地球磁石

性懲りも無くあの話をするので聞いてください。

 

道徳によると、生まれつきの差で人を差別することは悪だとされています。それが正しいことなのかそうでないことなのかは各々の杓子定規に任せるしかなく、一方で俺はこの主張を正しいとも思っているのですが、重大な欠陥を抱えていると考えざるを得ないという錯誤の触感を味わう場面が多々あります。

少し前に人と話す機会があって、その折に思い出したことなのですが、俺は昔の昔に下手くそな漫画を描いていました。思い出したのは本当に偶然で、その話題を振られなかったのならばその記憶というか事実は引き出しの隅に縮こまって二度と日の目を見なかったに違いないのです。

さておきここで大事なのは、具体的に何を描いていたのかではなく、俺が漫画を描いていたという事実そのものです。これは本当に不思議です。本当に。だって昔の自分は漫画を読んだことすらなかったのですから。

動機。

何故そんなものを描こうと思ったのか?

誰に言われたわけでもないのに、何故そんなものを描いていたのか?

 

話題は高校生の時代にまですっ飛びます。

高校時代、俺は何故か小説みたいなものを書いていました。学校が終われば真っ先に家に帰って、パソコンに張り付いてメモ帳に小説を書き溜めていくのです。

何故?

事実はもうひとつあります。

自分はきっての読書嫌いで、学校でたまに課題図書が配布されては憂鬱な気分になっていました。感想を所定の用紙のマス目に埋めていくのが本当に苦痛で仕方がなかったのです。

でも気付けば俺は、高校の授業中に勝手に本を読む人間になっていました。思い出せます。読んでいたのは伊坂幸太郎の有名どころ『重力ピエロ』『砂漠』や『バイバイ、ブラックバード』という本です。

何故?

 

 

人生は偶然の連続で出来ているとは言うのですが、この言葉には続きがあります。

人生は偶然の連続で出来ているが、でも、どんな偶然を辿ったところで、結局行き着く先は必然である。

 

 

俺が生産者になりたいと執拗に繰り返す人間なのは、どうしたって終着点、すなわち必然であり、先天的なそれだ。

どんな偶然の薄氷の上を渡り歩いてきたところで、結局は俺は何かを作ることを生存理由に据えていたことには変わりがなかったはずなのだ。

 

 

そこにあるのは先天です。生産者志向な俺の頭は初めからそうなるように決まっていた。逆だって同じだ。消費者でしかない人間というのは生まれながらにして生産に意味を見出せないのでしょう。

それなら、勝手に消費者を見下す行為というのは、冒頭で述べた差別とさして違いがない。

俺は消費者を主張のない人間だと定義しています。

何か思うところがあって、それを誰かに伝えるのに必要な道具を有していない。あるいは、別に他人に主張したいことがない。

その一点において俺は消費者を軽蔑している。

何でもいい。

例えば、自分の人生が誰かの気まぐれひとつでがらりと変わってしまうほどに偶然の連続を感じたこと。

そんな偶然の連続を、偶然だからこそ愛するべきだということ。

会話は高架下を走る時限爆弾だと感じたこと。

声に出さなければ伝わらないという当たり前が、いかに難しいことかということ。

理由があれば人に会いに行けること。

それなら理由を作ってしまえばいいということ。

もっとシンプルなものでもいい。

満月はコンパスで描いたように綺麗だということ。

夕焼けは泣き腫らした飴の味がすること。

雲ひとつない青空は人を殺せるということ。

どんな高尚な弁論も、朝日には敵わないということ。

都会の星が綺麗だということ。

 

言いたいことはないか?

伝えたいことはないか?

ないならそれは、生まれつきの不幸だ。

誰かに思うことを伝えるのに必要な労力を惜しむのなら、それは先天的な不幸だ。

仕方のないその不幸を差別することがどんなに悪であろうと、俺はそいつらの存在をその一点において見下す。

俺はそういう人間です。