電気毛布エクスタシーシンドロームカタライザ

自分が電気毛布にくるまっているかいないかなんて世界線に影響しないけど、電気毛布にくるまる人を想像して面白いと考えるがゆえに自分は電気毛布にくるまっているのだと平気で嘘をつく。電気毛布にくるまってうねうねと呻き蠢きつつ一方で小難しい文章を書こうとしていることの乖離に嘘をつかされている。淡い水色の電気毛布がしがみついてくるから仕方がない。温度が高い電気毛布は季節によっては飼い犬の様に僕にへばりついて離れないのである。幸福の代償としての変化は人を殺さないための抑鬱剤で、つまり冬は厳しいものである一方で冬がなければ得難い幸福感を液体の様に絶えず流し込んでいくという性質を背負い込んでいる。暖かい電気毛布に全身を掬われながら一生を終えれればよいのである。

嘘をつくことに敏感な人は物語が嘘をつきたい欲求から紡ぎだされていることを知らないのかもしれない。世界観に自分を投射して虚構という世界の裏側に入り込みたいと思ったのは何も読者だけではないのだ、なによりも作者がその行為の魁である。電気毛布にくるまらず真顔でキーボードの音を堪能する自分よりも電気毛布にくるまってしがない言い訳をくらくらと振りかざしている自分の方が楽しそうだから、自分がそうあってほしいから、虚構という名の嘘を騙る。一秒の狂いもなく自己完結である。嘘と本音の二項対立に際する虚構と現実の対峙は似て非なるものであるが、両者は放っておけば勝手に混同されたりする。文頭に立ち戻っていえば、世界線に影響を与えるのが嘘であり、影響を与えないのが虚構か。よくわからない結論を抽出してしまった。この化学物質には何の意味もないが、いつかすべてが磁石の様にくっつく日のために観葉植物の横に置いておこう。

 

京都が恋しい。正確には京都に存在する僕の欠片をかき集めたいというか。ラーメン食べたい。

赧色宇宙と燃える深海のサナトリウム

人間というものは、死んでしまった人を亡霊と呼んで死者はまだこの世に存在するのだと盲信したり、枯れ尾花をあれは亡霊だと自己暗示により思い込んだりして、藁と言うには脆弱すぎる理論に一縷の希望を求めて縋り付いたりする。死んだ生物に最優先でのしかかるものはそれがもう死体に過ぎぬという事実であり、世はまこと自分の思うままにはならぬという烏滸がましい諦念と泣き寝入りばかりが泥のように世界を埋め尽くしてきた。死という概念は道楽を得るために必要な時限爆弾である、というのも誰かが僕らの了解を得ずに道楽と恐怖を同時に味わえる世界への入場を強制した以上、道楽を得ることに対する生贄が死への恐怖だと考えてしかるべきだからだ。自分の意志に関係なく僕らはここに存在することに、永遠が存在しないことに対する99%の恐怖と永遠が存在しないことに対する1%の安堵を覚えるのが常である。

生きていることと死んでいることの違いは、事実の上に鎮座しているもののように思える。ただ生物学的に人が生きていたりすることが生と死の境界線というのは少し浅すぎやしないか。ここで、心臓が止まって脳が動かない状態になっていても人はまだ生きられるという持論を打ち立てたい。着想は日々を惰眠と甘いお菓子をむさぼるように生きている自分が死体と何も変わらないことから得たもので、換言するに僕は心臓も脳も肺も胃も腸も動いているのに生きている心地がしない気分になったことである。生ける屍である。ならばその逆、死した生きばねというのも考えられるのではないか。生と死の概念を都合よく拡張すれば、死んでなお他人に影響を与え続ける人物というのはまだ生きていると言えるのではなかろうかと思う次第である。例えば遺作が名作として語り継がれている芸術家の緋い血は、作品に共鳴する後世の人々に確かに流れている。彼に影響を受けた人物がその内に秘めたる思いだとかを言葉にし、世界に叫び、あるいは作品として残す。その作品にかつての彼の思いが一ミリでも含まれているんだとしたら、彼はそのときまだ生きているのである。死んでなどいない。

 

結論。

「創作活動は死への精一杯の抵抗である」

ペダンチストを殺すな

感情を司ってる自分はたぶん無数に存在して、それぞれが無限次元空間のベクトルとしてステータスを保持しているのだろう。僕らの表層に現れる自分とはその重ね合わせなんだけど、人は必要に応じてその矢印を自分にカウントするか取捨選択を行っている。たまたま強い感情がそこに立ち現れれば、それ以外の矢印を無視するだとか、でも強い矢印を無視したいと思う感情が強くなれば、勝手に平衡のように矢印は無色透明に染まっていく。

死にたいなんて軽率に口にしちゃいけないなと常に言葉にするのは死にたいと謂う人間が得てして本気でそう思ってなどおらずそんな言葉を口にした払暁に軽蔑侮蔑憐憫顰蹙の視線が全身を貫いていくから、そして自分もそう言いたい割には本気でそう思っていないことを思い知らされるから、染まりたくない色に無意識に染まってしまう、染まってしまってることに気付くからだ。でも死にたいとか苦しいとかいう矢印は昔よりもだいぶ半透明に近づいている気がする。これは自分が無意識に矢印に透明のペンキを塗りたくったからなのか、それともほかの矢印を選び取った結果なのか。当然ながら矢印は透明に近づいただけであって少しも成分の変化をしていないのである。自分を駆り立てる根底にはこの矢印があって、普段通り何も考えずに生きていても矢印が顔を出すことがよくある。一度空いた風穴というものはなかなか塞がることをしない。塞がったつもりになっていてもちゃんと穴は空いているし、無数の絆創膏で穴の上から上書きを繰り返してみても皮膚と絆創膏の違いが判らないほど盲目ではない。この前空いた穴は塞がってるかな、と気になって絆創膏を剥がし、穴が塞がるどころか1ミリも回復してないことに気付く。僕はまだ死にたいんだと思う。死にたくないのに死にたがってる動物を心に飼っている。矛盾しているのは逆方向の矢印たちを心臓に抱えているからだ。換言すれば、矛盾を綺麗さっぱり消し去るためには心臓を破壊するしかないのである。もう一度換言すれば、生きている以上矛盾から逃げることはできない、矛盾の存在は矛盾してないし、矛盾を悪だとみなしているのは人間だけであり、人間が矛盾を矛盾だと考えるのは人間が矛盾しているから、だからだ。

至極当然の結末を婉曲的に伝えたいのは自己顕示の表れである。

自己顕示は見るに堪えないことが多いけれど、これを是認できない人は開き直れる人と脳の構造が違うんだと思う。自己顕示に寛容でない人は、自分の能力では成し遂げられないことをやってのけた他人に嫉妬しているだけなんだ、例えば「ギターを弾く動画をアップロードする人」に「この人の自己顕示欲やばいな、見苦しい」と考える人はギターを弾ける他人に嫉妬しているだけなんだ。全く嫉妬していないのなら無関心になるはずだろう。初めから乖離しているんだ、自己顕示に開き直れる人と容認できない人は。何か創作的なことをする以上、後者であってはいけない。で、創作する人としない人とで、脳の内面の構造の差異が事実の違いというものを作っていく。ますます二分化されていく。安全地帯から銃口を燻らせるだけで何もしない人間になりたくない。他人の心に響くか否かなんて二の次、含羞の色を犠牲にしてでも何かを作り上げなければならない。

僕はそう思うよ。じゃあ君ら何のために生きてるの、って話だからね。

死にたいって思うんなら死にたくない理由を見つけなきゃいけないんだよ。

心臓サイコエキセントリー

自分ができることというのは他の人が自分と同様にできることで、ただその人がやらないという選択をしたからやらなかっただけだ、というマニフェストを標榜して生きてきたし、多分これからもそう考えて生きていくんだろうと思う。そうでもしないとすぐ傲岸不遜の風に当てられるからだ。

烏滸がましきは見苦しい。他人にどう思われようと自分があればそれでいいという考え方は一見軸がしっかりしているように思えるけど、そんなものただ非常識なだけで、自分の見目形や言動がいかに自分の生活しやすさしにくさに影響するかを知らない一人の動物に墜落するのみだ。

そしてそういう自己暗示に耽溺する一種の逃避を繰り返していたからか知らないけれど、(知人程度に視界を固定してみても)本当に自分にだけできることって全く存在しないんじゃないかと思う。誰だってそうだろうと思う。君にしかできないというのはただのお世辞だったりお為ごかしだったり打算の上の誘導だったりする。でも自己肯定感を得たいと思うから、他人の「貴方は唯一無二だ」という言葉を真に受けてしまったり、誰も「貴方は唯一無二だ」とすら言ってないにもかかわらず、そう言われたんだ、と勘違いしてしまう、そうやって他人を消費してしまう。

人は何かしらを偽って生きている。主語が大きいと宣う人には反例を挙げろとぶつけておけば良い。本当は好きじゃないものを好きだと平気で嘘をつく。嘘をついた自覚がないこともよくある。あるロックバンドが好きなんじゃなくて、あるロックバンドに精通した自分が好きなだけだったりする。猫が好きな自分が好きな人。自分が他人にアノマリーだと思われるのが好きな人。僕らはそうやって嘘をついてることが明らかなときだけ君は嘘をついているという事実に気付くんだけど、そうでないときにはすぐ騙されるんだ。自分が本当にあるものを好きだと考えてることはどうやって証明できるんだ、できやしない。自分が本当に好きなものは何なんだ。ある事物の、ある事象の全てが好きな人なんていないはずなんだよな。人の好きな部分と嫌いな部分について、人は適宜折り合いをつけて生きてる、これは僕だけの話かもしれないんだけど。人のいいところは受け入れて悪いところは目を瞑ったり、人のいいところを無視して悪いところばかり目に入ったり。自分で自分を騙しているんだ。適度に自分を騙して他人を騙して、都合よく生きている。

人間の主体性はどこに行ったんだろう。でも主体性なんて、文化とか思考とか事実とか肩書きとか宗教とか感情とか容姿とか認識とか五感とか六感とか未来志向とか経験とか生とか死とか文明とか言語化とか、人が獲得してきたあらゆる肉片をすべて削ぎ落として初めて現れるものなんだろうな。そこまで削ぎ落とす前に人はナイフの使い方を忘れるだろうし、ナイフの使い方を覚えてしまったらやっぱりその肉片を削ぎ落とさなきゃいけない。どこまでが人間なんだ。自分は結局どこにいるんだ。自分とかいう言葉も自分を着飾る言葉なんだよな。どうしようもないことなんだよな。でもどうでもいいことなんだよな。

誰だって自分に騙されているんだし、せめて自分に騙され過ぎないように生きなきゃ。

赤色ネオンと天球儀 カッターナイフ

世に出回ってるものは大概が偽物なんだけど、僕含め普通に生きてる人は偽物と本物の区別がつかないんだと思う。というより、偽物と本物ってことば、0か1かの離散だからちょっと不便すぎやしないか。コンビニで売ってるプリンは本家のプリンとかけ離れているわけでも、あるいはまったく同じでプリンと呼べるものでもない。コンビニで売ってるプリンが0と1の間に位置するんだとしたら、いったいどの実数なんだろう。「ちょい偽物」ってどう表現すればいいんだ。分からないな。アップルタイザーって名前のリンゴの味がするけどリンゴが全く入ってない飲み物の偽物度合はどれぐらいなんだろう。ジンジャーエールという名前の生姜エキス入りのダダ甘い飲み物は何パーセントがジンジャーエールなんだ。つきつめているうちにふと思うんだけど、百パーセント本物のものって徐々に減ってってるのかな。そのうち偽物が世にあふれて、やがて本物を忘れて、偽物が本物になるのかな。

あ、それは人間という存在そのものじゃないか...

人は何に取って代わったんだろう。人より前に存在を自分たちの手で作り上げた存在を永久に知れないのは欠陥なのかもしれないけど、まぁよくよく考えてみたらどうでもいいんだよな。知りたがったことを知れなくて発狂することがないあたりまだ理性は動物を殺せてないな。殺るんならもっと徹底的に潰してくれ。物質であった事実を痕跡ごと一ミリグラムも残さずに抹消して最後に自分の脳天に引き金を引いてくれ。

 

牛タン食べたいしこれはもう人の金で牛タンを食べるしかないな。 

牛たん炭焼 利久の牛たん 真空パック 330g

牛たん炭焼 利久の牛たん 真空パック 330g

 

 あ、カラーコーンはいいです 遠慮します

空想群像劇場アウターブル

意味がないのに起き続ける心理状態をなんと呼ぶのだろう。寝たいのに寝たすぎるせいか寝にいくのも面倒になってる。でもこんな風邪引きかけの状態はなぜだか文章書くのが捗るんだよな。やっぱり理性って要らないものなのかもしれない。

 

どうしようもなく眠い時、ベッドに入って寝る寸前の時、聞いたことのないメロディーラインを思いつく。たいていそれがなかなかいい曲だったりする。僕は楽器が弾けないので、その思いついたメロディーラインを現実世界に引っ張り出すことができないんだよな。これが音楽の才能とかセンスとかだと思う。名だたる作曲家は、こんな感じに思いついたメロディーを現実に引っ張り出せるんだろうな。それは彼らの努力の成果なんだよな。僕は惜しみない努力を払ってまでそのメロディーを現実に持ってきたいとは思わない。これを音楽センスの差と呼ぶんだろう。

風邪引いてるときってなんであんなに文章書けるんだろうね。理性が死んでるから何も考えずに筆を進められるし、普段ならじっくり審議するところを簡単にゴーサイン出すからなのかな。文章書くときの理性って邪魔でしかないな。脳を頭蓋骨ごと破壊するしかない。

 

うどん食べたい。

サイケデリックミルクセーキ

何のために生きているか考えた人は全員死んだ

 

言いたいことが浮かばない今日この頃に危機感のようなものを感じる。理由はただ忙しいからであって、それ以上でも以下でもない。ただ生きて惰眠をむさぼってるだけの生活は灰色の脳細胞が動かざるを得ない、ほかの細胞が動かないからだ、その結果かえって充足した日々を過ごしていた、いや、体より脳を動かせることが充足だと脳に刷り込んでいるだけなのかもしれない。

苦しむことが幸せなのだということに気付く。考えることは苦しむことだから。でもこの文脈での幸せというのは脳内麻薬のもたらすソレとはちょっと乖離してるんだろうな。僕はもう動物じゃないから、動物になりたくないから、何が幸せで何が幸せじゃないのかぐらい、理解しててしかるべきなんだよな。人間やめたい。人間である以上人間やめたくないけど。ジレンマ。二律背反。アポリア。ウケるな。

どうせ矛盾してるんだし矛盾に寛容でありたいな。一度でも罪を犯した者は石を投げちゃだめなんだよな。でもそこで石を投げるのもまた矛盾だし。真面目な顔してみんな素顔の裏側のバーコードに欠陥ありの状態やや可って書いてあるんだから。不良品という名前の他人は是認していきたいな。でも不良品って呼ばれたくないな。なんとか埒外に逃げ出したいな。無理なんだけどな。ほかならぬ僕がそれを嫌がってるんだよな。

 

不穏な空気が背中を通り過ぎては消える矢印の救難信号