心臓サイコエキセントリー

自分ができることというのは他の人が自分と同様にできることで、ただその人がやらないという選択をしたからやらなかっただけだ、というマニフェストを標榜して生きてきたし、多分これからもそう考えて生きていくんだろうと思う。そうでもしないとすぐ傲岸不遜の風に当てられるからだ。

烏滸がましきは見苦しい。他人にどう思われようと自分があればそれでいいという考え方は一見軸がしっかりしているように思えるけど、そんなものただ非常識なだけで、自分の見目形や言動がいかに自分の生活しやすさしにくさに影響するかを知らない一人の動物に墜落するのみだ。

そしてそういう自己暗示に耽溺する一種の逃避を繰り返していたからか知らないけれど、(知人程度に視界を固定してみても)本当に自分にだけできることって全く存在しないんじゃないかと思う。誰だってそうだろうと思う。君にしかできないというのはただのお世辞だったりお為ごかしだったり打算の上の誘導だったりする。でも自己肯定感を得たいと思うから、他人の「貴方は唯一無二だ」という言葉を真に受けてしまったり、誰も「貴方は唯一無二だ」とすら言ってないにもかかわらず、そう言われたんだ、と勘違いしてしまう、そうやって他人を消費してしまう。

人は何かしらを偽って生きている。主語が大きいと宣う人には反例を挙げろとぶつけておけば良い。本当は好きじゃないものを好きだと平気で嘘をつく。嘘をついた自覚がないこともよくある。あるロックバンドが好きなんじゃなくて、あるロックバンドに精通した自分が好きなだけだったりする。猫が好きな自分が好きな人。自分が他人にアノマリーだと思われるのが好きな人。僕らはそうやって嘘をついてることが明らかなときだけ君は嘘をついているという事実に気付くんだけど、そうでないときにはすぐ騙されるんだ。自分が本当にあるものを好きだと考えてることはどうやって証明できるんだ、できやしない。自分が本当に好きなものは何なんだ。ある事物の、ある事象の全てが好きな人なんていないはずなんだよな。人の好きな部分と嫌いな部分について、人は適宜折り合いをつけて生きてる、これは僕だけの話かもしれないんだけど。人のいいところは受け入れて悪いところは目を瞑ったり、人のいいところを無視して悪いところばかり目に入ったり。自分で自分を騙しているんだ。適度に自分を騙して他人を騙して、都合よく生きている。

人間の主体性はどこに行ったんだろう。でも主体性なんて、文化とか思考とか事実とか肩書きとか宗教とか感情とか容姿とか認識とか五感とか六感とか未来志向とか経験とか生とか死とか文明とか言語化とか、人が獲得してきたあらゆる肉片をすべて削ぎ落として初めて現れるものなんだろうな。そこまで削ぎ落とす前に人はナイフの使い方を忘れるだろうし、ナイフの使い方を覚えてしまったらやっぱりその肉片を削ぎ落とさなきゃいけない。どこまでが人間なんだ。自分は結局どこにいるんだ。自分とかいう言葉も自分を着飾る言葉なんだよな。どうしようもないことなんだよな。でもどうでもいいことなんだよな。

誰だって自分に騙されているんだし、せめて自分に騙され過ぎないように生きなきゃ。