金星と木星と秋と冬

理系にせよ文系にせよ(積集合が空集合であるという仮定を元に議論を推し進めるナンセンスさはさておいて)どちらかかたっぽしか能がない人間を、その片方がものすごく尖ってでもいない限り、一途に嫌っている節がある。そもそも(世の中の96%はそうであってしかるべきだが)面白みのない人間というものが、会話したくないレベルで嫌いだったりする。これは同族嫌悪みたいなもので、犬と会話していると自分も犬であるかのような錯覚に陥るのと同じように、会話している相手と自分が同じレベルだという錯覚に陥ってしまうから、面白みのない言葉しか吐いて出ず、会話をする気が初めからなく、自分語りや衒学にしか意識が行っていない中身や深みのなく残念な人間と会話していると、自分もそのようであるという揺るがない事実が靄のように立ち込めて会話を覆うのである。

人生経験が浅く、大した種類の人間に出会っていないので、文理両刀の人間か、理系特化型の人間にしか出会ったことが無い(出会っていたのかもしれないがそれをスルーしている)。そもそもあまり人と会話をすることがないので、この人間は面白いことを言うなぁ、とか、よくわからないけど言動の節々に含蓄があるなぁ、とか、そういった類の、背中の奥が見え透かないような人間にあまり会わない気がする。何気ない日常会話の中で、矢庭に隕石が降ってくるかのような比喩を何の気なしに用いたり、誰もが思いつく資格を持ち得ていて、それでいて誰もが思いつかなかったことを何気なく口にしたり、聞いたこともないような言葉の話を聞かせてくれたり、謎に用途のない知識が豊富で、それをちらつかせることなく大事にしたためていたりするような、そんな人間に出会えたら楽しいんだろうな。

退屈だなぁ。面白みのない人間と会話するのはやっぱりしんどいな。さっさと捨てるか

食用セルロース

女の子は砂糖とスパイスと水35L、炭素20㎏、アンモニア4L、石灰1.5㎏、リン800g、塩分250g、硝石100g、硫黄80g、フッ素7.5g、鉄5g、ケイ素3g、その他少量の15の元素でできているらしい。何を食べたらそうなるんだろう。

 

我々が吸収という言葉を目にしてぱっと思いつくのは、その動詞がメタファーとして興味深い使われ方をしているということだ。人がしばしば吸収しているのは知識だとかいう曖昧模糊な朦朧体だったりするし、会社はよく吸収される。普通に生きていれば思い至ることだと思うけれど、吸収という言葉は狭い範囲でしか用いられないにしては便利な言葉だと思う。視界に映る事象は我々の体の中に吸収されてはじめて存在しうるのだし、視界に限らずとも、それは五感ならばどれだっていい。すなわちヒトは生きているだけで(正確には起きているだけで)常に何かを吸収し続ける運命にある。僕はこれを"食べる"と表現することがままあるのだけど、誰もわかってくれないので、ここに書いておこうという次第である。本を読んでいると痛感するのが「本を食べる」ことの大切さである、といった具合に、食べるという動詞を吸収するの同義として利用する。

 

例えば、ご存知の通り、「本を食べる」のと「ただ本を読む」のは天と地の差が開いている。読むというのは字を目で追うのみで、本を読んだ結果得られる諸々を得ずに終わる可能性がある。本を読むことを有意義にしたいのであれば、本を読むことを意識するのではなく、本を食べることを意識すべきである。ふたりの人間がいて、同じ「本を読んだ」にしても、明々白々な差がついてしまいかねないので、食べることを意識した読書の仕方を考えるべきだ。これは一例にすぎず、もっと食べることを意識するべき場面が多くある。音楽を食べたり、絵画を食べたり、本媒体に限らず何かの物語を食べたり、など。他の人がなんだとかいちいち考えるのが面倒で仕方がないからあまり考えてないけれど、僕は手もとに何かが残るようなものの消費の仕方をしていかないと不安でやっていけない。

 

何かが残る趣味を選び取っていかないと社会的に死ぬぞ。

一睡の夢

例会で原稿を書いていた。少し手を動かすのに疲れて、パソコンをぱたんと閉じて、目の前に映ってるぶんだけの景色を観葉植物のように眺めていると、何も憂鬱なことは思い当たらないのに、死にたいような、死の淵で深海の底をつまらなさそうに眺めているときのような気分になる。季節の変わり目で、成り行きのように風邪を引いて鼻がろくすっぽ機能せず、食べ物の風味も分からず、息も絶え絶え、声を上げようとすれば喉が悲鳴を上げ下手くそなヴァイオリン奏者の三重奏のような音を出すにとどまっていたことだとか、よく知ってる知人をベースに脳内で作り上げた別人の何かにいかに嫌なことをされる可能性があることを想像して無常観と悦と愚かさを感じ入ることだとか、時間がすっかりもとの風景を奪ってしまった教室の様子だとか、明日が誕生日であることとか、不安材料でもなければ僕を脅かすことでもないが、何かとこころを一途にかき乱す感情の連鎖がすっかり脳をくたくたに撚れさせているので、感情が風邪を引いた様子でかたかたと震えているのである。すっかりメランコリーにとりつかれて、心ここにあらずのまま歩いてご飯を食べて家に帰った。偉大な芸術の巨匠はメランコリーに憑りつかれると神的狂気を発揮して作品群を遺すのであるが、僕に神が憑りつくほど神も暇ではないだろうし、メランコリーがどうとぬかすのはきっと気のせいだと思う。脳を埋め尽くしている理性感情の類にいちいち名前をつけないとやってらんないのだ。疲れてるだけだから早く眠りたい。そしてどうせ寝ない。

眠る鉄の塊

人は人と関わり始めた時点で、その人ならばこう考えるだろうななどどいう推測にも満たない思い込みの権化を心の中に飼い始めるのと同時に、その人間の存在そのものが桎梏となって、我々の行動を縛り始める。コミュニケーションとは結局のところ推測の連続であり、本当の意味での意思疎通など存在しないに決まってるから、お互いがお互いに意思疎通をしたフリをして騙し騙され日々を繋げていく。我々はその時点で心の中に「他人」を飼い、その「他人」と対話を行って、疑似的に意思疎通をしている。自分の目に映っている他人なぞ「自分の目に映ってる他人」でしかないのだからそれが他人そのものでないことは空が晴れか雨かどうかより明らかである。そんな感じで心の中に無数の生き物を飼っているから、その生き物をうまく統御してゆがめ尽くしてやれば、我々の世界に映るイキモノはみな自分の都合の良いハッピーフレンズである。このように人間は事実の確認ができない未来永劫の不確定要素に対して楽観的であるのと同時に、飼っている生き物に対して悲観的でもある。生き物に対し、ある種の不安と怯懦を感じ取っている。心の中で作り上げた生き物は自分に従順であり、自分に従順であるからこそ真黒な魔物に変化していることが頻繁にある。他人がどう思っているかどうかは推測の域を出ず、だからこそ、こうあってほしいという願望と、こうあってほしくないという願望が絵の具のように綯い交ぜになって、顔も手も足も判断のつかない無数の化け物を生み出している。化け物は見るのも恐ろしい見た目をしているのだが、ただ心の中を闊歩しているだけで、人を襲うことがない。それでも我々は化け物を恐れ、「もし自分の思っているようなことをあの人が考えていたらどうしよう」などと、純度100%の0%を不安がっている。肥大化した化け物に対峙するかのごとく現実の他人と関わらんとするけれども、実のところ他人はしょせん人間である。何も怖がることはないと自身に言い聞かせてのコミュニケーションは上っ面だけで、ゴミ箱に蓋をするかのように人は人を知りたがらないのである。化け物はもともとは人だったものにありとあらゆる推測を付加したものである。なるほどそいつは現実に即している。本当に怖いものは正体がはっきりしているものではなく、何が何だか分からないものなのだ。

 

ねむい。

深淵と誕生日

開け放たれた窓の外で夏が鳴いていた。_____________________________________________________________________

誕生日というものをひどくどうでもいいもののように思う。

 

 なにがしかの作品では誕生日という本来なら人間自身は知りえないはずのものを知っていること自体に価値があると論じられているらしいというのを耳にしたことがある。それはさておき、現代に絡まっている誕生日を口に出しそして祝う一連の流れが不自然なものとして目に映ることがある。楽しいからそれでいいのだという議論は御尤もであるし私自身もそれを否定することは吝かでないわけもないのだが、虫眼鏡を持って誕生日に関する一連の流れを凝視してみれば、そもそも人が生まれた日を祝うのは果たして何を祝っているのか、仮に無事に一年を過ごせたことへの祝いだとして、なにゆえそれを世界に生まれた日から一年ごとに「絶対に」祝う「必要がある」のか、無事に一年を過ごせることは無事に一日を過ごせたことの集積であるはずだから、タイミングが良いからってまとめて一年の無事を「特定の」一日で祝わなければならないわけでもないのではないか、これが一刻の時間をも無駄にせぬと躍起になって行動に支払う時間を圧縮する現代社会の運命なのか、などと脳内議論がころころとヘンな方向に転がってゆく。

 ここまで書くと私は誕生日を祝うことに懐疑的であり深淵を覗かずに誕生日を祝うような人間は追放すべきなどという過激な思想を以て世界を統治せんとしているセルフオリエントな人間のように思われる可能性が如何にも高そうだが、そうではないことを断っておく。人間は生まれながらにして誕生日というその人固有の属性を付加されている。私には誕生日を祝うことはその人の世界における存在の肯定のように思えると同時に、自己と他者をわけ隔てる分かりやすい属性によってある種の承認欲求不満の解消を行っているように思える。誕生日を祝われる人は、誕生日を祝われることによって、自分が人間として存在していいということを自覚すると同時に、自分が自分として(他者と区別されて)存在していいということを自覚するのだ、と思える。

 関係ない話だが、私が誕生日を祝われるのを避けたいと思うのは、半分が誕生日という分かりやすい属性を以てせずとも自分が他者と区別されているほどの人間でないことを自覚したくないからである。もう半分は、自分が同じように祝われたいから他人の誕生日を祝福しているのだと思われたくないからである。

 

 誕生日を祝うことのおかしさは考えてみればなかなかに面白いものではあるのだが、是非に関していえば、誰かが誰かの誕生日を祝わない世界線よりも、誰かが誰かの誕生日を祝う世界線の方がずっと素晴らしいものであるから、論じるまでもない。だが誕生日とは何なのか、思考停止せずに少し思いめぐらせてみてほしいと思う。他の人はそれぞれどう考えて人の誕生日を祝うのだろうか。気になる限りだ。僕はみんなを知りたいんだ。

炭酸水

常々思うことだが、(自明に)人は人を消費して生きている。私が今座っているベッドだとか、もう二日は点けっぱなしのエアコンだって、何ならこの建物だって、私はその製作や創造に一切のかかわりもなく、ただ金銭を支払うことによってのみその使用権を得ている。人は八方美人である、だがそれ以上に自分の脳が身体の行動を決定する権利を得ており、あくまで理性に基づくマシナリーな行動を取って生きる文明人だと錯覚したいがゆえ、あるいは自分の行動はその正義が正しいか間違っているかを抜きにして、正義という行動規範に一本の筋を貫き通していると思い込みたいがゆえ、おのがじしの行動の美化正当化に全力を尽くす。だから、どうせそうでなければ無駄たる無駄の骨頂であったろう自分自身の働いた時間というものを誰かへの報酬と称し、口では感謝だの自分は色々な人に支えられて生きているんだなぁだのべらべらしゃべりつくすのだけど、実のところそれは斜めに傾く天秤のトレードを道具にして、うまい具合に人を利用しているだけに過ぎない。両方が両方をそうやって歯牙にもかけないのだからちゃんと均衡が保たれていて、お互いはお互いをなくてはならない存在とか縁の下の力持ちとか辞書の紙がごとく薄っぺらい上っ面の言葉を投げつけるし、お互いはちゃんとそれが上っ面だと認識していて、うわべの言葉が飾る世界がどれだけ美しいクリスマスイルミネーションなのかを正しく悟っているから、誰も何も言わない。モミの木は毎日眠っては起きを繰り返し、おもちゃのベツレヘムの星は塗装がはだけようとしている。人間というのは嫌なものだってしっかり目に捉えることが出来るような目の構造に不具合でもあるに違いない生き物だから、うわべの言葉が飛び交っているのがちゃんと見える。あの人は実のところどう思っているのだろうと考えたところで、赤の他人は朱に交わることをやめない。結局行きつく島は興味がないの連続なんだから取り付く島もない。興味がないから消費をするのだ。一考を挟むに、大量消費の社会というものは、視界に映る「興味のない」人間が増えたことによる因果律なのだろう。いくら聖人とはいえ、視界に映る人のすべてにそれぞれ興味を持っていたらきりがない。普通の人にとってはすべてどうでもいいのだ。誰かが電車に轢かれようが、その人の人生には特に興味がない。興味がないから人の死を笑ってSNSにアップロードしたりする。興味がないから適当なことを言って、事件だの事故だのをエンターテインメントにできる。興味がないから罵詈雑言を叩ける。興味がないから他人の私見を決めつけられる。興味がないから人を馬鹿にできる。興味がないから何も考えようとしない。

人間からすれば、人間というのは目に映る一つのコンテンツに過ぎないんだと思う。テレビのチャンネルを切り替えるのに似ている。対岸で火事が起こっていればそれは面白いことなんだと思う。

水掛け論

三日月が裏返って夏の夜空を真黒に照らしている。無限に落っこちてきているような灰褐色の建物がすべて眠っている。皆さんはどうお過ごしだろうか。

人間はいつだって多重人格で、私を司る幾多の感情が今日も意思決定に紐をくくってあちらこちらへと船頭多くして船山に登っている。人格の一人一人が人物像を決定すれども、私という人間はあくまでその人格の複合体であるがゆえ、結果的に目に映る印象とか人となりとかは酷く曖昧に映っている。ぼやけた視界に微かに映る人影は、光り輝く"いいひと"だったり、黒く染まって包丁をぶん回している"絶対悪"だったり、道端の石ころだったりする。眼鏡をかけなおして見えた人物像が今度こそははっきりしているだろうと思ったその翌日には全くの別人を見る自分がいる。昨日見えた石ころは今日は絶対悪だったり、昨日見えた絶対悪が気付かぬ間に"いいひと"にすり替わっているのだから恐ろしい。闇雲に振り回した包丁が刺さった相手はイイヒトか絶対悪か石ころなのか、とうに判断がつかない。石ころだと思って蹴り飛ばしたら絶対悪だったりすることが多いのだから背筋の凍る思いもする。

視界に映る世界が「好き」か「嫌い」か「興味ない」かの三つに分断されている。去年こそ嫌いなものが増えていくなぁと悟った顔で適当なことをのべつまくなしにべらべらと喋っていたものだが(今でも変わらない気がするけど)一年もたてばそれらの事象にいちいち腹を立てて逡巡するのも馬鹿らしくなって、大体の世界が興味ないのゾーンに左遷された。何かにいちいち怒っていた僕の人格たちは紐を握る両手の握力を失った。究極形がアパシーたる、肥大した「興味ない」の超巨大集合を腹に抱えて生きて、余計なエネルギーを使わない代わりに、その巨額の「興味ない」は手放すこともできず、『ほんとうに興味がないのなら興味がないなんて言うはずないのにな』なんてもっともらしい言説をガシャポンがごとく吐き出しておきながらもなんとまぁ無責任なことに、ライクでもヘイトでもない虚無を洗濯物のようにため込んでしまった。ああ無感情。あなたも無感情主義、どうですか。

両手に足りる程度のライクと一緒に生きていけたらいいな。数人でいいや。多くは求めないでいいな。そこからあぶれた人のことは、まぁなんとも思わないよ。

 

興味ないし。