眠る鉄の塊

人は人と関わり始めた時点で、その人ならばこう考えるだろうななどどいう推測にも満たない思い込みの権化を心の中に飼い始めるのと同時に、その人間の存在そのものが桎梏となって、我々の行動を縛り始める。コミュニケーションとは結局のところ推測の連続であり、本当の意味での意思疎通など存在しないに決まってるから、お互いがお互いに意思疎通をしたフリをして騙し騙され日々を繋げていく。我々はその時点で心の中に「他人」を飼い、その「他人」と対話を行って、疑似的に意思疎通をしている。自分の目に映っている他人なぞ「自分の目に映ってる他人」でしかないのだからそれが他人そのものでないことは空が晴れか雨かどうかより明らかである。そんな感じで心の中に無数の生き物を飼っているから、その生き物をうまく統御してゆがめ尽くしてやれば、我々の世界に映るイキモノはみな自分の都合の良いハッピーフレンズである。このように人間は事実の確認ができない未来永劫の不確定要素に対して楽観的であるのと同時に、飼っている生き物に対して悲観的でもある。生き物に対し、ある種の不安と怯懦を感じ取っている。心の中で作り上げた生き物は自分に従順であり、自分に従順であるからこそ真黒な魔物に変化していることが頻繁にある。他人がどう思っているかどうかは推測の域を出ず、だからこそ、こうあってほしいという願望と、こうあってほしくないという願望が絵の具のように綯い交ぜになって、顔も手も足も判断のつかない無数の化け物を生み出している。化け物は見るのも恐ろしい見た目をしているのだが、ただ心の中を闊歩しているだけで、人を襲うことがない。それでも我々は化け物を恐れ、「もし自分の思っているようなことをあの人が考えていたらどうしよう」などと、純度100%の0%を不安がっている。肥大化した化け物に対峙するかのごとく現実の他人と関わらんとするけれども、実のところ他人はしょせん人間である。何も怖がることはないと自身に言い聞かせてのコミュニケーションは上っ面だけで、ゴミ箱に蓋をするかのように人は人を知りたがらないのである。化け物はもともとは人だったものにありとあらゆる推測を付加したものである。なるほどそいつは現実に即している。本当に怖いものは正体がはっきりしているものではなく、何が何だか分からないものなのだ。

 

ねむい。

深淵と誕生日

開け放たれた窓の外で夏が鳴いていた。_____________________________________________________________________

誕生日というものをひどくどうでもいいもののように思う。

 

 なにがしかの作品では誕生日という本来なら人間自身は知りえないはずのものを知っていること自体に価値があると論じられているらしいというのを耳にしたことがある。それはさておき、現代に絡まっている誕生日を口に出しそして祝う一連の流れが不自然なものとして目に映ることがある。楽しいからそれでいいのだという議論は御尤もであるし私自身もそれを否定することは吝かでないわけもないのだが、虫眼鏡を持って誕生日に関する一連の流れを凝視してみれば、そもそも人が生まれた日を祝うのは果たして何を祝っているのか、仮に無事に一年を過ごせたことへの祝いだとして、なにゆえそれを世界に生まれた日から一年ごとに「絶対に」祝う「必要がある」のか、無事に一年を過ごせることは無事に一日を過ごせたことの集積であるはずだから、タイミングが良いからってまとめて一年の無事を「特定の」一日で祝わなければならないわけでもないのではないか、これが一刻の時間をも無駄にせぬと躍起になって行動に支払う時間を圧縮する現代社会の運命なのか、などと脳内議論がころころとヘンな方向に転がってゆく。

 ここまで書くと私は誕生日を祝うことに懐疑的であり深淵を覗かずに誕生日を祝うような人間は追放すべきなどという過激な思想を以て世界を統治せんとしているセルフオリエントな人間のように思われる可能性が如何にも高そうだが、そうではないことを断っておく。人間は生まれながらにして誕生日というその人固有の属性を付加されている。私には誕生日を祝うことはその人の世界における存在の肯定のように思えると同時に、自己と他者をわけ隔てる分かりやすい属性によってある種の承認欲求不満の解消を行っているように思える。誕生日を祝われる人は、誕生日を祝われることによって、自分が人間として存在していいということを自覚すると同時に、自分が自分として(他者と区別されて)存在していいということを自覚するのだ、と思える。

 関係ない話だが、私が誕生日を祝われるのを避けたいと思うのは、半分が誕生日という分かりやすい属性を以てせずとも自分が他者と区別されているほどの人間でないことを自覚したくないからである。もう半分は、自分が同じように祝われたいから他人の誕生日を祝福しているのだと思われたくないからである。

 

 誕生日を祝うことのおかしさは考えてみればなかなかに面白いものではあるのだが、是非に関していえば、誰かが誰かの誕生日を祝わない世界線よりも、誰かが誰かの誕生日を祝う世界線の方がずっと素晴らしいものであるから、論じるまでもない。だが誕生日とは何なのか、思考停止せずに少し思いめぐらせてみてほしいと思う。他の人はそれぞれどう考えて人の誕生日を祝うのだろうか。気になる限りだ。僕はみんなを知りたいんだ。

炭酸水

常々思うことだが、(自明に)人は人を消費して生きている。私が今座っているベッドだとか、もう二日は点けっぱなしのエアコンだって、何ならこの建物だって、私はその製作や創造に一切のかかわりもなく、ただ金銭を支払うことによってのみその使用権を得ている。人は八方美人である、だがそれ以上に自分の脳が身体の行動を決定する権利を得ており、あくまで理性に基づくマシナリーな行動を取って生きる文明人だと錯覚したいがゆえ、あるいは自分の行動はその正義が正しいか間違っているかを抜きにして、正義という行動規範に一本の筋を貫き通していると思い込みたいがゆえ、おのがじしの行動の美化正当化に全力を尽くす。だから、どうせそうでなければ無駄たる無駄の骨頂であったろう自分自身の働いた時間というものを誰かへの報酬と称し、口では感謝だの自分は色々な人に支えられて生きているんだなぁだのべらべらしゃべりつくすのだけど、実のところそれは斜めに傾く天秤のトレードを道具にして、うまい具合に人を利用しているだけに過ぎない。両方が両方をそうやって歯牙にもかけないのだからちゃんと均衡が保たれていて、お互いはお互いをなくてはならない存在とか縁の下の力持ちとか辞書の紙がごとく薄っぺらい上っ面の言葉を投げつけるし、お互いはちゃんとそれが上っ面だと認識していて、うわべの言葉が飾る世界がどれだけ美しいクリスマスイルミネーションなのかを正しく悟っているから、誰も何も言わない。モミの木は毎日眠っては起きを繰り返し、おもちゃのベツレヘムの星は塗装がはだけようとしている。人間というのは嫌なものだってしっかり目に捉えることが出来るような目の構造に不具合でもあるに違いない生き物だから、うわべの言葉が飛び交っているのがちゃんと見える。あの人は実のところどう思っているのだろうと考えたところで、赤の他人は朱に交わることをやめない。結局行きつく島は興味がないの連続なんだから取り付く島もない。興味がないから消費をするのだ。一考を挟むに、大量消費の社会というものは、視界に映る「興味のない」人間が増えたことによる因果律なのだろう。いくら聖人とはいえ、視界に映る人のすべてにそれぞれ興味を持っていたらきりがない。普通の人にとってはすべてどうでもいいのだ。誰かが電車に轢かれようが、その人の人生には特に興味がない。興味がないから人の死を笑ってSNSにアップロードしたりする。興味がないから適当なことを言って、事件だの事故だのをエンターテインメントにできる。興味がないから罵詈雑言を叩ける。興味がないから他人の私見を決めつけられる。興味がないから人を馬鹿にできる。興味がないから何も考えようとしない。

人間からすれば、人間というのは目に映る一つのコンテンツに過ぎないんだと思う。テレビのチャンネルを切り替えるのに似ている。対岸で火事が起こっていればそれは面白いことなんだと思う。

水掛け論が得意です あまりよくないあたま

三日月が裏返って夏の夜空を真黒に照らしている。無限に落っこちてきているような灰褐色の建物がすべて眠っている。皆さんはどうお過ごしだろうか。

人間はいつだって多重人格で、私を司る幾多の感情が今日も意思決定に紐をくくってあちらこちらへと船頭多くして船山に登っている。人格の一人一人が人物像を決定すれども、私という人間はあくまでその人格の複合体であるがゆえ、結果的に目に映る印象とか人となりとかは酷く曖昧に映っている。ぼやけた視界に微かに映る人影は、光り輝く"いいひと"だったり、黒く染まって包丁をぶん回している"絶対悪"だったり、道端の石ころだったりする。眼鏡をかけなおして見えた人物像が今度こそははっきりしているだろうと思ったその翌日には全くの別人を見る自分がいる。昨日見えた石ころは今日は絶対悪だったり、昨日見えた絶対悪が気付かぬ間に"いいひと"にすり替わっているのだから恐ろしい。闇雲に振り回した包丁が刺さった相手はイイヒトか絶対悪か石ころなのか、とうに判断がつかない。石ころだと思って蹴り飛ばしたら絶対悪だったりすることが多いのだから背筋の凍る思いもする。

視界に映る世界が「好き」か「嫌い」か「興味ない」かの三つに分断されている。去年こそ嫌いなものが増えていくなぁと悟った顔で適当なことをのべつまくなしにべらべらと喋っていたものだが(今でも変わらない気がするけど)一年もたてばそれらの事象にいちいち腹を立てて逡巡するのも馬鹿らしくなって、大体の世界が興味ないのゾーンに左遷された。何かにいちいち怒っていた僕の人格たちは紐を握る両手の握力を失った。究極形がアパシーたる、肥大した「興味ない」の超巨大集合を腹に抱えて生きて、余計なエネルギーを使わない代わりに、その巨額の「興味ない」は手放すこともできず、『ほんとうに興味がないのなら興味がないなんて言うはずないのにな』なんてもっともらしい言説をガシャポンがごとく吐き出しておきながらもなんとまぁ無責任なことに、ライクでもヘイトでもない虚無を洗濯物のようにため込んでしまった。ああ無感情。あなたも無感情主義、どうですか。

両手に足りる程度のライクと一緒に生きていけたらいいな。数人でいいや。多くは求めないでいいな。そこからあぶれた人のことは、まぁなんとも思わないよ。

 

興味ないし。

910(明るい話です)

 数日前に思った通りのことを呟いて平穏なリプライ合戦をした。と僕は思っていたのだが、僕と会話をした本人はなぜか怒っているし、周りの人は僕の軽率な長広舌の辛酸をなめる思いをしていたらしく、僕以外の全員が苦しい思いをしたようだった。此の世の癌である。本来なら返す言葉もございませんとただ首部を下げてればよいのだろうけど、僕自身のメカニズムを文字にしておかないと色々が闇に葬られる羽目となるため、ここに何故その言葉を使ったのかの動機を書いておく。

 

裏紙

 

 僕は当時、本当に何気なく「会誌は裏紙程度にもならない」と呟いたのだが、この文言は対話していた彼のみならず周りの人にもぶっささり、そのうえに外部の人間がこの文言にかこつけてよく分からない自意識過剰なエゴを呟いていた。前二つはともかく後のひとつはよくわからん。お前それっぽいこと呟いて自分に酔いたかっただけだろ。嗚呼、群像劇である。この文言は半分は事実でなくで半分は本当なのだが、嘘を吐かなければならぬ理由めいたものがあった。

 そもそも僕は会誌と何気なく呟いたけれど、ssのことにしか興味がないんだよな。だから絵の軛に同じことを適用して文句つけられても本当に困る。僕はssの話をしている。ssてのは絵と違って媒体に価値が依存しない。読めればいいんだ。インターネットには本当にえげつないレベルのssがごまんと転がっていて、それらは当然無料だ。そいつらと比較してみろ。我々がこのssは僕の言いたいことを表してるんだって叫んだところで、インターネットに転がってる名作が無料なんだから、どう足掻いたって適正価格は0円でしょ。リプライ合戦のあとに「他の人がどう思うか」の話をされたけど、僕は自分の書いたssの話をしてるんであって、他の人のssも裏紙程度にしかなんねえよなんてロックなことを言ったつもりは毛頭なかったんだけど。(これは確かに僕が頭の中で勝手に思ってた前提というかバイアスだったから僕に落ち度がある。ごめんね。僕は他の人のことを気にするほど器の大きい人間じゃないし、誰だって気にするほど見られてはいないしな。)

 残り半分の嘘は、対話してる人に自覚をしてほしかったところなんだよな。ちょっと前の例会のとき、なーんとなくみんなでご飯を食べに行くことになったんだけど、飯の選択肢が無くて、いっつも足繫く通ってる飯屋にみんなを連れてくことになった。彼はというと、まぁ特にそこまで深いこと考えてなかったんだろうけどさ、「その店美味しくなかったらサークル辞めるよ」って言われたんだよな。いや知らんがな。別に辞めてもらってもあんまり困らないでしょ。深く考えずにこんなこと言ったんならそれこそ普段からこういうことを考えてるってわけだからなぁ。

 というわけで、自覚を持ってほしかったんだよな。別に一人欠けようが大した問題はないって。僕は(誰だってそうかもしれないけど)僕がどう答えたら相手がどう返してくるかぐらいは読めるから、「裏紙程度」なんて言い方をしたら、辞めるって言うんだろうなぁって思ったんだ。案の定そうだった。だから僕は、君が辞めてもサークルはそんなに困らないよ、って返したんだ。最終的には彼は辞めるつもりはなかったらしく、なんやかんやで僕の文言は軽率だったね的な終わり方をしたけど。僕はつゆもそんなことを思ってないけど。

 この文言は必要悪だったんだ。

 

会誌のレゾンデートル

 

 僕は自称ss書きだとか創作者だとかとして調子に乗ってた時代があった。そんな自分を外から見つめてみる機会があって、そのとき自分が凄く説得力がない人間に見えたからやめた。それ以降、大した実績もないのに創作者を名乗ってる人にアレルギー反応を示すようになった。見習いの時期に大層な創作観を弄さないでほしい。すげえ説得力ねえぞそれ。

 僕たちが会誌を出すのは何故かというのをひたすら問われるのだけれど、それって「なんか面白そうだから」で済む話じゃないんだろうか?だってなんか面白そうじゃん。それ以上の理由がある?本作ってサークル参加するのって(真似事であっても)すげえ楽しいんだよな。みんなで集まって原稿書いてさ、完成した本見てニヤニヤしてさ、設営完了しました!とか言ってツイッターに画像上げたりするんだぜ。楽しそうだろ?すげえ楽しいよ。

 それでも本を作って売る理由は何だって聞かれるから僕なりに解答を書いておく。楽しいからってのは90%ぐらいなんだけど、残り10%はみんなを知りたいからなんだ。

 ssって、まぁ文章の大体がそうなんだけど、書いた人の中身がものすごく伝わってくるんだよな。その人間の知識量とか語彙とかだけじゃなくて、どんな世界が見えているかだとか、物質ひとつひとつをどの観点から見てるかだとか、心の奥底では何を考えてるかだとか、今までどんな経験をしてきたかだとか。作者の総体は文字になって僕の脳裏に刷り込まれてくる。普段は明るい人間がほの暗いお話を書いたり、シックな人間が幸せな世界を描いたり。目を見張るものがある。友達が書いた文章をすいすいと読み進めていくたびに、「こいつはこんな人間なんだな」だとか、「こんな世界の見え方なんだな」とか、そういう粒子が頭に入り込んできて、人物像を随時上書きしていく。

 僕はみんなを知りたいんだ。みんなを知りたいから、ssを書いてってお願いするんだ。まぁそれは、よく知ってる人間のssはあまり読む必要が無いってことなんだけど。僕がある友達のssについてあまり言及しないのは、その人間を良く知ってる(と思いこんでる)からなんだよね。

 

 

 

 こんなところかな。サークルの今後は本当に心配しなくてもいいし、僕は依然としてみんなを知りたいから、ちゃんと原稿を書いてもらうし、会誌は作るし、仮代表として仕事をするつもりだよ。ここに書いてあることは全部本当だ。それぐらいは信じてくれたっていいでしょ。

マイルドカフェオレアイスショコラ

梅雨は結局やってこなかった。蝉が鳴き始めたという噂を聞きつけてイヤホンを取って街を歩いたりもしたが聞こえるのは車の騒音ばかり。夏は青だの夏は群青だの、高尚っぽい言説を垂れては理想郷の夏のお話を繰り返すばかりで、風鈴の音を聞きつつ扇風機の風に当たりつつ空を覆う入道雲をぼおっと眺めて過ごす和室横の縁側と蚊取り線香の煙という想像は想像の範囲を越えないし、エアコンが壊れて海に行ったりする強制イベントも起こりやしない。そんな理想郷の夏を後目に、クーラーをガンガンに効かせたコンクリートの冷たい部屋で誰かに向かって愚痴を垂れるのが大学生の夏休みである。夏は夜と言われてみれば存外的を外していないようにも思う、確かに徹夜でゲームをすることは夏休みのウェートの85%を占めているし、頽廃と虚無と背中合わせに貴重な若き時代をたまに郵便ポストに入ってる美容院のチラシのごとくぐしゃぐしゃに捻り潰すことは一種の快楽である。破壊衝動である。

 

最近は創作のことばかり考えている。喫緊の義務たる原稿に向けて、本文は一滴も書かずとも何を書くかぐらいは決めておかないと、なんというかやばい。無から有を捻り出すことは難しいものだ。言葉がほしい。何の脈絡もない言葉がほしい。人間は言葉を食べて生きている。それどこから湧いたんだみたいな言葉を組み合わせて継ぎ接ぎして変なものを作りたい。脳みそに設置された引き出しをすべて引っ張り出して中身を取り出してぐちゃぐちゃにかき混ぜて拾い合わせたい。出来上がったものを見て唾棄したい。脈絡なく言葉を引っ張り上げるのは難しいなぁ。ほんとうに。

今日は晩御飯から帰る途中、何故かレーザーポインターという単語が湧いて出てきた。不穏。

 

たんしお

大阪ゴーストシップホール

順天候、梅雨前のモラトリアム。梅雨前線は雨の前に二三日、人間に対して梅雨に対応するための準備期間を設けている。本日はお日柄も良く、吐き下すほどには真っ白い雲が空の四分の一に居座っていた。その雲も忌まわしき直射日光を邪魔するまでには至らず、これが日本晴れかと考えてみたところで、快晴の快哉を”日本”晴れと叫することにエゴイズム的なものを感じた。そんなことはどうでもよく、つまりは絶好のカタルシス日和だった。

 

今日は些細な相手をいちいち相手にする人のことを考えていた。のほほんと生きているだけでも自明に突っかかってくる相手はいるもので、殺虫スプレーを吹きかけてもぴょんぴょんと飛び跳ねているものだから、年を取るうちにだんだんと相手のことを考えなくなっていく。防衛機制なのか無関心の度が過ぎたのか、どうでもいいの境地に足を踏み入れている自分に気が付くものだ。でもそれはちゃんと善悪を考えていないことに等しいわけで、単なる思考停止なのではないか?ああでもなくこうでもないとしたら自分はどこに行くのだろう、それは「関係ない」の領域だと一応理論上の正論をぶら下げて、私は間違っていないんですよアピールをする。これまた愚民の特権である。自分はどちらにも属さないというエリアを都合よく利用して、整合性、自己肯定、浅い悟りの道具にする。やっぱりよくないんじゃないか? 感情をむき出しにするのは愚かしいと日陰で知った顔で呟きながら、感情をむき出しにすることから逃げてるだけでは?

 

脳は思ったことをすぐ忘れるから、こんなに自明なことも書いておかねば忘れてしまう。

 

シャフ度でこれ書いてたからどうにも首が痛い。