メランカ

何と言うんだろう、文章を書きたい気分だ

 

僕は思いの丈をわりかし全部吐き出してしまっていて、別に今更言うことなんてひとつもねえよ、という

それでもこうやって日本語をぼそぼそ声に出したくなるのは、単純に気分の問題か

あるいは、自分の放った言葉が誰かに目を通されて、その人の反応を見るのがやめられなくなっているのかもしれない

なんにせよ、何も新しいことは思いつけない

だから、どうせ以前言ったようなことと同じことを言うことになるのだろう

まぁ、それでもいいや

 

よくある話だ クリシェ

たまに、自分が幸福なのか不幸なのか分からなくなるときがある

尤も、明確な基準点がないから、分からなくて然るべき

自分が最も幸福に過ごしたという感触を得た一日だって、翌日の自分から見れば何の幸福でもない

馬鹿をやって時間を浪費しただけの場合には不幸にすら映るときがある

 

大局的に見て、自分はどうなのだろうか?

幸せなのか、そうでもないのか

分からない

例えば僕が自分を律することのできる人間で、安易に人の誘いに乗らないような生活をずっと続けていたとしたら

分からない

12時には床に就いて、翌朝の8時には目を覚ますような健康的生活を送る人間だったら

分からない

例えば僕がssを書いていなかったとしたら

分からない

例えば僕が、大学1回生のときと同じように、どこのサークルにも属さずに、暇だからって勉強以外にやることがないような人間だったとしたら

分からない

幸せなのか、そうでもないのか

自分はどんな生き方をしていたのだろう?

その生き方は幸福だったのだろうか?

 

別々の世界線にいる自分、無数の自分を覗いてみたい

時空犯罪をしてみたいんだ

過去に戻って、ちょっとだけ過去を操作して

その過去に追従する未来を、この両目で確かめてみたい

だってそうでもしないと、僕は僕が幸福であることを確かめられない

地獄を見た経験がなければ、天国が天国であると認識できないのと同じ

僕は時空犯罪者になりたかったんだ

自分に宿る仄かな熱の正体が、幸福であるかどうかを確かめるために

今ここで初めて打ち明けることだけど、僕がよく時空犯罪という言葉を使うのは、そういう意味なんだよね

 

まぁでも、僕は別に、今までss書いてきて良かったとも思っている

それが相対的に幸福か不幸かはさておいて、不幸ではないと思っている

ss書くの飽きた!とか言うこともあるけど、根っこの部分では僕はそいつを手放さない

手放せない

むしろ手放せないからこそ、何か他のものをやってみたい、何か他にやれることを見つけないとまずい、という危機感に苛まれているのかも知れないね

 

 

自分語りをする

いつものことだけど

 

昔から、環境に恵まれていたのだろうね

頭が良かったから、別に努力もせずに適当に中学受験して、受かって、小学校のときに少なからず周りにいた頭の悪い人たちと隔離された

大学に来て、僕は未だにそんな状態だ

相変わらず隔離されている

これに関してはこんなに幸福なことはないと思っている

今だって、特に選択をしたわけでもなく、単純に環境に恵まれている

運がいい

 

自分の中では、破壊衝動が燻っている

何となく、破壊をしたい

例えば僕が今、事故か何かで死んでしまったら

あるいは霧のように消えてしまったら

そんな想像をしてみる

別に死にたいわけじゃないし死にたくもない、でも、消えてしまったらどうなるのだろうというのを想像する

きっと、すぐに忘れ去られるんじゃないか

そういえば、あんなやつもいたね、とか

そんな感じに

ヘンなやつだったなぁ、とか

その程度でいいよなぁ、と思う

ただ僕だけが消え去った世界を、ぼんやりと眺めていたい

そういう意味で、僕は消えてみたいと思う

それは想像の範疇を出ないけれど、まぁ、想像力はある方だし、実際消えることは出来ないのだから、妥協する

 

 

今でもたまに、自分がいない世界がどれだけ綺麗かというのを想像する

世界を汚す自分がいるという自覚がある

でもそんな自分が誰かに生かされているのだから、もの好きなものだなぁ、と思う

もし自分が誰かを生かしているのなら、不思議だよなぁ、と思う

 

僕は独りでいい

最大限他人に与えられるものを与えて、何にもなくなって、消えてしまえればいい

それが一番幸福だ

金平糖タイムカプセルホテル

創英角ポップ体最高!

 

明日の15時にホームを出る新幹線に乗って東京に行くらしい

他人事である

 

阪急西宮ガーデンズの話をしよう

阪急西宮ガーデンズは阪急西宮北口駅から徒歩圏内にある大型ショッピングモールだ

なんでもある

映画館 大型食料品売り場 服 靴 家電 フードコート

かつくらもある

 

かつくら

京都の三条河原町に本店を構える、とんかつの店

高いが麦飯食べ放題、キャベツおかわり自由

美味いし、漬物も食べ放題

漬物食べ放題かつ麦飯食べ放題

新世界の幕開けである

ワールドイズマイン

 

かつくらはどこにでもある

四条河原町にある

JR京都駅にもある

2年前に訪れた新横浜駅で何故か目にした

伊丹空港にも誕生したらしい

新宿 立川 吉祥寺 北千住 上野

どこにでもある

上海にもあるらしい

 

どこにでもあるといえば 銀座ルノアール

純喫茶めいた佇まいの珈琲店

水出し珈琲が飲めるのはありがたい

価格帯が高いため、店内が静かなのも嬉しい

ルノアールはマジでどこにでもある

今度東京に行く人はルノアールへのエンカウント率の高さに是非とも驚いて欲しい

千代田区に10店舗、新宿区に22店舗

もはや狂気

山手線の駅を下りればまず目にするのがルノアール

あのかつくらといえども、ルノアールには及ばない

 

ルノアール、関西に進出しないかな

阪急西宮ガーデンズとかに出来てほしい

おぼんdeごはんの跡地とかに

おぼんdeごはん

何が おぼんdeごはん やねん

割と普通のことやんけ

まあいいや、明日は東京

中野の美味しいラーメン食べたいですね

映画館

映画館

 

たまにですけど、建物が分かれてるタイプの映画館ありますよね

北館と南館 みたいな

あれ何なんでしょうね

土地不足が極まっている

 

いっぺん、建物をミスったことがあるんですよ

上映するの北館だと思ってたら南館だった というやつ

ホール番号を探すじゃないですか

ないじゃん ってなって、店員に聞く

「北館ですよ」

「とは」

「別の建物です」

おいおいおい

 

まぁ建物間違ってるだけなら、一旦外に出て北館に向かうだけなので、別にどうでも良かった

問題があった

ポップコーン買っちゃったんですよね

コーラと一緒に

冷静に考えてめちゃくちゃ恥ずかしい

梅田の殺伐としたビル街を、ポップコーンとコーラを抱えて歩く

ユニバかよ

脳内エレクトリカルパレードかよ

 

皆さんも、ポップコーンは上映場所を確認してから買いましょう

 

映画目的よりもLV目的で映画館行くことの方が多くなっている気がして死にたくなっている

隙あらば脱臼する人について

脱臼ってそこはかとなく面白いフレーズですよね

脱臼

臼を脱ぐ

 

??

別に臼でもないし脱いでもいない

何なんでしょうね

脱原発 的な

 

脱臼は、こう、深刻さがない

全体的に字面がヘラヘラしている

例えば骨折とか、やばいじゃないですか

 

「ごめん、遅くなった」

「遅いじゃねーか、どこほっつき歩いてたんだ」

「ちょっと道すがら骨折しちゃって」

 

いや病院行けよ、って話ですよね

でも脱臼だとしたら

その場で爆笑する自信がある

とりあえず応急措置で、その外れてる腕、はめとけ

とか言ってしまいそう

 

というかね

腕が外れる仕組みになってるのがまず面白い

プラモデルと大差がない

 

脱臼癖とか、もう、ね

癖になってんじゃねーよ

麻薬かよ

心臓

人は学ばない生き物だから、どれだけ強い意志であってもいつかは手放してしまう。記憶の揮発性を緩和してくれるものは蒸発しない記憶装置で、言葉だとか文字だとかそういうものである。――本当はこんな自明な前置きを書くこと自体馬鹿らしいことだけれど、少し言い訳をさせて欲しい。この記事は誰の目にも触れられないものとして扱われるべきで、でももしある特定の人間に見られてしまったときのことを考えて、こんな序文を書いている。この記事は自分のための備忘録だ。それ以上でもそれ以下でもない。私は今感じていること、正確に言うと昨日感じたことを書き記さなければならない。書き記しておかなければ、怠惰で傲慢な私のことだから、全て忘れてしまうのだ。

 

生かされていると感じる。

こう書くと、飼い殺しされている、と解釈されそうであるので、換言するなら、こうだ。――誰かのおかげで歩いていられると感じる。こう書くとjpopの常套句みたいだけど、実際にそうなのだからこれ以外に言いようもない。

 

最近は思うところが色々とあって、このブログで話す内容は私の趣味のことばかりだ。

あれだ、文字を書く話だ。

2年ちょい日本語と戯れるのを趣味にしているという話だ。

日本語を書くことに一種の倦怠感を感じている。それは自身の限界を見ているからだとか、単純に上達しないからだとか、そういうありきたりな話ではない。私は苦労をしているわけでもなければ、大きな挫折に直面しているわけでもない。

自分がいくら思うところをぎゅうぎゅうに文章に詰め込んだとて、結局読む人が読む人なら裏の意味というものに気付いてくれないし、つくづく無意味だなぁと思うのである。

この文言は「伝えきれていないお前が悪い」と反駁もされそうであるが、生憎その反論は受け付けない。というのも、伝わっている人には伝わっているからだ。私の思索が正しく伝播している例がある以上、私に落ち度はないはずだ。

 

いくら時間をかけても、伝わらない人間には伝わらない。

私はそんな世の中に対して拗ねた態度をとっていた。

正しく解釈できる人間がいるのだから、それ以外の人間は己の能力不足を嘆いていればいい。

自分の作品が誰かに褒められて、その人間の思う作品の価値を、絶対価値だと認識していたのだ。

 

逆だ。

自分の作品の価値なんて、誰か一人に委ねられるものじゃない。

それぞれにはそれぞれの価値があって、それが高い人もいれば低い人もいる。

私が良い作品を書いているのではない。

私の作品に、誰かが価値を与えてくれているのだ。

だから私は、自分の作品を褒めてくれるような人間に、生かされている。

 

初めてpixivに文章を投稿した。

処女作を誰かが誉めてくれた。

誰が誉めてくれたかなんて忘れるはずがない。しっかりと覚えている。その上であえてぼかしている。

初めて掲示板に作品を投稿した。

そもそもどうして掲示板に作品を投稿したのか。

褒めてくれたからだ。誰かが価値を吹き込んでくれたからだ。

背中を押してくれたんだ。

書いた作品に懐疑的だった私に、自分の作品を信じる力をくれた。

今回だってそうだ。

どうしても書き下ろした作品を信じ切ることが出来なかった私に、そのせいで散々弱音を吐いて、ダメならダメだと言ってほしいとまで零した私に、これ以上ない撃力を与えてくれた。あなたは正しかった、と言われたようなものだ。疑うことに疲弊していた私は、やっと信じるに足る根拠を手に入れたのだ。

 

生かされている。

お世辞であれ本心であれ、私は評価をしてくれた人に背中を押されて、ここまで歩いて来ている。

自分の作品が評価されるのは、私の才能や努力にのみ起因するものだと思っていた。

とんだ勘違いだ。

私の作り上げた世界を受け入れてくれる人がいたから、私は自分の世界を信じることができたのだ。

私に能力があるのではない。

私の作品を評価してくれる人に、私の文章を面白いと感じることのできる能力があった。それこそが正しい構図だ。

 

やっと気付いたんだ。

遅すぎる。

最北端

誰かに認められたいというのと自分で自分を承認したいというのにはとんでもない隔たりがあると思うんだけど、これを分かってくれる人はそうそう多くはないというのが経験則の中にあるし、「俺は誰かに認められたいんじゃなくて自分自身に認められたいのだ」とぶつくさ呟いたところで、承認欲求の萌芽を恥じている人特有の言い訳にしか思えないから説得力がない。

漠然と何かになりたがっている。問題はいわゆる目標だとか終着点だとかそういった趣の言葉で表現されるものがはっきりしていないことなのだ。何かになりたいのならやるべきことはおのずと定まってくるのに、その前提がそもそも欠落している。努力をしようにも具体的に何をすればいいのか分からないし、気分で何かを始めてみたところですぐに飽きる。

趣味というものは人となりの大部分を食っている重要なパーツだと思う。自己紹介では何かと趣味の公開を要求される。趣味には受動的なものと能動的なものの二種類があって、前者は無意味(念のため記載しておくが、無意味とはいえ無価値ではないと捉えている)だと思うことがよくあるし、後者は自分との戦いを余儀なくされることがままあって、趣味という気楽な風情の割に壮絶な苦痛を伴うことが多い。まさしく一長一短、最適解など存在し得ない。

流れに逆らうほどの撃力を持った行動は自分のあとについて回らないのに、安易な自分を変えたいと思っている。何かにならなければならないという自然発生的な危機感が絶えず心臓を抑えつけているが、何になればいいのかはわからないし、そもそも人は何かになるような存在ではないと思ってすらいる。誰かを目標にすればいいのかと思って、色々な人間を思い浮かべてみるが、別にああなりたいわけじゃないな、と思ってしまう。

他人の形容詞についてよく考える。普段頻繁に会うような人間を思い浮かべてみて、こいつはこういう奴だ、というのを真剣に考えてみる。例えばあいつは歌が上手い、あいつはよく寝る、あいつはゲームが上手い、あいつは面白い……そんな具合だ。

他人の趣味についても考えてみる。あいつの趣味はこうだ、あいつはよくああいうことをしている、あいつは珍しい趣味をしている……。

どんな角度から現実を見下ろしてみたところで、なんとなく空虚だな、と思うときがある。あいつは頭がいいが、頭が良かったところで何にもなりやしない。逆にあいつは頭が悪いが、別にだからといって何か悪いことがあるわけでもない。あいつは運動神経がいい。しかしだからといって特に意味はない。あいつは独特のオーラを醸し出しているが、それだけのことである。正でも負でもない、まぎれもない完璧な0がそこにはある。

楽しそうにしている人を思い浮かべてみる。

そんなもの一時的な感情に過ぎないのだから、別に意味はない。

今まで生きてきた瞬間瞬間に表出していた感情に何か意味があったのだろうか。何が楽しくて生きてきていたのだろう。わからない。でも、感情は人の制御の埒外にあるから、日々移り変わるそれらに身を委ねていれば、それでよかった。

 

ゲームをやりたいという衝動に駆られるがままにゲームをやる。後学のために純文学を読む。娯楽として大衆文学に目を通す。音楽を聴く。文章を書く。

知らない街を歩く。知らない街の知らない風景の写真を撮る。美味しいご飯を食べる。酒を飲む。高いビールをジンジャーエールで割る。麻雀をする。下らないテーブルゲームをする。想像力で行ける所までの範囲内で、友達に架空の話を聞かせる。

本屋に行く。夕焼けを撮る。空を眺める。喫茶店でひとりで時間を潰す。あれこれとものを考える。言葉遊びを必死に考える。ライブに行く。コーヒーを啜ってお菓子を食べる。たまに数学の問題を考える。ひとりで映画を観に行く。カラオケに行く。

 

たったそれだけだ。

生産性。

何をするにつけても、今は生産性が感じられない。

世の中の誰もが、非生産的な行動にかまけているように思える。実際にそうであるはずはない。でも、今の自分にはそうとしか思えない。

嘘を妄信している。世の中の行動すべてが生産性のない行動であるわけがないのに、その架空を疑えない。

 

来るとこまで来た感がある。

レモンの爆弾を画材屋に置きたい気分だ。

何か偶然が降ってこないかな。

吐き出す

どうにも理由は思い出せないけれど、ここ1年の私の生存戦略の中に最優先事項として「ものを書く」というのが君臨し続けていた。とかく五感に気を配り、道を歩けばこの景色はまるでこれのようだと比喩に思いを巡らせ、ときに本を食べ、ときに文章をこねくり回し、そうやって生きてきた。

ものを書くのは上手い方ではなかった。そもそも今も上手いとは到底思えないものを書いているという自覚がある。ただ、昔から思いの丈を淡々と綴るのが好きだった。思い返せばそれは、何も武器を持たない私の唯一の自己表現だったのだろう。

ブログに思索の結果を掲載するという習慣は高校時代からあった。大学に入って、ひょんなことから書く内容が、論説的な文章から物語的な文章に遷移した。半年ほど書いているうちに、どうにも誰かにそれを褒められるようになった。

私には人の心を動かせるようなものを書いたという自覚が無かった。私は自分の世界観が決して万人受けしないことをよく心得ていたし、その態度は大学に入学した時点で既に極端まで行っていた。自分の好きな要素が他人のそれと同一でないことがザラにあるというのは当たり前のことにしても、自分の世界なんて誰一人として理解してくれないものだと思っていたのだ。それは経験則に基づいた諦念だったのだろう。

少しだけ他人を信じてみようという気持ち――心地の良い痺れが手の先に広がっていくようなあの感覚を、今の私はありありと思い出せる。

 

時が過ぎて3年目の夏を迎えた。

私はそんなささやかな承認を得るのにも飽きてしまった。

何様のつもりだと言われれば、申し訳ないと平身低頭する以外にない。

しかしそれは事実だ。いくら私がそれを拒絶しようとも、私の体内でその感情は生き生きと呼吸をしている。

退屈。

その言葉が脳裏を掠めたその瞬間から、私はその二文字を体内に飼うこととなる。

 

どうして文章を書いているのだろう? ものを書くのが楽しいと思える瞬間はある。でもその楽しいという感情は、「こういうことを書くと読者にインパクトを与えられそうだな」だとか、「こう書くと文章が巧いと思われるんじゃなかろうか」とか、そういった不純な理由に起因するものである。昔はその限りではなかったかもしれない。いや、そんな理由はどこにもなかったはずだ。だって、誰かに読まれることを想定して書いたことが一度もなかったのだから。例のブログだって、誰にも読まれずに電子の海で漂流物のように浮かんでいればいいと思いつつ書いていた。

今はどうだろう。誰かに見られることを無意識に脳内で想定している。

無論、一般的にそれは決して悪いことじゃない。

でも、その態度は、かつての自分のそれとは大きく異なっている。

承認を得るのにも飽きたし、承認を得るために文章を書くという行為にも飽きが来た。

するとどうだろう。より美しい日本語を書くためのここ2年でのたゆまぬ努力が、あまりにも無意味な行為だったと思えて仕方がないのだ。

全てが土に還ったような、そんな感覚だ。

 

私はいま、幻想から解き放たれたのだと思う。

承認されたいという不安定な拠り所から解放されたのだ。

悪いことではない。承認を得たいという動機を失ったとしても、私はきっと、惰性で文章を書き続ける。私が日本語を綴る動機の全てから、不純なものを抜き去って、最終的に残った赤い炎を灯りにすればいい。

私はこれをむしろ幸福だと捉えている。

またとないチャンスだと考えている。

ようやく私は現実を見られるのだ。

無知から解放されるのだ。