最北端

誰かに認められたいというのと自分で自分を承認したいというのにはとんでもない隔たりがあると思うんだけど、これを分かってくれる人はそうそう多くはないというのが経験則の中にあるし、「俺は誰かに認められたいんじゃなくて自分自身に認められたいのだ」とぶつくさ呟いたところで、承認欲求の萌芽を恥じている人特有の言い訳にしか思えないから説得力がない。

漠然と何かになりたがっている。問題はいわゆる目標だとか終着点だとかそういった趣の言葉で表現されるものがはっきりしていないことなのだ。何かになりたいのならやるべきことはおのずと定まってくるのに、その前提がそもそも欠落している。努力をしようにも具体的に何をすればいいのか分からないし、気分で何かを始めてみたところですぐに飽きる。

趣味というものは人となりの大部分を食っている重要なパーツだと思う。自己紹介では何かと趣味の公開を要求される。趣味には受動的なものと能動的なものの二種類があって、前者は無意味(念のため記載しておくが、無意味とはいえ無価値ではないと捉えている)だと思うことがよくあるし、後者は自分との戦いを余儀なくされることがままあって、趣味という気楽な風情の割に壮絶な苦痛を伴うことが多い。まさしく一長一短、最適解など存在し得ない。

流れに逆らうほどの撃力を持った行動は自分のあとについて回らないのに、安易な自分を変えたいと思っている。何かにならなければならないという自然発生的な危機感が絶えず心臓を抑えつけているが、何になればいいのかはわからないし、そもそも人は何かになるような存在ではないと思ってすらいる。誰かを目標にすればいいのかと思って、色々な人間を思い浮かべてみるが、別にああなりたいわけじゃないな、と思ってしまう。

他人の形容詞についてよく考える。普段頻繁に会うような人間を思い浮かべてみて、こいつはこういう奴だ、というのを真剣に考えてみる。例えばあいつは歌が上手い、あいつはよく寝る、あいつはゲームが上手い、あいつは面白い……そんな具合だ。

他人の趣味についても考えてみる。あいつの趣味はこうだ、あいつはよくああいうことをしている、あいつは珍しい趣味をしている……。

どんな角度から現実を見下ろしてみたところで、なんとなく空虚だな、と思うときがある。あいつは頭がいいが、頭が良かったところで何にもなりやしない。逆にあいつは頭が悪いが、別にだからといって何か悪いことがあるわけでもない。あいつは運動神経がいい。しかしだからといって特に意味はない。あいつは独特のオーラを醸し出しているが、それだけのことである。正でも負でもない、まぎれもない完璧な0がそこにはある。

楽しそうにしている人を思い浮かべてみる。

そんなもの一時的な感情に過ぎないのだから、別に意味はない。

今まで生きてきた瞬間瞬間に表出していた感情に何か意味があったのだろうか。何が楽しくて生きてきていたのだろう。わからない。でも、感情は人の制御の埒外にあるから、日々移り変わるそれらに身を委ねていれば、それでよかった。

 

ゲームをやりたいという衝動に駆られるがままにゲームをやる。後学のために純文学を読む。娯楽として大衆文学に目を通す。音楽を聴く。文章を書く。

知らない街を歩く。知らない街の知らない風景の写真を撮る。美味しいご飯を食べる。酒を飲む。高いビールをジンジャーエールで割る。麻雀をする。下らないテーブルゲームをする。想像力で行ける所までの範囲内で、友達に架空の話を聞かせる。

本屋に行く。夕焼けを撮る。空を眺める。喫茶店でひとりで時間を潰す。あれこれとものを考える。言葉遊びを必死に考える。ライブに行く。コーヒーを啜ってお菓子を食べる。たまに数学の問題を考える。ひとりで映画を観に行く。カラオケに行く。

 

たったそれだけだ。

生産性。

何をするにつけても、今は生産性が感じられない。

世の中の誰もが、非生産的な行動にかまけているように思える。実際にそうであるはずはない。でも、今の自分にはそうとしか思えない。

嘘を妄信している。世の中の行動すべてが生産性のない行動であるわけがないのに、その架空を疑えない。

 

来るとこまで来た感がある。

レモンの爆弾を画材屋に置きたい気分だ。

何か偶然が降ってこないかな。