日記

一日に点数をつけるとしたら、という架空の課題を考えている。

何点だろう?

60点ぐらいか。

 

それはそうと、今日の空は理想だった。

ああいう空の下を遊泳していたい。

ああいう空の下を遊泳して欲しい。

何だろう。映画のような空。

仄暗い雰囲気のレンズを通して見上げたような空。

 

 

 

 

時間の使い方について

昨日も今日も時間を浪費していた。昨日は「明日こそは本を読むか字を書くかするぞ」と決意のままに床に就いたのに、結局一日は怠惰に過ぎていく。何かを書き終わったタイミングと誰かに読まれるタイミングの真ん中にあるモラトリアムはとにかくモチベーションが低下するな。行動に移す積極的理由も消極的理由もない。

ぼけっとしているうちに一日は手のひらから零れる。使えた休日はしっかり消える。わざわざ昇った陽は落ちる。誰かが火をつけたわけでもないのに導火線上を火がにじり寄ってきている感覚があって、でもそいつの歩みが笑っちゃうくらいのろまだから焦燥感が薄い。焦燥感は確かに宿っている。結果を残さなければならないなんて環境に身を置いた覚えはないし、事実結果を残さなくたって世界に置いていかれはしないはず。でも自分に失望はしたくないから、這いつくばって文字を書く。はるか上空の成層圏を見上げながら、いつかあの場所に触れなければならないのか、と寝ぼけ眼で呟く。呟いて、今日も、ゴミ溜めの隅で不健康そうな色の花に水をやっている。毎日はそうやって過ぎ去っていく。

明日は地元の街を歩く予定。雨が降らないといいな。晴れ過ぎても困るな。今日みたいな、交通事故の七回忌みたいな空だといい。

 

創作支援ツール

創作支援ツールについて調べたことに理由なんてなかった。檸檬を片手に街を歩くような、そんな感覚だったのだろう。道具を使って少し便利になりたかった。自分の外側に世界を変えて欲しがっていた。本質的に何も変わらないなんてことは分かり切っている。だから、ほんの気晴らし程度でよかった。気晴らしでも、少し違った環境に身を置いているような気分になりたかった。

調べていると、何となく傾向が見えてくる。

創作支援ツールは物語の設定に関することばっかりだった。

登場人物の名前を決める手助けとなるようなソフト。登場人物の設定を管理するようなソフト。あるいは、設定をある程度自動的に生成してくれるソフト。

何となく、自分との差を感じる。小説を書くときに設定をごちゃごちゃ考えるようなことをしたことがない。でも世の中、そういう風にして物書きを楽しんでいる人間は大勢いる。

きっと楽しいんだろうな。まだ白紙のノートに好き勝手設定を綴る、あのときの楽しみがそこにはあるんだろう。

 

話は変わる。世の中には、難しい語彙がせっせと使われている割に文章力が乏しく薄っぺらい小説的な何かが普く存在する。誰も聞いたことが無いような謎の二字熟語、平仮名で書けば分かりやすいところをわざわざ引っ張り出される漢字たち、しかし文章自体はダサい、みたいなそれ。気取っただけで中身のない人間の書くそれだとか、設定を練り上げることに満足しているだけのあれだとか、因子は共通してると思っていて、単純に言いたいことがないだけなのだろうね。別に否定はしない。否定したところで何様って感じだし。肯定もしない。ただ人種が違う。それだけだと思っている。

でもまぁ、語彙という言葉の意味を取り違える人間になると致命的だ、とは覚えておくべき。当たり前だけど、語彙が難しいことが良いなんて図式が成り立つはずがなくて、むしろ逆だったりするし、でもその当たり前は案外知られてもいない。

砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けないって本があるだろ。そんじょそこらの高等な語彙の小説よかその本の語彙の方がずっと簡単で、ずっと善い。戒め。例えば女子中学生の語りで物語が進行するんなら、ちゃんとその点で尤もらしい文章を書くことを意識するべき。これを意識しないのは怠惰だ。何度も言うが、これは自戒。

 

書いたss

校正をやり始める時期になったら多分読まれてしまうから、今のうちに好き勝手言っておこうと思う。自分の作品に関する自分語りってあんまり好きじゃないけど、ここはブログだしこの記事のこの節を読む人はそんなにいないからいいよな。

 

今まで書いたssは大抵示唆的だったのだけど、今回はそんな気難しいこと意識せずに書いた。いや、そのはずだったんだけど、結局示唆的になった。示唆的なのは特に最後だったりする。。ふだん他人の解釈に精を出すことは少ないのに自分は解釈されたがるのもおこがましいので別に解釈されなくても拗ねないけれど、でも、誰かが最後の彼女の選択の理由を考えてくれていたら、この作品も浮かばれることだろう。

解釈といえば、誰かが伏線というかヒントに気付いてくれたら嬉しいなぁとも思っている。

内容はさておき、俺は文章自体を憂慮している。というのもいつにもまして水が少ない。それから文章がそんなに上手くない。今回は上手くないなりに完結目指して暴走をした。どうしても最後のシーンを書きたかった。あれのために残り48000字を書いたと言っても割と過言じゃない。文章が下手だと思っても許してくれ。自覚はある。

 

 

 

 

――――

 

 

 

 

現実の縁が見え始めると、案外世界は憂鬱になる。広がったように見えていた世界もあっけないほどに何もなくて、でもそんな空間から少しずつ手の届く範囲を広げていかなければならない。何も失ってないのに何かを失っているような気がして、苦しい。

どうせ歩くしかないのにね。

地球磁石

性懲りも無くあの話をするので聞いてください。

 

道徳によると、生まれつきの差で人を差別することは悪だとされています。それが正しいことなのかそうでないことなのかは各々の杓子定規に任せるしかなく、一方で俺はこの主張を正しいとも思っているのですが、重大な欠陥を抱えていると考えざるを得ないという錯誤の触感を味わう場面が多々あります。

少し前に人と話す機会があって、その折に思い出したことなのですが、俺は昔の昔に下手くそな漫画を描いていました。思い出したのは本当に偶然で、その話題を振られなかったのならばその記憶というか事実は引き出しの隅に縮こまって二度と日の目を見なかったに違いないのです。

さておきここで大事なのは、具体的に何を描いていたのかではなく、俺が漫画を描いていたという事実そのものです。これは本当に不思議です。本当に。だって昔の自分は漫画を読んだことすらなかったのですから。

動機。

何故そんなものを描こうと思ったのか?

誰に言われたわけでもないのに、何故そんなものを描いていたのか?

 

話題は高校生の時代にまですっ飛びます。

高校時代、俺は何故か小説みたいなものを書いていました。学校が終われば真っ先に家に帰って、パソコンに張り付いてメモ帳に小説を書き溜めていくのです。

何故?

事実はもうひとつあります。

自分はきっての読書嫌いで、学校でたまに課題図書が配布されては憂鬱な気分になっていました。感想を所定の用紙のマス目に埋めていくのが本当に苦痛で仕方がなかったのです。

でも気付けば俺は、高校の授業中に勝手に本を読む人間になっていました。思い出せます。読んでいたのは伊坂幸太郎の有名どころ『重力ピエロ』『砂漠』や『バイバイ、ブラックバード』という本です。

何故?

 

 

人生は偶然の連続で出来ているとは言うのですが、この言葉には続きがあります。

人生は偶然の連続で出来ているが、でも、どんな偶然を辿ったところで、結局行き着く先は必然である。

 

 

俺が生産者になりたいと執拗に繰り返す人間なのは、どうしたって終着点、すなわち必然であり、先天的なそれだ。

どんな偶然の薄氷の上を渡り歩いてきたところで、結局は俺は何かを作ることを生存理由に据えていたことには変わりがなかったはずなのだ。

 

 

そこにあるのは先天です。生産者志向な俺の頭は初めからそうなるように決まっていた。逆だって同じだ。消費者でしかない人間というのは生まれながらにして生産に意味を見出せないのでしょう。

それなら、勝手に消費者を見下す行為というのは、冒頭で述べた差別とさして違いがない。

俺は消費者を主張のない人間だと定義しています。

何か思うところがあって、それを誰かに伝えるのに必要な道具を有していない。あるいは、別に他人に主張したいことがない。

その一点において俺は消費者を軽蔑している。

何でもいい。

例えば、自分の人生が誰かの気まぐれひとつでがらりと変わってしまうほどに偶然の連続を感じたこと。

そんな偶然の連続を、偶然だからこそ愛するべきだということ。

会話は高架下を走る時限爆弾だと感じたこと。

声に出さなければ伝わらないという当たり前が、いかに難しいことかということ。

理由があれば人に会いに行けること。

それなら理由を作ってしまえばいいということ。

もっとシンプルなものでもいい。

満月はコンパスで描いたように綺麗だということ。

夕焼けは泣き腫らした飴の味がすること。

雲ひとつない青空は人を殺せるということ。

どんな高尚な弁論も、朝日には敵わないということ。

都会の星が綺麗だということ。

 

言いたいことはないか?

伝えたいことはないか?

ないならそれは、生まれつきの不幸だ。

誰かに思うことを伝えるのに必要な労力を惜しむのなら、それは先天的な不幸だ。

仕方のないその不幸を差別することがどんなに悪であろうと、俺はそいつらの存在をその一点において見下す。

俺はそういう人間です。

無数

文章が下手な自覚がある。普段日本語の話ばかりしている口からそう飛び出るのは不思議に違いないのだが、自分からしてもこれは不思議な事実だ。つまり、日本語についてよく考え咀嚼し想像する割には文章が下手なのである。例えばこの文章の2文目は下手くそだ。分かりやすい原因で言えば不思議という単語が接近しすぎている。事実という言葉をいちいち使ってしまうのも垢抜けない感じがあるし、前半と後半が上手く繋がっていない。

どうやったって*1俺は日本語が下手*2で、とはいえ及第点程度の日本語なら書ける程度の文章力で、しかしたった一文で読者の胃酸を滾らせるような美しい日本語を書けない*3。あるいは、美意識というか美的感覚というか、文章に対するセンスが欠如*4していたりもする。いいものとそうでないものとの区別が案外つかない*5。悲しいかな、才能の壁みたいなもの*6にぶち当たっている気がする。同時にその予感は、今までと*7同じような一方通行の*8努力が意味をなさないことも示している*9

書いているうちは日本語下手だなぁと何度も思い知らされる*10のだけれども、読んでみればそうも悪くはなかったり*11する。でもそれだって、悪くないという言葉を用いている以上、やはりことさらに*12褒められた文章でもないのだ。相変わらずにも文章は下手*13だ。上手いの対極に位置する下手ではなく、上手いの補集合としての下手だ。美しさがない。本当に美しい日本語を書く人の、一振りのために数時間を費やしている*14ような感じ、まるっきり*15文法を無視してなお脳に魔法がかけられたように物語の世界の色*16が浮かび上がってくる感じ、ああいう妥協のなさがそっくり欠けている。

どうしたってどうにもならない。これ以上は。

ただ文章を読み漁ればいいというものでもない。

だから俺は物語の内容の方でぶん殴るしかなかったのだし、内容で勝負出来ていないからこそ今の自分が忌避している過去の自分の作品もある。

同時に俺は、どうしようもないからと言って立ち止まって泣き寝入りするわけにもいかないのである*17。センスがない*18のは事実で、でもセンスを後天的に獲得するという馬鹿げた目標を据えてもいる。理想と現実との差を埋めようと足掻くことが何より価値のあることだというのは知っている。知っているから足掻く。

でも本音は特効薬が欲しい。

それだけ。

日本語のことを考えるということについてあれこれ思い巡らせているうちにこんな結論に辿り着いた。俺はよく自惚れる人間だから、もう一度身分というものを再確認しようと思ってのことだ。

普段は長い文章を書いているから、節々に妥協が垣間見えてしまうのかな、とも思っている。だから次こそは短いものを書こうと思う。

*1:どうやったってって何? 何をやるんだ?

*2:日本語が下手って物言いが下手

*3:書くの重複

*4:欠如とか使いすぎなんだよ 下手か?

*5:区別がつく以外に語彙ないの?

*6:ものって抽象的すぎるもっと説明できるだろ

*7:今までとがダサい

*8:一方通行? フィーリングでそれっぽい四字熟語使ってんじゃねえよ

*9:示している構文、堅苦しすぎる

*10:ここ下手

*11:悪くはなかったりの語彙が貧弱な感じウケる

*12:すーぐことさらにって使う ワンパターンか?

*13:また出て来たよこのフレーズ

*14:数時間という語がふわっとしすぎてる

*15:またまるっきりかよ

*16:また色か

*17:もうのである使うなよ

*18:ない以外になかったのか?

メモ書き

今後について

 

ssを書き終わりました。ア-チャンof高森のssです。ここから肉付けをやっていきます。個人的な目標は+5000字です。よろしくお願いします🤲

 

ひと段落ついたので同時並行でssを書いていきたいと思っています。とりあえず台本1作と地の文1作が楽屋で待機しているのでそいつらを書いてやらねばなりません。台本はさておき地の文はちょっと文体を変えることを画策しています。今のままだとどうにもあの子っぽいところがないので。書きたいことを書くというよりも言いそうなことを書くことを意識したい。

とりあえずセルフタイマー読み直してきます。

 

そのさらに後について

 

無理にでもssを書きたいです。8000字とかでいいので。だらだら書くのはめちゃくちゃ精神への負担が大きい。新しいことを試すにしても短めのをちゃっちゃと書いてやる方がいい。今のペースなら3日で書けるはずなので、ちょっと作品の短さや抑揚のなさというものを意識したく思います。軽めに謎を配置して回収するような作品を量産したいのです。

深海魚

一人ではどうにもならないと感じるときがある。夢物語のような美しい完成形を思い浮かべては挫折するようなことを繰り返してきたから、自身の限界はよく知っている。

作りたいものがある。書きたい作品がある。描きたい作品がある。

でも、本当に自分が望んでいるものは、完成形を眺める行為それだけだ。いつだってそうだった。承認が欲しいのではない。出来上がったものを見て悦に浸りたいだけ。スタートとゴールを結ぶ道中に意味が落ちているわけではない。

昔から、白紙の画用紙が好きだった。白紙を見ればお構い無しに心が躍った。紙とペンさえあれば、自分は何処へだって行ける。でもいざペンを握ってみれば、直面するのは理想と現実の壁だ。何でも自由に描けるというのは一種の能力だ。そんなもの持ち合わせているはずがない。遍く人類にそんな能力が最初から与えられている世の中など、かえって面白味がないだろう。

白紙の画用紙はまるで張りぼてのロケットだった。空っぽのエンジンに空気を詰め込んで、いつか離陸のタイミングが来るはずだと中で頬杖をついていた。

真摯さがない。何かを作りたいという欲にだけ忠実で、本当に何が必要なのかを知っているくせに、行動には反映されない。受け取った時間をそのままゴミ箱に捨てて、水上を漂う流木のようにふらふらと生きている。必ず死ぬと書いて必死だ。そこまでの真面目さがあったとしても、それはそれで救いようがない。

 

何者かになりたい?

成人してまでこんな中学生のような自問自答をすること自体愚の骨頂だ。

さておき、何者かになりたいわけではない。重要なのは、何になるかではなく、結果的に自分の手元に何が残っているかだ。

 

作りたいものがある。書きたい作品が山ほどある。山ほどある書きたい作品のためにやらなければならないことは指数関数的に増えていく。間に合わない。ただでさえ間に合わないのに、くだらないことで時間を浪費するから、永遠に前へと足を進められない。

もどかしい。狂おしい。

そんな感情の行き場はない。一人ではどうにもならない。

 

ストイックに生きようとは思わないし、できるとも思っていない。

でも、一人の時間がもっと必要なのかもしれない。

どうせ決意表明のような行動を取っても無駄だとは分かっている。

だからこの熱は、しばらく心臓に保っておきたい。

目処が立ったら誰かに話すのかな。

そうであって欲しい。

360°



どこかの本で“幸福の本質は移動である”というのを読んだ記憶がある。当時の自分は理解力が乏しく、怠惰がゆえ理解しようとする努力も怠っていて、その言葉の横を通行人のように通り過ぎ、要するに丸っきり無視していたわけだが、しかし先日そのフレーズを再度目にする機会に恵まれて、結果2回目のそれが暗がりの部屋に白熱電球を灯すような明瞭さをもって心臓に刻まれることとなったのである。

幸福の本質は移動だ。幸福という言葉はどうも宗教的な盲信を想起させるから、用いることに積極的になれない。しかし代替案が存在しないのだから仕方なしにこう表現している。

幸福の本質は移動である。



どうもこんにちは。最後まで読んでください。お願いします。


昨日僕はとあるコンサートというかライブに行っていたわけですが、その最中のふとした瞬間に、そういえば誰かの記事でライブに行くことに積極的になれないというのを目にしたなぁ、ということを思い出していました。早い話が、積極的になれないとまでは言わないのですが、しかし似たような気持ちを抱いてしまったわけなんですよね。尤も、ここまでの言葉から自ずと想像される情緒不安定さとは裏腹に、これは穏やかでない話ではありません。なので安心して読んでください。


自分がよく言うことですし、それと同様の頻度をもって他の人が主張することでもあるのですが、大抵の構図には生産者と消費者を見出すことができるわけです。自分は本能的にも理性的にも生産者側に立ちたいと願う人間で、それは単純に消費者という立場の惨めさと情けなさというものが脳裏にしかと刻まれているからです。自身の中に何も残らない趣味を自分は趣味と見做していないという独りよがりな主張をよく話しますが、これも似たような言葉です。(勘違いしないで頂きたいのは、これは僕の中での言葉の定義の問題であって、決して他者への攻撃の意図は含まれていないということです。分かりきったことですが一応断っておきます)

惨めじゃないですか? 大勢の中の1人になって騒ぐだけの生き方って。僕は昨日のライブでそういう気持ちになりました。段落冒頭の文ですが、疑問符で締め括るということは他人にとっては必ずしもそうではないことを示していて、つまり完全な消費者に回ることが全く苦痛でない人間の存在を僕はしっかり認めています。勘違いしないでください。念のため。ただ僕が、消費者側に回ることに一定の精神的な苦痛を感じる性質であるというだけです。消費者を貶そうなどとは微塵も思っちゃいないですし、むしろそんな人間を羨ましく思う夜を何度も越えてきたような人間です。僕は。

ここから自己投資の話に移ります。

一端の大学生ごときが生産者側に回るのは難しいことで、その揺らぎようがない事実が時として僕の心臓をぐしゃっと締め付けるわけです。もどかしさとも言うのでしょう。理想と現実は笑ってしまうぐらいにかけ離れていて、その乖離を一朝一夕で埋められるほど現実は甘くないことを嫌というほど思い知りました。

でも、その差を埋めようとする努力にこそ、価値があるのですよね。これは文章冒頭の警句、幸福の本質は移動であるという文言の意味するところそのままです。例えば僕が高校時代に打ち込んでいたことに、ひたすら難しい言葉を調べて自分の語彙にするという行為があったのですが、あれだって自身の語彙力不足を嘆いた高校生の自分が焦燥感を原動力に理想の自分と現実の世界との差を埋めようと踠いていたに他なりません。今にして思えば本当に馬鹿らしい暴れ方で、そんな言葉の表層だけをなぞる訓練に意味など見出せるはずがありません。でもそうやって水中を溺れるようにじたばたと苦しんだからこそ、今の自分がいるはずなのです。

幸福の本質は移動である。

消費者然とした自分が生産者に生まれ変わるための努力、自己投資こそが幸福の本質であるに違いないのです。

元来創作というのはそういう行為なのではないでしょうか。僕はそう思います。暗殺者が息を潜めて物陰から虎視眈々と機会を伺うあの瞬間こそ人生の絶頂であるのと同じでしょう。何者かになることそのものよりも、何者かになろうと奮闘する日々こそが、窓の外から溢れ出す斜陽を全身で浴びるような緩やかな幸福なのです。


将来の夢という質問に対して、僕はずっと医者になりたいと答えるような人間でした。その言葉には主体性がまるで欠けていて、朱色の血は通っておらず、中身のない張りぼてで、およそ無機物のような言葉でした。そもそも過去の自分がそうなりたいと思っていたことすら不明で、きっとそう言っておけば外聞がいいという理由だけでそんな風な嘘を吐き出し続けていたのでしょう。

こういった場合は本当になりたいものを隠していることが多いのですが、しかし僕はそのパターンに当てはまらないような小学生だったのです。

夢がない。なりたいものがない。なりたいものという発想自体すら持ち合わせていない。それは僕です。別に珍しくないことなのでしょうし、この事実が僕の人格形成に影響を与えたなどとは微塵も思っていないのですが、しかしそういう概念に対する羨望がふっと浮き上がることがあります。夢があるのはいいよな、努力を払うことに対する疑いなどの不純物なく一直線に努力に向かうことができるのだから、という在り来たりな精神です。

でも最近は、その概念が徐々に明瞭になりつつあるのです。ここまで書けばもう簡単な話で、僕は初めから、生産者になりたかったのでしょう。それがあまりに普遍的で漠然とした概念だから、意識をしていなかった。ただそれだけの話でした。


ところで、僕は創作という言葉に一定の苦手意識があります。チープに思えるんですよね。言葉に重みがない。少なくとも自分のやってることをそんな言葉で表現されたくないのです。特別視されたいという傲慢ではなく、名前をつけられたくないというか、そんな曖昧で緩やかで穏やかな不満です。創作活動を創作だと認めてしまえば最後、それが創作とは程遠い別の何かに変貌を遂げてしまうような、そんな心理が脳のどこかで働いているのです。言葉としては便利なのでよく用いるわけですが。



ここまでが自分語りで、ここからが主張です。



聞き飽きるぐらいに言っていることですが、僕は生産者であることを他人に求める人間です。結局これに尽きるのですが、消費者なんかに収束せずに、生産者を目指して生きて欲しいわけです。消費は脆い。今が楽しかったとしてもそれは刹那的快楽でしかないのです。生産は強い。一度体内を循環し始めれば、しばらくその赤は消えることがない。消費者は生産者と違って結局待つことしか出来ないから、時として行き場のない不満を抱えつつも生きる以外の道を選択できない状態に陥る。

何より消費というのは停滞に他なりません。それは幸福の本質は移動であるという主張の真逆に当たります。停滞は幸福の真逆なのです。歩みを止めてしまったその瞬間に、人は緩やかに死に向かっていくのです。結局はこれは変わっていく努力が必要だというクリシェなわけですが、しかし何度も繰り返し主張すべき真実でもあります。

無理にまっすぐ歩こうとする必要なんてなくて、例え正解と180°逆の方向であっても、あるいはてんで見当違いな方向であっても、停滞よりはずっとマシなのです。たまには立ち止まって休憩をしたくなる日もあるでしょう。辿り着いた場所の風景を眺めたくなることもあるのでしょう。しかし、足を踏み出す意志を失ってしまったその瞬間が、あなたが最初に死んだ日となるのです。




NF感想

忘れないうちにざっくり今年のNFについて書き記しておこうという取り組みです。

 

 

 

1日目:11/22(木)

 

ウオオオNFだぁという意欲に満ち満ちた表情で朝日を迎えた割に、やっていたことといえば店番、店番、店番・・・・・・。店番が楽しいと思える瞬間は大体初対面の人と話しているときで、でも今回のNFはあまりそういった機会にも恵まれず、少し辛い思いをした。少しだけね。ほんのたまに店番を抜けてふらふら構内を歩いたりエレクトーン聴きに行ったりしたタイミングで同学科の知り合いがサークルスペースに来ててすれ違ったり、みたいな、運の悪いというか間の悪い出来事が続いたりもしていた。

エレクトーンは良かった(毎年楽しみにしている催しのひとつ)。今年はイリュージョニスタ(デレマスの曲です)が演奏されていたのだが、曲の最中に大画面(注:エレクトーンのライブではプロジェクターを使って曲に沿った映像を流している)で突然ガチャを引いている映像を流していて少し笑った。少しだけね。

 

2日目:11/23(金)

ほとんど何も覚えていない。何かやったっけ? 晩飯が餃子の王将だったことしか記憶にない。

 

 

3日目:11/24(土)

知り合いがDJを務めるDJイベントに足を運んだ。環境の劣悪さを見なかったことにすれば概ね満足だった*1。楽しかった。赤の他人はともかくも知り合い程度以上の人間には是非DJをやって欲しい。行くので。

そういえば店番中の暇から後ろのホワイトボードに虚無な絵を描いていたのを思い出した。思い返せば虚無な絵を描くことがなによりの虚無であろう。虚無絵とは何かというと、「windowsピンボールの左の方にある紫色の謎ゾーン」「すき家で卵を注文したときについてくる黄身と白身を分ける金属製品」「カーテンつるすやつ」みたいな、ひとくちに虚無な絵たちのことである。

今日(これを書いてる日曜日のこと)は「架空の標識」と称して「時速73km制限」「1 vs 3(パーティーゲームにある双六のマス)の標識」みたいなのを描いていた。虚無だ。

昼に小麦粉を小麦粉で揚げて小麦粉で挟んだクレイジーソウルフード*2を食べ、そこから先はしかし店番である。かなしいね。

 

4日目:11/25(日)

燻った三日間分の鬱憤を晴らすときが来た。朝に雀荘みたいな空間で自動卓を触らせてもらった。楽でいい。2回ともギリギリ+の2着だった。

しばらく店番に浸り、ニコテラへと行く。

 ナツカシイスイッチを的確に押してくるステージだった。初めて「嗚呼、平成も終わるのだなぁ」という実感を得た。

一日はNFが終わってから始まる。

 打ち上げ。

打ち上げのためにNFで四日間店番をしたと言っても過言である。今年は去年ほど会誌の売れ行きが伸びず(去年が出来すぎていた)、人ともあまり話せなかったので、消化不良感は否めなかったのだが、そういった煩悶や辛苦の類を打ち上げは全て吹き飛ばしてくれる。楽しかった。店の構造的に飲み会ノマド(飲み会中にあちこちに移動する遊牧民)の立ち回りがやりやすかったのが良かった。本当はもっと色々話したかったのだけど、まぁ充分でしょ。いくつか話題に上がったことを書き記しておきます。

  • 関西マス研合同飲み

記憶が胡乱な人のためのリマインダ。12/8(土)18:00~に心斎橋だそうです。

  • 忘年会
12/21(金)の予定。場所は出町柳(暫定)。
 
  • 逆側のテーブルにノマドしに行ったとき、某一回生が「長文書いてみたい」的なことを口にしたのを俺は忘れていない。何を書きたいという趣旨なのかを聞きそびれたのであれなんだけど、軽い相談になら乗る(俺は同時に日本語下手おだから、被相談者としては不適切でもある)。
  • Minusの曲が流れてるときの俺の一連のアクションで傷ついた人がいるならごめんなさい。俺は良くも悪くも興味がありません。とはいえ、同じことをやった経験がない人間のみが俺に石を投げる権利を有することを忘れてはいけないのです。(こう書くと不穏のように見えますが、別に波風は立っていません。俺が勝手に拡大解釈した結果ここにそう書いているだけです。心当たりがなければ自分は無関係なんだなと思っていただければ)

知見

  • 案外ビールたくさん飲める
  • すき焼きおいしい

 

 

以上です。NFも終わりましたし、原稿の進捗を生んでいきましょう。

*1:消費者のオタクがフロアにいて、こういう人間らとは一生分かり合えねえなという思いを強くした。無論全員が全員そうではない

*2:グラタンコロッケバーガー