吐き出す

どうにも理由は思い出せないけれど、ここ1年の私の生存戦略の中に最優先事項として「ものを書く」というのが君臨し続けていた。とかく五感に気を配り、道を歩けばこの景色はまるでこれのようだと比喩に思いを巡らせ、ときに本を食べ、ときに文章をこねくり回し、そうやって生きてきた。

ものを書くのは上手い方ではなかった。そもそも今も上手いとは到底思えないものを書いているという自覚がある。ただ、昔から思いの丈を淡々と綴るのが好きだった。思い返せばそれは、何も武器を持たない私の唯一の自己表現だったのだろう。

ブログに思索の結果を掲載するという習慣は高校時代からあった。大学に入って、ひょんなことから書く内容が、論説的な文章から物語的な文章に遷移した。半年ほど書いているうちに、どうにも誰かにそれを褒められるようになった。

私には人の心を動かせるようなものを書いたという自覚が無かった。私は自分の世界観が決して万人受けしないことをよく心得ていたし、その態度は大学に入学した時点で既に極端まで行っていた。自分の好きな要素が他人のそれと同一でないことがザラにあるというのは当たり前のことにしても、自分の世界なんて誰一人として理解してくれないものだと思っていたのだ。それは経験則に基づいた諦念だったのだろう。

少しだけ他人を信じてみようという気持ち――心地の良い痺れが手の先に広がっていくようなあの感覚を、今の私はありありと思い出せる。

 

時が過ぎて3年目の夏を迎えた。

私はそんなささやかな承認を得るのにも飽きてしまった。

何様のつもりだと言われれば、申し訳ないと平身低頭する以外にない。

しかしそれは事実だ。いくら私がそれを拒絶しようとも、私の体内でその感情は生き生きと呼吸をしている。

退屈。

その言葉が脳裏を掠めたその瞬間から、私はその二文字を体内に飼うこととなる。

 

どうして文章を書いているのだろう? ものを書くのが楽しいと思える瞬間はある。でもその楽しいという感情は、「こういうことを書くと読者にインパクトを与えられそうだな」だとか、「こう書くと文章が巧いと思われるんじゃなかろうか」とか、そういった不純な理由に起因するものである。昔はその限りではなかったかもしれない。いや、そんな理由はどこにもなかったはずだ。だって、誰かに読まれることを想定して書いたことが一度もなかったのだから。例のブログだって、誰にも読まれずに電子の海で漂流物のように浮かんでいればいいと思いつつ書いていた。

今はどうだろう。誰かに見られることを無意識に脳内で想定している。

無論、一般的にそれは決して悪いことじゃない。

でも、その態度は、かつての自分のそれとは大きく異なっている。

承認を得るのにも飽きたし、承認を得るために文章を書くという行為にも飽きが来た。

するとどうだろう。より美しい日本語を書くためのここ2年でのたゆまぬ努力が、あまりにも無意味な行為だったと思えて仕方がないのだ。

全てが土に還ったような、そんな感覚だ。

 

私はいま、幻想から解き放たれたのだと思う。

承認されたいという不安定な拠り所から解放されたのだ。

悪いことではない。承認を得たいという動機を失ったとしても、私はきっと、惰性で文章を書き続ける。私が日本語を綴る動機の全てから、不純なものを抜き去って、最終的に残った赤い炎を灯りにすればいい。

私はこれをむしろ幸福だと捉えている。

またとないチャンスだと考えている。

ようやく私は現実を見られるのだ。

無知から解放されるのだ。