クリシェの殺し方

突然ですが、ここでクリシェの話をします。

 

この記事を書くそもそもの動機です。

 

動機その1

なんとなく最近、クリシェという言葉が独り歩きしている感があって、このまま放置しておくと周囲の人間に「何かにつけて『クリシェ!!!!!!』と叫んでいるヤバい人間」と認識されかねないので

 

動機その2

というか自分自身もクリシェについて正しい認識をしているのか自信がなくなってきたので

 

記事のレゾンデートルについては、9割9分僕自身のために書かれたものだと考えてください(これを読んでいる人が存在しているという前提で書いているのもなんだか不思議なものですが)。また、過度な一般化による反撃を極度に恐れているので、ich denke*1構文が繰り返されています。

非常に大事なことなので何度も声を高くして言いますが、この記事に記載されている内容は文章論ではなく私見です。個人の見解であり、他人に向けたアドバイスの類でも何でもありません。たまにツイッターに流れてくる、アマチュア文字書きの文章製作論みたいなのが大の苦手で、ああいうのと同一視されることだけは避けたいなぁと思うのです。

 

理性と感情のスタビライザー:いくら理性的に生きようと思っても、あらぬところで感情的になってしまってとんでもない言動に走ってしまうことがザラにありますが、それを防ぐためにあらかじめいろいろな私信を明文化しておいて、感情に天秤が傾いたときに過去の自分の発言との整合性を保とうとする本能を利用して、衝動的に何かを破壊してしまいそうになるのを防ぐのです。

 

 

留意:以下における「クリシェ」という言葉の指す内容は、あくまで僕自身の解釈によるローカルな意味です。換言すると、「僕の口から出るクリシェという言葉の意味」であって、「世の中に広く用いられるクリシェという言葉の意味」ではありません。

 

 

 

クリシェとは

 

フランス語で常套句。ここまでが辞書的意味です。以下は辞書的意味に色んなものを付け加えたクリシェ、いわば改造クリシェです。改造というわりには普通のことを言っておりますけれども。

物語や文章表現において、あまりに用いられすぎているがゆえに、読者の目には陳腐に映る展開や表現技法のこと

*2

以下は僕が散々口にしている、クリシェの例です。

主人公周りの状況が悪くなったときに雨を降らすのはクリシェ!!!

で、なんやかんやあって状況が好転したときに都合よく晴れるのはクリシェ!!!

雨上がりに虹が架かるのはクリシェ!!!

軽率に泣かせるのはクリシェ!!!

 

クリシェの何が悪いのか

 

あえて断定口調で書きますが、クリシェ自体は悪いことではありません。そもそも文章を善悪の軸で測ること自体はちゃめちゃに無粋ですけれども*3、まぁそれは置いておくとして、それにしたってクリシェを使うこと自体は許されることであって然るべきです。それならこんな文章書くなよという話なのですが、事態はそんなに単純でもありません。クリシェという存在は折角綺麗に仕上がった作品の質を破壊しかねない不穏分子であり、爆弾だとかダイナマイトだとか、そういう毒にも薬にもなるような危険な存在なのです。危険物は慎重に扱わねばなりません。危険物であるからこそ、クリシェは出来る限り用いない方が良いし、用いるにしても何らかの正当な理由を以て行使しなければならない、というのが僕の立場です。

ところがクリシェというものは「じゃあ使わなくていいや、これで満足か?」で済むようなアレでもありません。というのも、書き手側がクリシェクリシェと認識できない場合があるからです。この事実がクリシェを猛毒たらしめているのですよね。先のクリシェの例だって、ああいう流れの作品を全く知らない人からしてみれば新鮮に映るはずです。

(以下、読み飛ばしていただいて構いません。少し難しい話です。)

突き詰めると、クリシェクリシェと認識するか否かというのは、読者の経験の問題であって、本来なら作者に無関係だ、という結論に到達します。例えば「日本人だと思ってた人が日本人名を騙った外国人だった!という叙述トリック」の含まれる作品を読みまくった人からすれば、その技法はもうクリシェなのでしょう。現実にはそんな作品は数えるほどしか存在しないはずだし、それをクリシェと認識しない人が大半です。つまりある技法がクリシェクリシェじゃないかという判断は、「それをクリシェと認識する人間の割合がある一定値を超えているか否か」という判断基準に依るものになります。自然言語は難しいという方のために、簡単にモデル化します。

関数σは展開ないし技法それぞれに与えられる固有の関数です。引数に読者を取り、その展開ないし技法を読者がクリシェと判断すれば1を、そうでなければ0を返す二値関数です。

素数が充分に大きな集合Xは、各読者xを要素に取ります。先述の閾値をτ(0<τ<1)として、Σ{σ(x)} / |X| >= τ であれば クリシェ、そうでなければクリシェでない、と判断する、ということです。

このモデル化は、数学的にとらえて厳密性が云々という意図で行われているのではなく、単純に数式で記述した方が分かりやすいから、という理由によるものです。

 

結局クリシェはどこがどう駄目なのか?

 

読者がクリシェクリシェと認識してしまった場合のデメリットは、「一部の読者が読む気をなくす」に尽きます。まぁ萎えるんですよね。「しょーもな」みたいな。ちょっくら「ダメなクリシェ」のカテゴライズでもしておきましょうか。

  • 如何せんそのクリシェがあまりに用いられすぎている
例えば一部の(ここ重要)Jpopやアイドルソングだと雨上がりには100%虹がかかりますし、離れていても空は繋がっていますよね。そういう類の歌でそうなってしまいがちなのは、歌詞に深い意味をこめても意味がないからです。そういう歌を聴く人が注意を向けているのは歌声だとか歌の上手さだとかであって、歌詞は体裁のための道具に過ぎないんですよね。でも文章は日本語のみが構成要素なので、ただ一つの表現手段であるその部分でクリシェを使ってしまうと、致命的な安直さを生み出してしまうことになります。
  • 文章の核となる部分(大きな伏線や文章の主題)がありきたり
「離れていても空は繋がっている」ってことを主題にした小説、読みたくなくないですか? 肝心の最後のセリフが「でも、離れていても空は繋がっているよね」である小説を想像して見てください。多分僕なら下宿のど真ん中に3秒でキャンプファイヤーを建設して高らかな歌と共に本が燃え尽きるのを眺めることになると思います。
  • 自明なことをわざわざ1ページぐらい使ってつらつら述べている
そんな誰でも思いつくようなことをだらだら書かないでくれよ……という気持ちになる。
 
ここで問題になるのは、「クリシェ、別に悪いことしてなくない?」という意見です。確かにクリシェの価値は0かもしれないけれど、価値を下げるような狼藉を働いているわけじゃない、と。
 
いや、ね。読者の時間を奪ってるんですよ。これを言うと、自分が読者の立場に立ったときはそんな意識(自分はわざわざ貴重な時間を払っているのだという意識)は働いてない、とよく言われます。僕もそんな意識を持って読書をしてるわけじゃないです。(たまに超絶下手くそな文章を読まされているときに時間返せという気持ちにはなるけれど。)それでも、読者の時間を借りているという意識を持つこと自体は大事だと思うんですよ。あくまで主観だし僕の見解ですけどね。それが自分の作品を読んでくれる人への僕なりの最大限の敬意なのだと考えています。
 
僕には、あくまで僕に限った話なので全然気にしないでいただきたいんですけれども、作者は読者にある程度新しいものを供給すべきだという意識があるんですよね。読書って本を読んでそれで終わり、で済ませるようなものじゃないでしょう? 買った、読んだ、終了、で済ませるのはあまりに淡泊すぎやしませんか。読んでその後に読者自身があれこれ思索するのが読書体験ってものじゃないですか。ショーペンハウアーも確かそう言ってる[要出典]。文章に書かれてる内容が全てどこかで見聞きしたものだったら、それが出来ないんですよね。読書前と読書後で別人が出来上がっていなければならないから、読書で何も得るものが無いというのはもう完璧に読書の意味を削いでいるに等しいのです。
 

クリシェの避け方

 

実際に書き手がクリシェを避けるにはどうすればいいのでしょうかね。僕は二つの方法論があると思っていて、それらは仰々しくここに書くまでもなく大勢の書き手が無意識にやっていることではないでしょうか。多分。

  • 経験

ひとつはシンプルに、読書歴を積んで、ありきたりな事象に対するアンテナを強化することです。たくさん文章を読んで、クリシェクリシェと認識できるようになるぞ! という策ですね。

  • 隠匿

もうひとつは、クリシェクリシェと認識させないような文章力で押し切ることです。たとえ展開がチープでも、それに上乗せされている日本語の文章力が目を見張るものであれば、人間そちら側に目が行きがちです。「うわ、文章うま!」という感想だけ抱いて、実は展開がありきたりであったことを隠匿できます。何ていうんですかね。言葉は悪いですけど、火事場泥棒って感じですかね。ちょっと違うか。巨大花火を打ち上げて、みんながそちらに目を向けている隙に雲隠れする雰囲気です。

 

例外

 

結局のところ、クリシェを用いる行為は僕の倫理観においては極力避けるべきだと判断されています。でもクリシェを使っても良い場面だってあるはずなので、それについて軽く論じておきます。この節はクリシェを使いそうになったときに自戒として働く予定で書いているのですが、それが丸々この節の存在意義になっていたりもします。

  •  代替案がないとき / 代替により文章の存在意義が消滅してしまうとき
軽率に登場人物を殺したり、軽率に泣かせて読者にお涙頂戴させたりするのは一種のクリシェですが、じゃあ殺さないでおこうだとか泣かさないでおこうと簡単に鞍替えしてしまっても、それはそれで結果について回るのは中身のない文章です。そもそも人が死ぬ文章を書きたいのに「人が死ぬのはクリシェ!」みだいな雑なことを言われても困る、みたいな状況でのクリシェは許されてしかるべきだと思われます。クリシェを書かなければならない状況に陥ったとき、「クリシェを書く!」という意識と覚悟をもって製作に挑まなければならないのですが、その意識と覚悟が欠如した状態で製作に特攻するのは無謀極まります。すなわち、「書こうとした主題がクリシェである」場合、「クリシェだと認識し」、「それを念頭において製作を進めている」という2条件が揃っていれば特に問題はないのです。
問題になるのは、本当に代替案がないか? というところです。
例えば人は心模様を空模様にメタファライズしがちで、「外は雨が降っていて、それは俺の心の雨のようだ」みたいな比喩*4を用いてしまったが最後、各方面から容赦のない「クリシェ!!!」コールが飛んできます。ここで先ほどの理論「代替案がない」を用いることができます。すなわち、「クリシェだとは分かっているが、それでも俺はこれを敢えて書くのだ」と主張することで、外野の野次を一蹴することができます。
ところがその道理がまかり通るのは代替案がない場合の話。先ほどの下手くそなシミリは「語り手の心情が悲しみに満ち溢れている」ことを表現しようとしたに違いないのですが、内的なシグナルにせよ外的なシグナルにせよ、悲しみを表現するのならベターな表現がいくらでも思いつくはずです(思いつかないのは単純に書き手の能力不足)。比喩ひとつひとつにつけても、よく見る表現に逃げるのではなく、「同じぐらいに読者の想像の手助けになる比喩で、少なくとも自分は見たことのない比喩」を用いるべきです。文章に真摯に向き合うならね。でも毎回そんなことをやるのは時間がかかって仕方がないし全身の骨も脊椎から耳小骨に至るまでバキバキに折れてしまうので、多少の妥協は許されるものだと考えています。
 
比喩は色々と考えて使っているのですが、他人の比喩を意識的に流用したことは3回記憶していて、ひとつは「眠りの粒子」、これはとあるssからの流用です。ふたつめは「氷を抱きしめるような儚さ」、これは安吾です。最後のひとつは「世の中のどっちを向いてもつまらなさそうにしているような」、これは漱石ですね。ちなみに今まで自分が使った比喩で一番好きなのは「ざまあみろ、というような折れ方をした信号機」です。多くは語りませんが(すでに多く語っているので説得力が皆無)、人類にこき使われていて休まず働かされていた信号機が人類滅亡に際してざまあみろという言葉と共にぽっきり折れているというのが良い。初見で「いやどんな折れ方やねん」ってツッコみたくなるところも好き。何よりこの比喩、信号機が折れているところを想像したら「ざまあみろ」って言葉が無意識から漂着したというエピソードがあって、なんとなくその偶然が心に触れて離れないのです。結局めちゃくちゃ長く語っててもうダメ。
 
もうひとつの例外です。
  • 消費されるための文章を書くとき

もうこれに尽きます。雑な設定、安直なご都合主義、雑巾みたいに使い古されたお涙頂戴のお話。一部のJpopも同じような感じなのですが、量産されて、消費されて、飽きられて廃棄される、そんな文章を書きたいのならクリシェをバンバン使いましょう。何故って? 何も考えずに文章が書けるからです。枠に当てはめて素早く文章を作れますからね。

 

結論

 

『結局さ、圧倒的文章力でねじ伏せればいいんじゃね?』

真実です。先述の通り、文章力でクリシェの存在を隠匿することができるので。

まぁ、書きようなんですよね。とどのつまり、クリシェがどうこうというよりも、クリシェをどう書くかで文章の質は変わってきます。では早く文章うまおになりましょう、以上!!!……で済めば話は早いのですけどね。文豪レベルの文章力がないのなら、クリシェを避ける努力が必要になります。分かりやすい話です。文章力があれば何書いても面白いのだし、逆に文章力がなくてもアイデアが斬新であれば作品は評価されることが多いのですよね。自明。小学生でも知ってる。

さて、僕が「クリシェ!!!!」と叫んだときにどう対処すればいいのかについて。「いや、うっとうしいし顔面殴ればよくね?」とかそういう話ではなく、僕に限らずとも誰かが「これはクリシェだし書き換えた方が良いよ」と主張するに至ったとき、具体的にどう書き換えるか、という話です。こういうときに明文化は役に立ちます。まずクリシェが文章に存在しているということは、クリシェクリシェと認識できていないか、クリシェと認識しているが敢えてそのままにしているかのどちらかです。前者の場合、作者は代替表現、あるいは代替となる展開を探すべきです。この作業が終わり、もし代替表現が見つからないのであれば、後者の「クリシェと認識しているが敢えてそのままにしてある」パターンに集約されます。後者の対処法ですが、悲しいことに一つしかなく、しかも激しい技術が要求されます。「その箇所の日本語を洗練させる」ことです。要は文章力の鬼になれという話です。

無茶振りが過ぎますよね。でも天神なら大丈夫。分かりやすい学習システムはありませんが、もうひとつの方法があります。

「消し飛ばす」

 

というわけで、クリシェとのツッコミを受けたら、以上の方針に基づいてクリシェを殺しましょう。以上です。

*1:思索の結果としてのI thinkはドイツ語で書きたくなるんですよね。功績のある哲学者が多いからなのでしょうか

*2:現実世界の僕は、ここで右に用意してあったシャンディガフに口をつけ始めました

*3:そもそものそもそもですが、人の文章論に口を出すこともYOKEI NA OSEWAですね

*4:これはシミリで、メタファーではない