不自然だとか統制だとかは好きじゃなくて、自然なのがいい。梅田の星がなにひとつとして見えない夜空とか、ああいうのに惹かれる。一人10000円ぐらいする高い飯もいいことにはいいが、5000円ぐらいのバルの飯がやっぱり好きだ。こういう具合に、当然の表情をして飄々と世界にのさばっている不等式をひっくり返してみたくなる夜があったりする。

 

 

聖火リレーというのがあって、あれは喩えとしては正しくないし美しくもない

 

 

 

永遠じゃないというのは呪いみたいなもので、あるいは業みたいなもので、というより業そのもので、噛み砕いた表現を使うなら状態異常みたいなものだと思っている。メメントモリ的な話をしたいんじゃなくて、もっとこう、過程の話をしたい。

結果に関心がある場合と過程に関心がある場合の2種類がある。手っ取り早く承認をされたい夜があって、過程という街路に等間隔で屹立している報酬としての感情――達成感のこと――を繊細な味覚を以て味わいたい朝がある。時間的な制約と常々戦い続けている我々にとっては、妥協こそ基本戦術であって、だから、針の穴に糸を通すような慎重さと器用さを道具に、空間と時間の調和を上手に掴まえて生きている。

過程に関心があって(こう書くと難しいので、いろいろやりたいことがある、とでも置き換えて了解してもらえるといい)、でもそんな精神の微熱に時間も肉体もついていけないから、押し黙って妥協をしている。理性の箍*1が外れると、抑圧したそのぶん、感情の怒涛が押し寄せる。理想というより痴心妄想に近いことを最近は言いがちで、同じぐらいの頻度でそれらについて考えているけれど、気取った言い方をするならそれは時間的制約からの逃亡、否定への否定であり、悪く言うなら目を背けているだけである。dayが頭につくだけで夢が空想になって、そのうえ語頭にのさばっているものは白痴である。そういう言葉遊びを思い出す。

 

白昼夢のことをcastle in the airとも言ったりするらしいが、それぐらい頭上の高くに理想がある。理想に追い縋ろうとする気概が事実存在しているだけマシなもので、炎が消えて、ロウソクが溶かされきって、黒しか残っていないような日を迎えたときが怖い。消さないようにしている。無意識の賜物だったりする。酒を飲む理由なんて半分それで*2、もう半分は眠るためだ*3

酒を飲むという行為を、俺は前述した理性の箍を外すものとして捉えている。自分から言ってしまおうかと口が動くのもそうだし、向こうも話半分で聞いてくれるからなおいい。やりたいことなら無限にある、それらを口にすることは好きだ、他人のそれに耳を傾けるのも同様に好きだったりする。酒は理性の箍を外すからよくないことを誘因して、でもそれだって使いようだったりする、そんな話だ。

 

そういう意味で、誰かと酒を飲むのは(やりようによっては)とても良くて、常々そういう種類の飲み方を、まるで薪をくべるようだと考えている。話は変わるが俺は俺と同じようにして文章を書いている人たちと少しの期間懇ろにさせてもらっていたことがあって*4、ああいう人たちが飲み会をやっているのを見て羨ましいと思う性分である。関西で開催されたひとつに参加させてもらったが、あまり喋れなかった(チキン)。またああいう機会があれば参加してみたいと思ってもいるし、でもそうなったとして、同じことを繰り返すのだろうな、とも考えている*5

羨ましいと思うのは、何かにつけて自分より優れた人間がいなければ、空中に浮かぶ城を目視すらできないから、そう考えている。何につけても自分一人では手に負えないことを知っている。限界があることを知っているが、観察する努力を怠れば、こうもたやすく限界が来る。よく知っている。簡単に終わりがやって来る。無防備にその場に立っていれば、永遠なんてないのだという事実の波に呑み込まれて、波打ち際に書いた文字みたいにさっぱり消える。

どうだろう。そうやって羨ましいという感情を積み重ねて、もどかしがって、そういうことを喋って欲しい。別に酒の有無はこの際どうでもいいや、そういう話を聞かせてくれたらなぁ、と思っていたりもする。誰に対してじゃない。

結局そういう話に落ち着いちゃったな。

 

 

 

*1:タガ、と読みます

*2:賢明な読者はここで「なぜ酒?」と思うに違いない

*3:俺はアルコール度数1桁代の酒にやすやすノックアウトされるアビリティを有している。計算機科学実験及演習では非常にこれに世話になった

*4:今はわりあいどうでもよくなってしまったので大したアクションも起こさずにいる

*5:年末に似たようなのがあったが、そもそも話したいと思った人がいなかったのでわざわざ口を開く動機がねえ。当たり前の話、素性を知らない人間に興味なんざ持つわけがない

アスファルトの黒

 

 

 

何かを得るたびに別の何かを捨てている。事実だ。当然だと思う。息をして、呼吸を繋いで、その分だけ過去を捨てている。忘れていく。真っ暗の方向へ一歩ずつ進んでいく。前に進むことは残りの時間を捨てることだ。動物は一生ぶんの心拍数が決まっているとか、そういう話を耳にした。有名な話だ。一回分の鼓動で、鼓動の残高を一回分消費している。当然だ。

今生きている人間は、それぞれが生きた分の集積として現れているという。そんなの嘘で、本当はバスケットみたいな存在なんだと思っている。ありったけを詰め込みたくて、そんなこと出来やしないから、好きな物から順番に詰め込んで、見たくないものは捨てている。詰め込めるものの量は生まれつき決まっている。歳を取っても永遠うだつが上がらないのはそういうことだ。キャパシティという言葉は人間を表現し得る。当然だ。

 

可能性の話で何者にだってなれるという。あれは半分正しいのだと思う。行けるところまでなら行ける、ただそれだけの話で、それを履き違えると、最後、墓場直行バスに死ぬまで体を揺られる目に遭う。当然だ。

捨てるってのはそういうことで、だから、毎朝ゴミ出しに行っているのと同じで、捨てなきゃいけないものを必死に抱き留めたりして、部屋に戻ってきてなお後ろ髪を引かれたりする。それは恐怖で仕方がない。今大事にしているそれらを、いつか捨てる日が来る。そういう日は来て欲しくないけど、でも、誰だっていつかはそれを捨てる。本当に怖い。怖くないか?

 

本当はもっとやりたいことがある。ひとりは気が楽で、でもそれと同じぐらいに誰かと言葉を交わしたい。やりたいことだらけ。誰かと交流することにおっくうになっている自分と、同じぐらいに新世界の空気を吸いたい自分がいる。そんなこと普段は言わないけど、安定を望むのと同じぐらいに変化を望んでいる。コミュニケーションは苦手だけど、嫌いでもない。会いたい。漠然と。そういう夜がある。今がそれ。

変わりたくないけど変わりたい。いくぶんか都合の良い夢を見たい。世界を塗りつぶされたくないけど、はたまたそうなってしまったらどうなるんだろうと期待をする自分もいる。日々、そういう自分を捨てて、つまらない選択肢を選び取って生きている。自覚がある。そんなもの嘆くだけなら誰だってできる。その先に進まなきゃ始まらないってことも理解している。そういう世界にいる。事実だ。当然だと思う。

捨てているという自覚をもって生きているか? 本当はもっと、何にでもなれたはずだ。無意識で殺してしまった無数の自分のことも考えてあげようぜ。そう思いながら、遠巻きに君たちの背中を見てるんだ、俺は。

 

 

 

眠る信号機

 

 

 

5日ぶりに外出をしてみると、普段何気なく通り過ぎる道の至る所に向けて、得体の知れない感触を抱いている自分に気付く。それはバランスみたいなものだと思う。どれだけそれが好きであろうと、ずっとベタベタ触っていれば、飽きたくなくても勝手に飽きる。そんな理屈だ。引っ付き過ぎず離れすぎずの距離感が一番やりやすいんだと思う。当たり前の話。

記憶の残り香をずっと探している。それを見つけて、どう言葉にするかをずっと考えている。同じことを繰り返せばいいってものでもない。同じ場所に行っても仕方がない。条件が同じで回数が違うのだから、減るにきまっている。写真を見ても同じようにはならない。それでも、探していた。

言葉にしたかったんだと思う。同じ景色を誰かに見せたかったんだと思う。同じ気持ちを抱いて欲しかったんだと思う。不可能じゃない。ついぞ同じ場所にいることは叶わなかったけれど、でも、まだ間に合う。そう思って言葉を書いている。ずっとそう思って書いてきた。俺自身を見て欲しかったんじゃなくて、俺の見た景色を誰かと共有したかった。記憶の海を繋げたかった。写真では伝わりきらないその世界を誰かに見せたかった。本質的に写真機を使うことができないようなその情景に触れて欲しかった。今もそんな気持ちで書いている。

伝えたいことがあるから書いているなんて半分たわごとみたいなものだと思う。その理屈では行けない場所がある。たとえば、伝えたいことがひとつもなくなったとき、何も書けなくなる。毎日が毎日そんな風な不甲斐ない日々ではないはずだ。だから、その理屈は脆弱だと思っている。全部じゃなくていい。半分でいい。半分ですらなくても、一部でいい。心のどこかに、その理屈を溜め込んでおいて、残りは別の動機を元手にして手を動かせばいいと思っている。真面目な日の6倍ぐらい、不真面目な日があればいい。全部が全部真面目なら、飽きるし、飽きられる。たまに真面目になったときに、心の蝋燭に火をつけて、それをぼうっと眺めていればいい。

その程度がいい。考えすぎるのはよくない。気の乗らないときは外界との繋がりを遮断すればいいし、逆なら逆でいい。引っ付き過ぎず離れすぎずの距離感が一番やりやすい。当たり前の話。

 

 

 

キャラメロイド

 

 

 

人と話しているとき、スケールのやたら大きな間違い探しを強制されている気分になる。俺は俺で自分のことしか見ていないからそういうのに躍起になって、欠落のひとつひとつに名前をつけて生きているけれど、誰だってそうなのかもしれないし、全員がそうでもないことは確かで、でも一定数そういう種類の人間がいるようなパターンなのかもしれない。そんなことはどうせ知り得ないのだから、どっちでもいい。可能性さえ思考の片隅に留めておけばいい。

自分しか見ていないのは如何なものかというのはフィロソフィーみたいなもので、自分の中での当然だ。他人がアンチテーゼであることは、そんな難しい言葉を介さなくても、誰だって知っている。大人になるまでに気付いている。でも、その指針を遵守できない自分がいる。見ていない。意識的に見ることすらやめてしまった。

どうでもよくなったわけでもなくて、何だろう、見飽きたのかもしれない。別にそうとも限らないけど、見飽きたというのは多少しっくりはまる。多少しっくりはまって、でも引っかかりが残る。消去法で解を選んだみたいなあの感覚。とにかく、他人について考えなくなった。他人事なのは百も承知で、その上で近づこうとする、みたいなことを意識していた、少なくとも今よりは。

その感覚をいつの間に手放したのか。

わからない。覚えていない。稲妻に触れて一瞬のうちに切り替わっていて、その瞬間を覚えていないだけなのか。あるいは、ゆっくりと時間をかけて感覚を失っていったのか。わからない。確かめ方がわからない。

でも、見られないことの恐怖は覚えている。感触として手元に残っている。無関心の刃が切り裂いた心臓の古傷は易々とは癒えない。知っている。何回だって飲み込んできた。沸騰した感情を理性で押し留めてきた。そんな日が少なくなってきて、多分、それが原因なんだと思う。

自分に多少の嘘をついてまでしないと花束を売れない自分が嫌だ。憎むべき人物像そのものに近づきつつある。たまには天気予報を見ないと、誰だっていつかは愛想を尽かすのだ。散々主張してきて、誰よりもそれに背く自分がいる。むしろ自分がそうできないからこそ主張をしているのかもしれない。

だから、謝らなきゃと思うんだよ。都合の良い嘘しかつけないことを謝りたい。ちゃんと向き合っていないことに謝りたい。そもそも謝らなきゃいけないことを謝りたい。

本当は、どうでもよくなっているんだろうね。多分そういうこと。工場で生産された造花の花束を握りしめて、笑顔を造っている。一生そのまま。造花もないよりはマシで、ある方がずっと良くて、特に紛い物だと見抜かれなければなおさら。枯れもしないし。でも、バレたら失望されるんだろうな。大丈夫。一生隠しているつもり。