深淵と誕生日

開け放たれた窓の外で夏が鳴いていた。_____________________________________________________________________

誕生日というものをひどくどうでもいいもののように思う。

 

 なにがしかの作品では誕生日という本来なら人間自身は知りえないはずのものを知っていること自体に価値があると論じられているらしいというのを耳にしたことがある。それはさておき、現代に絡まっている誕生日を口に出しそして祝う一連の流れが不自然なものとして目に映ることがある。楽しいからそれでいいのだという議論は御尤もであるし私自身もそれを否定することは吝かでないわけもないのだが、虫眼鏡を持って誕生日に関する一連の流れを凝視してみれば、そもそも人が生まれた日を祝うのは果たして何を祝っているのか、仮に無事に一年を過ごせたことへの祝いだとして、なにゆえそれを世界に生まれた日から一年ごとに「絶対に」祝う「必要がある」のか、無事に一年を過ごせることは無事に一日を過ごせたことの集積であるはずだから、タイミングが良いからってまとめて一年の無事を「特定の」一日で祝わなければならないわけでもないのではないか、これが一刻の時間をも無駄にせぬと躍起になって行動に支払う時間を圧縮する現代社会の運命なのか、などと脳内議論がころころとヘンな方向に転がってゆく。

 ここまで書くと私は誕生日を祝うことに懐疑的であり深淵を覗かずに誕生日を祝うような人間は追放すべきなどという過激な思想を以て世界を統治せんとしているセルフオリエントな人間のように思われる可能性が如何にも高そうだが、そうではないことを断っておく。人間は生まれながらにして誕生日というその人固有の属性を付加されている。私には誕生日を祝うことはその人の世界における存在の肯定のように思えると同時に、自己と他者をわけ隔てる分かりやすい属性によってある種の承認欲求不満の解消を行っているように思える。誕生日を祝われる人は、誕生日を祝われることによって、自分が人間として存在していいということを自覚すると同時に、自分が自分として(他者と区別されて)存在していいということを自覚するのだ、と思える。

 関係ない話だが、私が誕生日を祝われるのを避けたいと思うのは、半分が誕生日という分かりやすい属性を以てせずとも自分が他者と区別されているほどの人間でないことを自覚したくないからである。もう半分は、自分が同じように祝われたいから他人の誕生日を祝福しているのだと思われたくないからである。

 

 誕生日を祝うことのおかしさは考えてみればなかなかに面白いものではあるのだが、是非に関していえば、誰かが誰かの誕生日を祝わない世界線よりも、誰かが誰かの誕生日を祝う世界線の方がずっと素晴らしいものであるから、論じるまでもない。だが誕生日とは何なのか、思考停止せずに少し思いめぐらせてみてほしいと思う。他の人はそれぞれどう考えて人の誕生日を祝うのだろうか。気になる限りだ。僕はみんなを知りたいんだ。