赧色宇宙と燃える深海のサナトリウム

人間というものは、死んでしまった人を亡霊と呼んで死者はまだこの世に存在するのだと盲信したり、枯れ尾花をあれは亡霊だと自己暗示により思い込んだりして、藁と言うには脆弱すぎる理論に一縷の希望を求めて縋り付いたりする。死んだ生物に最優先でのしかかるものはそれがもう死体に過ぎぬという事実であり、世はまこと自分の思うままにはならぬという烏滸がましい諦念と泣き寝入りばかりが泥のように世界を埋め尽くしてきた。死という概念は道楽を得るために必要な時限爆弾である、というのも誰かが僕らの了解を得ずに道楽と恐怖を同時に味わえる世界への入場を強制した以上、道楽を得ることに対する生贄が死への恐怖だと考えてしかるべきだからだ。自分の意志に関係なく僕らはここに存在することに、永遠が存在しないことに対する99%の恐怖と永遠が存在しないことに対する1%の安堵を覚えるのが常である。

生きていることと死んでいることの違いは、事実の上に鎮座しているもののように思える。ただ生物学的に人が生きていたりすることが生と死の境界線というのは少し浅すぎやしないか。ここで、心臓が止まって脳が動かない状態になっていても人はまだ生きられるという持論を打ち立てたい。着想は日々を惰眠と甘いお菓子をむさぼるように生きている自分が死体と何も変わらないことから得たもので、換言するに僕は心臓も脳も肺も胃も腸も動いているのに生きている心地がしない気分になったことである。生ける屍である。ならばその逆、死した生きばねというのも考えられるのではないか。生と死の概念を都合よく拡張すれば、死んでなお他人に影響を与え続ける人物というのはまだ生きていると言えるのではなかろうかと思う次第である。例えば遺作が名作として語り継がれている芸術家の緋い血は、作品に共鳴する後世の人々に確かに流れている。彼に影響を受けた人物がその内に秘めたる思いだとかを言葉にし、世界に叫び、あるいは作品として残す。その作品にかつての彼の思いが一ミリでも含まれているんだとしたら、彼はそのときまだ生きているのである。死んでなどいない。

 

結論。

「創作活動は死への精一杯の抵抗である」