ユギー

 

 

 

CDのケースが割れたら嫌な気持ちになる。その薄っぺらい虹色のディスクを買うのは中身に入っているものが欲しいから、それだけだ。目的が達成された以上、ケースが割れようが割れまいがどうでもいいはずなのだ。しかし現実、透明のそれにひびの一つでも入ろうものなら、買いなおすことすら考える。整っていてほしいと思う。完璧主義者じゃないけれど、でも、完璧でいてくれるならそれに越したことはない。

 

不完全を愛することはできない。できたとして、それは無償の愛だ。いつも思う。そんなものは必要ない。それは誰にだって必要で、でも今の自分には十分に足りている。こぼさず蓋を開けるのが大変なぐらいだ。不完全は嫌だ。完全がいい。完璧がいい。だから、他人の前では完璧でありたいと願う。一度だってそうなれたことはないけれど、常に願っているのは事実だ。

好かれたいか好かれたくないかなんてどっちを選ぶかは始まる前から分かりきっていて、さりとて無闇にそう扱われるのもガムみたいで嫌だ。そこにあるものを適当に抱きしめる人間がいる。よく飽きてどこかへ行く。掴み取りたい。理由が欲しい。理由のない愛は蒐集家の残酷さによく似ている。騙しているつもりもないのだろうけど、騙されている側が騙されたことに一生気付けないことがあるのと同じで、騙している側が騙していることに気付けないことだってあり得る。重力に逆らって上昇していく風船は、だからこそ娯楽だ。

 

分かるか?

分からないか。

俺は何度だって同じ話をする。

 

拾ったものと同じ分量の何かを捨てて生きている。バケツリレーみたいなものだ。水が渡った先には火葬場の火がある。そういう意味だ。

トラックの真横を通り過ぎる自分と同じ数だけ、そのトラックに潰されて死ぬ自分がいる。そういう意味だ。

見えない誰かが俺に繋がったケーブルをペンチで切断している。そういう意味だ。

少しずつ減っていく。そういう意味だ。

戻れない。そういう意味だ。

苦しまずに死ねる世界線に自分はいない。そういう意味だ。

苦しまずに死ねる世界線に自分はもういない。そういう意味だ。

とっくにいない。そういう意味だ。

世界は明るい。太陽は眩しい。だから、そうじゃなくてもよかったと思える自分もいる。そういう意味だ。

ああなれたらいい。そういう意味だ。

 

何度だって同じ話をする。

 

 

捨てられる

 

 

 

世界の裏側からものを見ようと躍起になっている。裏側からは何も見えない。こういうのは結局光の当たる加減の問題だ。知っている。ちゃんと知っていて、昔はそんなことを思いもしなかった。自分の視界に映るものが世界のすべてだと思い込んでいて、ある意味それは間違っていない。地球のどこに行ったとしても、やっぱり視界に映るものが世界のすべてだ。とめどない光に貫かれればこの世界は純白に染め上げられる。その逆も同じだ。吐きそうなぐらいの闇で濁るのなら、もう逃げられない。

何をわめき散らしたところで、誰かが自分を見ている。およそ見なかったふりをしてくれるけど、事実は事実として消えない。黒板にチョークを滑らせるのとはわけが違う。皮膚をフォークが貫くのを、笑ってしまうほどに安っぽい血しぶきを、ただ黙って見ている。テレビの向こう側よりは近い距離感で、でもけっして近寄ろうとはせず、ただ、眺めている。カフェの2階の席からスクランブル交差点を見下ろすように。

 

決して捨てられない。誰かが見捨てることはない。

 

そんな季節がある。誰だってそうなのかもしれない。誰だってというのは言い過ぎなのかもしれない。満たされていれば音はしない。ただ静かに、安らかに、双六の上を進んでいく。それは都合がいい。全員が全員、それだけ単純だったら、どんなに世界は変わっていたのだろうね。あるいはここだって、そういう道の上にあるのかもしれない。どっちだっていい。見えている世界が全てだ。

雨が降って、3回ぐらい別の花が咲いて、人は傘を畳む。雨上がりに虹がかかるのは退屈だ。待ちはするのかもしれない。すこしだけ空を見上げて、その退屈さに、やっぱり首を下ろす。何にも書かれていない正方形を踏みしめて歩く。不気味な空の下を歩いて、気付いたら色々なものを失っている。

誰かに見てもらいたいのなら、行く先を間違っていた。別の番線へと続く階段を下りていってしまっていた。折り返せる。正直にならなくちゃ。嘘はいけないなんて言わない。でも、その嘘は不必要だ。今まで上ってきた階段を折り返すのは勿体ない、なんて考えない方がいい。まだ捨てられていないから。人間は味のないガムじゃない。インクの乾いたペンでもない。飽きられた猫でもないし、車に轢かれたその死体でもない。ちゃんと見られている。見られて、名前をつけられている。

いつだって引き返せる。信じた方向に進むことはできる。間違っていると心の底から思い込んでいても、でも足が止まらないときだってある。分かっている。否定はしない。いつか受け入れる準備が出来たら、そのときに階段を下り始めればいい。

傲慢。武器。過去の栄光。栄光ですらない何か。怠惰。嫉妬。自分を蔑む自分。過去そのもの。苦杯。欲望。闇。思想。決心。決意。軸。事実。安っぽい怒り。自己憐憫。隣人愛。隣人愛に見えなくもない別の何か。偽物の天気予報。形容詞。玩具の銃。紙束。雑草。心臓。

いつだって捨てられる。

 

 

 

イエロー

 

 

 

誰かが食べたがっていたチョコレートを奪い取って、あるいは新緑のカーテンで部屋に空気を閉じ込めて、まるで飴玉を転がすように毎日は続く。何となく後ろめたくて、不安で、きっとこの世界では自分は誰彼からも憎まれているんだと思い込んで、部屋に閉じ込めた空気の残りを消費する。想像の世界の自分は手ずから窓を開ける。好きでも嫌いでもない季節の空気が流れ込む。現実はそんなに難しくないし、やっぱり簡単じゃない。

 

誰かに謝らなきゃなぁ。

乾燥機が眠そうに首を振っている。言わなくていいことばかりで、むしろ口にすれば二度とこの手には戻らないような、そんな言葉が心の中を満たしていく。

血を流す夢をよく見る。コーヒーミルが泣き叫ぶように、彼ら自身がその行為を止めることができないように、未完成の夕焼けのような血が溢れ出す。せいぜい何だろう。圧力だ。一度自分と外側とを明確に区切っている境界を引きちぎってしまえば、そこから先はひとりでに流れ出していく。部屋を満たすんだ。浴槽に湯を張るみたいなスピードで、赤が、赤が、赤が、意志を持っているかのように、溺れさせてくれるんだ。

乾燥機は気だるげに騒いでいる。言わなくていいこと。言っちゃいけないこと。踏みとどまっている自分。壊してしまえばいいのにと耳元でささやく別の人格。破壊衝動。赤。

きっとそんなことを考えていて、考えていても、やっぱりまだナイフの使い方を間違えない。心臓の中で何かが笑っている。笑って、意味の分からない声でわめいている。

世界中をその赤で満たしたら。

二度と戻れない。いや、そんなことだって、やっぱり分かっている。二度と戻れないから、その赤に憧れてるんだ。世界が終わるんなら、赤色がいいな。やっぱり。最後ぐらい、花を持たせてあげようぜ。そう思うよ。本当に。持たせる花は何がいいかな。アイビー。ブーゲンビリア。ダリヤ。ネモフィラ。ベラルゴニウム。ジギタリス。好きな花がいいな。

 

踏みとどまっている自分。崖際ってわけでもないけれど、ただ、理由もなく踏みとどまっている。足踏みしている。崖の下を覗き込んで、ああなれたらいいのかな、と考えている。それは幸せではないのだろうけど、でも、きっと楽しい。やっぱり謝んなきゃなぁ。誰にというわけじゃない。謝らなきゃいけない出来事があったわけじゃない。強いて言うなら、世界にでも謝るのかな。自分を生んだのは他でもない世界だけれど、でも、謝りたい。憎まれている気がするんだ。世界に視線を向けられている。はやく消えろと言われている。そんなの錯覚で、そういうことはいちいち分かっていて、だからといってその錯覚の向こう側に真逆のそれが待っているとも限らない。

世界が終わるなら赤色がいい。終わらせるのも自分がいいな。他の人間に任せちゃだめだ。世界に殺されるぐらいなら、自分から世界を終わらせたい。白じゃだめなんだ。黒も相応しくない。血の気の引くほどに雲一つない青空の日がいい。きっとそういうことだ。

 

誰かが食べたがっていたチョコレートを奪い取って、新緑のカーテンで部屋に空気を閉じ込めて、まるで酸っぱい飴玉を転がすように毎日は続く。紡錘形の黄色は、そんな風にして、世界中に転がっている。転がって、時間が経つのを待ち続けている。

謝らなきゃなぁ。うん。

 

 

 

 

 

ストーリーとメソッドの話

 

物語を面白くするのに手っ取り早い方法があって、それは設定にひとつ嘘を盛り込むことだ――という文面を見ることがあって、本当にそうだなと皮肉なしに思います。事実俺はそういうメソッド的なものには懐疑的でないし、こういうことに反発を覚えるのはただ単に斜に構えているだけ、あるいは読者を楽しませることが作者の第一に考えるべき指針だ*1という基本がわかっていないかのどちらかだと考えます。

冒頭で述べた手法を、しかし、周りの人間が用いているのをあまり目にしません。なんとなく不思議なんですよね。嘘を盛り込むというのは行き過ぎにしても、ある程度ありきたりでないテーマもなしに書き始めるのは無謀というか無茶というか。嘘とはいかないまでもテーマは大事じゃないですか。流石にそのラインは守られていると思うんですけど(というか守れていないのなら何も書けないだろ)、嘘や突飛な設定をひとつ用意することで文章は見違えるほどに書きやすくなるし面白くもなる、というのをもっと知って欲しいんですよね。起きる現象が現実離れしているという例はあって、ダルセーニョはそういうわけで面白いのだし、ありすが死ぬ話は物語がわかりやすくていいじゃないですか。(俺も人のこと言えないけど)案外みんなこういうことをやりたがらないので、やってみてもいいんじゃないかなぁとふわふわ考えております。むろん、そういうことをしなかったら退屈になるなんてことは言ってなくて、でも、その平坦な状態から面白くするのは至難の業だし、面白くなくても良い作品ってのはたくさんありますけれど(純文学は退屈だったりする)、やっぱりその分書き手としての技術が必要なわけです。

色々な本があるじゃないですか。でも大抵の本はこういう手法を結局用いているものです。現実では絶対に起こりえない現象が事実として起こるか、普通に生きていれば絶対にお目にかかることのないような状況になるか、はたまたそれ単体で見れば不思議で仕方がない謎をじわじわ解きほぐしていって読者を楽しませるミステリか。面白いのはだいたいどれかです。嘘を盛り込むというのは一つ目にあたります。何でしょう、分かりやすすぎる例を挙げれば森見の夜は短しだとか、ボトルネックとか。雑に3つに分けたりすると、人によっては「型にはめてんじゃねー」と思うのかもしれませんけど、新体系作る実力なんてそうそう降って来ませんからね。読者に読んでもらうことを重視するならこのあたりのことは念頭に置かなきゃ駄目なんですよね。結局。そういうメソッドみたいなのにある程度反発のある俺が言うのだから、ちょっとぐらいは信じてください。

日本語がうまいへたの話を意識的に振ってきたわけですが、こういうストーリー展開の話をそのぶん蔑ろにしてきたよなぁとつくづく感じています。こういうことを考えるきっかけになったのはTwitterで「執筆能力は遺伝が85%」みたいなのを目にしたからです。日本語が上手くならないのはどうしようもないんじゃないか、と俺は考えています。本当に才能85%なら勝負できるのは物語の方なわけです。ね。水槽に嘘を一滴垂らす、というのをやってみてはいかがでしょうか、という提案です。強制する気は毛頭ないですけど、でも、やっぱり面白いものを書きたいじゃないですか。

 

 

 

 

 

余談:最近、俺は文章がマジのマジで下手だなぁと思うようになりました。下手じゃないにしても上手ではありません。少なくとも才能はないです。感性がぶっ飛んでいる(というか常人にあるなにかが欠落している)ので比喩は上手です。ともあれ展開の突飛さで勝負するしかありません。ジーザス。

 

 

 

*1:人によってはそうでないのかもしれないが、そうでないのなら読まれなくても文句は言えない

空想信者

 

 

空想の世界を生きてきた。初めからそうなるように決まっていたのだと思う。空想の世界とは言ってもファンタジーだとかSFだとかそんな代物じゃない。現実世界に水色のフィルムをちょっと重ねてやって、浅い海を生きるように、海水に包まれるようにして呼吸を繋いでいた。

 

試験期間だという。勉強に身は入らない。因果律だ。朝方に雪が降って、昼間に雪が降って、少し止んでからまた降って、そんな天気だった。少し外に出てみる。白い車が白色に変化していた。急に思い立って、それで例の公園へと行くことにした。

 

例の公園とは先斗町公園のことである。無数の街灯にネオンサイン、飲み屋の客引きに人生の絶頂のような表情をした泥酔状態のスーツたち。そんな現代の妖怪が跋扈する、眠らない飲み屋街こと木屋町を外れた先に、そのひときわ静かな公園は佇んでいる。

その公園に初めて漂着したのは大学1回生の頃だったか。先斗町に鍋を食いに行くのだと4人ほどで結託し、しかし順番待ちで店を追い出され、30分時間を潰す羽目になった。行き場をなくした我々がたどり着いたのが先斗町公園だった。暇ゆえ"ム"と"素"以外で終わる元素の名前を挙げられるだけ挙げ尽くしていた記憶がある。

3回生になって、この公園に足を向けることが多くなった。不思議な縁があるというものである。経緯は完全に偶然で、たまたま暇なときにたまたま近くにあったから、それだけだった。2年ほどが経過しても公園はさほど変わっていなかった。変わったところといえば遊具の工事をしているところぐらいか。でも、別に公園に何か遊具を新設するとかではないと思うので、変わったところとも言えないな。言い忘れていたが、この先斗町公園、公園というだけあって遊具がある。シーソーやらブランコやら滑り台やら。でも遊具はその3つだけで、あとはベンチと砂山がいるだけだ。30年ほど前のそれに比べれば、随分と公園らしくなったと言えるだろうな。

どうしてそんなことが言い切れるのか、という話をしようか。疑問を抱くことは当然だ。30年前、俺は生まれていない。でもその時点で既に先斗町公園は存在したというのを事実として知っている。というのも、どうやらあの公園、親がよく行っていたらしい。当時は遊具らしい遊具なんてものはなく、砂山がひとつ鎮座しているだけだったそうだ。

親がその場所に通っていたというのは決して嬉しくない偶然だった。どちらかといえば不気味で、不快だった。しかしその話をしたくてこの記事を書いているわけではないから、これ以上は何も言及しないことにする。俺は今日の公園のことを書きたくてキーボードを叩いている。

公園に着いたとき、雪は降っていなかった。公園の前には、リードをつけずにコーギーを散歩させている着物の人がいた。先斗町は寒さのわりに人通りが多く、まばらではあったが公園にも人影が見えた。

 

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工事はまだ続いているようだった。木にも工事用の重機にも例外なく雪が積もっていた。木はまるで月明かりに照らされているようにも見えた。事実、ひときわ大きな半月が恩着せがましく公園を照らしていた。

 

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上でいうところの砂山がこの写真に映るそれである。砂山の奥には鴨川を見下ろせる場所があって、俺はその絶妙に窮屈な空間が好きだったりする。

 

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左に見える水面が鴨川である。――こう書くと正しくない。左に2つの川が見える。手前はただの小川で、その向こう側に見えるのが鴨川だ。鴨川が見下ろせるこの空間には石段が置かれていて、景色を眺めるのにちょうどいい位置取りがなされている。ただ、終電までの猶予が残されていなかったから長居はできなかった。

何を言いたかったわけではない。でも、せっかく雪が降ってるのに、家に籠ってるのもちょっと勿体ないだろ。雪は景色をそこそこに変えてくれる。公園を出ようとするときに見かけた黒猫だって、地面が真っ白に塗りたくられていなければ、闇に溶けてしまっていて存在に気付けなかったはずだ。あるいは、出口の柵の柱の上に置かれた小さな雪だるまだって、雪が降らなければ存在しなかった。雪が降ったからこそ、その雪だるまを作った人に思いを馳せることができる。雪が降っていなかったら。その世界線で、俺は随分と損をしている。風が吹いて電線からドミノ倒しのように枝垂れ落ちる雪の塊。植木に積もった一面の雪が泡風呂のように見えたこと。滑って転ばないように、アスファルトを一歩一歩踏みしめる人の足音。夜にぶら下がった下弦の月。眠る重機。歩く黒猫。どこまでも大げさな夜空。静寂。現実も、吐き棄てるほど色褪せてはいない。そう思えるような、空想と現実の中間のような世界だった。

京都では雪が珍しくないけれど、ありふれてもいないだろ。少しだけ想像に溶けこんだ世界を、せっかくだから、見回してみようぜ。

 

 

 

乱気流

 

 

 

試験前なので当然ブログを書きたがるんですよね。誰か俺に応用代数学を教えてください。

つらつらと書きます。書きたいことはありません。

 

俺みたいな人間にとってイヤホンというのは友達で、それはもうかけがえのない存在で、家を出てイヤホンがないことに気付いたら慌ててとんぼ返りするぐらいには無いと困る存在だったりします。でも最近はそいつに思考を邪魔されている気がして、そういうわけでイヤホンなしに道を歩いたりしています。道を歩くことは思考の整理の手段として優秀のみならず、無から有を生み出すのにも一役買ってくれるのです。色々なことを思いついて、でも道を歩いている途中にそれを書き留める手段はないから、結局記憶の奥底に無造作に放り投げられて、あくる日道を歩いているときに再び拾い上げられて、みたいなループに陥ります。育児放棄みたいなものですね。それでもそのうち数個はなんとか記憶の淵にぎりぎり引っかかって助かっているので、忘れられることを忘れられたそれらを助ける意味でも、ここに今日思ったことを書く次第です。

 

 

創作について語り始めたらそいつの創作人生は枯れる寸前だ、みたいな文言を目にしたことがあります。わかる。俺は昔から割と創作に関する自分語りをする傾向にあって、もともと枯れかけなのかな、と思ったりもします。随分前からそんなのだから、今更気にすることなんてないんですよね。笑えます。

 

浅い議論をします。浅いです。

センスって何なんですかね? 純粋に疑問なんです。今まで目が充血するぐらいに自分の才能と向き合ってきたわけですが、結局自分にセンスがあるのかないのかわからんのです。

センス。

感じること。

わかりません。

消費者としてのセンスならわかります。目利きの能力だったり、あるいは対象ひとつひとつについていいだの悪いだのを論じることができる。多分それがセンスなのかな、と思っています。

生産者としてのセンス。これがわからない。

わからなくないですか? 結局フィーリングなんでしょうけど、それにしたって曖昧過ぎる。で、曖昧という割にはそうでもなかったりする。感性の問題だとは言うけれど、そうでもなかったりする。

はてさて。センスがないという言葉には2種類あって、というか2種類あると思っていて、①良いものを作れないこと、②良いものもそうでもないものも作ってしまうこと、だと考えています。どうにも俺は②のようで、つまりセンスがない。さらに言ってしまうなら、感性が人と著しくずれているようだ。ここが分からないんですね。

単振動をしているんですね。もとより自信というものがなくて、それでめちゃくちゃビビりながら作品を書くんですよね。すると案外いいじゃんって言われる。それで調子に乗って次の作品を書く。これは前の作品を越えただろと意気揚々他人に見てもらって、盛大に空ぶって体勢を崩す。自信をなくす。一周。

つまり、自分の中で、良いものとそうでもないものを見分けることができない。センスがない。これには本当に困っている。多分病巣は、そもそもどうして良いと判断されたかをわかっていないことにある。わかったつもりになっていて、自分が正解だと思い込んだそれは誤りだったりする。これを5回ぐらい繰り返しています。助けてください。

ひとえに苦しいのは、過去の自分を越えられないことです。他人を越えられないことには諦めがつくじゃないですか。才能だの努力だの時間だの、いくらでも言い訳ができる。でも過去の自分を越えられないとなると言い訳が出来ない。それは劣化ですからね。劣悪と化したと書いて劣化。嫌だなぁ。過去の自分に勝てないスパイラルって本当に救われようがなくて、常に過去の自分に勝る作品を書き続けなければならないのです。無理ですよ。進化し続けろというのです。厳しすぎる。

俺は本当に自信がなくて、終末旅行を書き上げたときも「何やねんこれ」ってぐずってましたし、透明のプリズム書いたときも「なっげー」としか思ってなかったんですよね。本当に自信がない。だから俺に自信をくれる人間のことは本当にありがたいと思うのですが、いい加減センスみたいなものを学習したいとも思います。逆に今回の雨中遊泳だったり、そこそこ前に書いた観察日記という作品とかも結構お気に入りなんだけど、こっちはあんまり評価されてないのよね。俺が本当に書きたくて書いたものはいつだって大した評価を受けなくて、ちょっと苦々しいのです。むろん、そういうもんなんだなと思っています。書き手と読み手で情報量が全く違うのは当たり前のことです。仕方がないんですよね。俺の感性はいつだってずれている。逆に感性がずれているからこそここまでやってこれたんだし。どっちが良かったんでしょうかね。

人に俺の文章のどこがいいかを聞きたいのです。これは自分語り目的ではなくて、俺の中のものさしでは測れないからです。ちょっと前に人と比較してどうかというのを知り合いに聞いたのですが、「世界観は負け、比喩は勝ち」でした*1。これは俺の印象とまるっきり逆で、すっかり困っています。世界観で負けようものならおとなしく引退するしかないと考えていましたから、本当にそんな判決を下されて、雁字搦めでした。でも冷静になって考えてみれば、世界観系男子だとか言っておきながら、それを意識して書いた記憶がないんですよね。事実、そういうところを後回しにしてひたすら暴走するのが俺の悪い癖なわけです。まぁ確かに。世界観を意識するのは難しいですけど、というか本質的に無理な気もするが、でも世界観でぐいぐい押したいんですよね。俺は。事実関係なんて誰にだって書けるけど、世界観は唯一無二です。唯一無二になりたい。逆に比喩なんかどうでもよくて、伝え方の問題だし、確かに比喩は得意科目だけど、でも何だろう、お前ギターのチューニングめちゃくちゃ上手いよな、って言われたみたいな気分になります。そこじゃないんですよね。比喩は手段であって目的でないわけです。

てな具合です。文章上手くなりたいです。

 

明日一限なので、夢とルサンチマンの話だけして終わります。

目標が3つあります。それぞれ大体似通っています。

  • 個人誌出す
  • 有名になる
  • 小説を出す

①どこかで話をしましたかね。個人誌を出したいです。今のところ中身はもうほとんど出来上がっていて、欠落しているのは表紙だけです。どこかで話をしたのでこれ以上は書きません。

ルサンチマンです。有名になりたいです。単純に生きやすさの問題です。部屋にベッドが欲しいとかそういうアレです。有名になることは目標ではありません。過程です。多少名前が通ってたら楽だよなと思います。

③これはマジです。ひた隠してましたけどなんだかんだ人並に小説を書きたいです。本当に。ライトノベルとかそういうのではなく大衆文藝です。とはいえまだ書き始めて3年(真剣に向き合った期間はそれ未満)なので二の足を踏んでます。大体書き始めてから7年あたりが勝負になったりするらしいので、そのあたりを射程に考えています。でもまずは本読めって話ですよね。はい。

 

 

酒飲むと夢の話ばかりするからよくないんですよね。いずれも半分冗談です。

ねます。

 

 

 

*1:世の中勝ち負けではありませんが、それはそうとして勝敗はつけることができます

out

 

 

 

救いようのない毎日が続いている。刺々しい話じゃなくて、こう、暗いトンネルの中を歩き続けているような。ライト片手に出口の見えない筒の内側を歩く。心配事もないわけじゃない。入稿の締め切りは迫っているし、でも今の自分がやれることなんてひとつもなくて、だからこそこうやってあれこれ気を揉んでいる。

ライトというのは比喩で、今の俺が片手に握っているのは酒だ。

檸檬と自分をよく重ねている。やりすぎなぐらいに。二ヶ月ぐらいずっと。彼の握っていた希望が檸檬だとして、それなら俺のは酒ということになるのか。今でこそこうやって酒を買って飲んでいるけれど、それを買う金すらなくなれば、いよいよそれは檸檬になるのだろうか。空想上の未来に悪寒がする。

救いようがない。事実としてそんなこともないはずなのだけれど、でも、水中にいるような苦しさだ。視線の先にある闇が消えない。一向に霧が晴れない。どうにも退屈な未来ばかり待っているような気がする。例えば、創作意欲が湧かない。何を書きたいとも思えない。書きたいことはないわけじゃないけど、今の自分の能力で書けると思えない。行き詰っている。

単純に読んでないからだと思う。めっきり本を読むことがなくなった。それが良くないのだと思う。とにかく。読書に必要な意志が足りていない。多分そういうことなんだよな。一つ一つを分割してみれば、こんな単純なことの集合体だったりする。ちゃんと読書すべきだよな。サボってたけど。やっぱり読み続けるのが必要条件なんだよな。目標を定めてちゃんと読書しなきゃな。春休みの目標にしよう。何冊がいいかな。30冊ぐらいかな。気になって大学生のうちに読んだ本の数を調べてみたら、30冊とちょっとだった。少ないよな。30冊は多分不可能だろうし、20冊にしておくか。

それだけ。