ペダンチストを殺すな

感情を司ってる自分はたぶん無数に存在して、それぞれが無限次元空間のベクトルとしてステータスを保持しているのだろう。僕らの表層に現れる自分とはその重ね合わせなんだけど、人は必要に応じてその矢印を自分にカウントするか取捨選択を行っている。たまたま強い感情がそこに立ち現れれば、それ以外の矢印を無視するだとか、でも強い矢印を無視したいと思う感情が強くなれば、勝手に平衡のように矢印は無色透明に染まっていく。

死にたいなんて軽率に口にしちゃいけないなと常に言葉にするのは死にたいと謂う人間が得てして本気でそう思ってなどおらずそんな言葉を口にした払暁に軽蔑侮蔑憐憫顰蹙の視線が全身を貫いていくから、そして自分もそう言いたい割には本気でそう思っていないことを思い知らされるから、染まりたくない色に無意識に染まってしまう、染まってしまってることに気付くからだ。でも死にたいとか苦しいとかいう矢印は昔よりもだいぶ半透明に近づいている気がする。これは自分が無意識に矢印に透明のペンキを塗りたくったからなのか、それともほかの矢印を選び取った結果なのか。当然ながら矢印は透明に近づいただけであって少しも成分の変化をしていないのである。自分を駆り立てる根底にはこの矢印があって、普段通り何も考えずに生きていても矢印が顔を出すことがよくある。一度空いた風穴というものはなかなか塞がることをしない。塞がったつもりになっていてもちゃんと穴は空いているし、無数の絆創膏で穴の上から上書きを繰り返してみても皮膚と絆創膏の違いが判らないほど盲目ではない。この前空いた穴は塞がってるかな、と気になって絆創膏を剥がし、穴が塞がるどころか1ミリも回復してないことに気付く。僕はまだ死にたいんだと思う。死にたくないのに死にたがってる動物を心に飼っている。矛盾しているのは逆方向の矢印たちを心臓に抱えているからだ。換言すれば、矛盾を綺麗さっぱり消し去るためには心臓を破壊するしかないのである。もう一度換言すれば、生きている以上矛盾から逃げることはできない、矛盾の存在は矛盾してないし、矛盾を悪だとみなしているのは人間だけであり、人間が矛盾を矛盾だと考えるのは人間が矛盾しているから、だからだ。

至極当然の結末を婉曲的に伝えたいのは自己顕示の表れである。

自己顕示は見るに堪えないことが多いけれど、これを是認できない人は開き直れる人と脳の構造が違うんだと思う。自己顕示に寛容でない人は、自分の能力では成し遂げられないことをやってのけた他人に嫉妬しているだけなんだ、例えば「ギターを弾く動画をアップロードする人」に「この人の自己顕示欲やばいな、見苦しい」と考える人はギターを弾ける他人に嫉妬しているだけなんだ。全く嫉妬していないのなら無関心になるはずだろう。初めから乖離しているんだ、自己顕示に開き直れる人と容認できない人は。何か創作的なことをする以上、後者であってはいけない。で、創作する人としない人とで、脳の内面の構造の差異が事実の違いというものを作っていく。ますます二分化されていく。安全地帯から銃口を燻らせるだけで何もしない人間になりたくない。他人の心に響くか否かなんて二の次、含羞の色を犠牲にしてでも何かを作り上げなければならない。

僕はそう思うよ。じゃあ君ら何のために生きてるの、って話だからね。

死にたいって思うんなら死にたくない理由を見つけなきゃいけないんだよ。