オキシジェンシリンダー

変な夢を見ては、それを覚えている人間だと思う。それはヘンな動物に追いかけられて、唯一の逃亡手段である車が故障をしてエンドロールが流れたところで目が覚める夢だったり、地球が指折りの高山地帯を残して一面が海に覆われ、生き残れないことを悟った人々が海を泳いで遠ざかるのを背後でずっと眺めている夢だったり、水飴に溺れているのに永劫死ぬことができない夢だったり、理由もなく街が壊れていく夢だったりする。でもこんな話を誰かにしたこともないし、無意味だと分かり切っていることをわざわざ人に告げるような人間は少数派を煎じて気を飛ばしたものだと思うので、世の中の大半は変な夢を見ては、忘れることが出来なくなったそれを徒に血の中に通わせているのだろうなと邪推する。

ふと何かを思い出すことがある。角張った横文字で言うところのフラッシュバックという概念だ。こういうときトリガーは得てして五感のいずれかで、(他人との特殊性を強調する意図は全く含意されない表現として用いるが)私は嗅覚と聴覚に多い。そもそも味覚や触覚で何かを思い出すことは稀であるし(味覚に関しては考えられないこともないが)、視覚の場合はフラッシュバックなどという仰々しい表現を用いない気がする。私は平安貴族ではないので情趣がどうたらとか感傷がどうたらとかそういった類の話題はここに持ち込まないことにするが、聞き覚えのある音や触れたことのある香りをふと抱いたときに感じる寂寥感の正体は、思い出の当事者であった自分の内なる世界から溢れ出した無数の感情への渇望なのだろう、と私は結論付けている。記憶というものは時間によって擦り減らされるからこそ、人は何らかの手段で――写真を撮ったり文字に起こしたりして――必死に足掻く。忘れないでいようとする。生きとし生けるものが迎える運命とやらを記憶もしっかり背負っていて、しかも灯火の消えた後には死体も残らない。そのうえに記憶は足が早い――簡単に鮮度が下がる。摂理は大概残酷で、畢竟人間はそういったオプショナルな利得のために脳のリソースを割くような仕組みをしていないのだろう。

脳が忘れてしまったことを身体はちゃんと憶えていて、死んだ私の記憶は私の血を巡っている。一年前の私がどんな風なことを考えて生きていたのかもう誰も知りえないのだけれど、私が当時抱きしめた無数の感情は、私の脳から指先を伝って、一年後の今日になって初めて外の世界へと溢れ出していく。

もう一度忘れ物を取りに行こうと思う。記憶の海で溺れそうになりながらも、それはまだ呼吸を繋いでいる。

躁病日和

自分を主人公だと思っている人間が嫌いだ、と思うことがよくある。それは私と性別が同じで私と血の繋がった人間を見てよく思うことで、それ以外の人間には無関係のことだ。だからもし誰かがこれを読んで、ナイフを首元に突きつけられた気分になったとしても、それは過剰な自意識の招いた悲劇であり、私は貴方を刺すつもりはなかったのだ、と断っておく。私にはありふれた一般論を論じるほどの人生経験も説得力もないのだ。

一年前の私は、自称主人公を嫌うと同時に、心のどこかに主人公になりたがる自分を飼っていた。私はそれを自覚していたし、感情が熱暴走を起こして自己顕示欲の鬱憤を霧散させようと躍起になる自分を嫌ってもいた。勿論そんな上っ面だけの自己嫌悪は、結局のところ自分への言い訳でしかなかった。

感情というものは心の中で輪廻転生を繰り返す生態系の一角を担う生物と同じで、殺しても殺してもすぐに湧いて来る。ずっと前から嫌いだった、他人によく見られようとする自分を二度とこの世に現れないようにするために必要だったことは、自分を殺そうとする意志ではなく、効き目のある物質の投与––分かりにくければ薬とでも置き換えれば良い––だったように思う。心のどこかで穀潰しをしている自称主人公は、私が芯から心を震わせられるような、それに打ち込む自分を真正面から認められるような趣味を見つけてから、風船から空気が抜けるようにしぼみ始めた。確かなものが自分に宿る感覚は、派手にナイフを振り回さなくとも、嫌いな自分に最後通牒を突き付けてくれる。

だからこそ今の私は、主人公になりたがる人間を、自分を主人公だと思っている人間を、この上なく純粋に「嫌いだ」と断言できる。この嫌悪感の齎すものは、自己中心的な考えを元に他人を足蹴にする人間の稚拙さを嘲笑うようなシニカルな感情でも、自称主人公のもつ他人に害を与えるという特性に対する怒りのような感情でもない。自分を主人公だと思い込んでいる人間は、そんな手段を取るまでしないと自分を承認できない人間なのだ、という原始命題的な事実なのである。

血が繋がっているという救いようのない事実と、その事実から私はまだ逃げられるんだという自信が、今の私の血の中には確かに流れている。

 

洗濯物を干しながら、ふとそんなことを考えていた。

ハリボテ

無意識に散らかった文章を書けたのは何かに怒っていたからで、何かに怒れるのは少なくとも怒りの対象が存在するときだけだ。生活は絶対に止めることのできない鉄道か何か、大きくて人工的な夜の生き物みたいなもので、僕は車輪の下を想像しながら客室で眠っている。そんな風な人工的な安寧の中で閉じこもっているうちに過去のことをすっかり忘れてしまったのだろうか。果たして僕はそもそも何に怒っていたのだろうか、もう何も思い出せない。

 

日本語の濃縮率は素晴らしいと思うときが誰にだって訪れる。洗脳兵器、未来永劫、永久機関、時空犯罪......神にアジダハーカという名前をつけるように、漢字4文字の箱に無茶苦茶なものを押し込んできた。ハリボテである。......世界平和。人は絶対に存在しないものにも名前をつけるのである。

平和は主観だ。ディストピアは当の本人たちからすれば平和そのものであり、逆にディストピアでなければ平和たりえないような気もする。平和の裏側にあるのは真実であり、真実を無視することが平和への近道ではないか?何も知ろうとしない態度が平和なのではないか?すべてを風化させることが平和そのものなのではないか?

靄のかかった怒りを覚えなくなったのは何かと無関心になったからなんだろうか。毎日が平和で、それでいて怒りが原動力となってものを書いたりできたから、少し寂しい。

 

11月11日は近所の交差点で誰かが死んだ日だ。僕は偽善者でないので胸は痛まないが、少しずつ、その事故に関わった人の怒りの感情が薄れて、事故のことが風化していっている気がする。それが正しい世界平和だ。忘れちゃいけないことなんて一つもないんだ。

金星と木星と秋と冬

理系にせよ文系にせよ(積集合が空集合であるという仮定を元に議論を推し進めるナンセンスさはさておいて)どちらかかたっぽしか能がない人間を、その片方がものすごく尖ってでもいない限り、一途に嫌っている節がある。そもそも(世の中の96%はそうであってしかるべきだが)面白みのない人間というものが、会話したくないレベルで嫌いだったりする。これは同族嫌悪みたいなもので、犬と会話していると自分も犬であるかのような錯覚に陥るのと同じように、会話している相手と自分が同じレベルだという錯覚に陥ってしまうから、面白みのない言葉しか吐いて出ず、会話をする気が初めからなく、自分語りや衒学にしか意識が行っていない中身や深みのなく残念な人間と会話していると、自分もそのようであるという揺るがない事実が靄のように立ち込めて会話を覆うのである。

人生経験が浅く、大した種類の人間に出会っていないので、文理両刀の人間か、理系特化型の人間にしか出会ったことが無い(出会っていたのかもしれないがそれをスルーしている)。そもそもあまり人と会話をすることがないので、この人間は面白いことを言うなぁ、とか、よくわからないけど言動の節々に含蓄があるなぁ、とか、そういった類の、背中の奥が見え透かないような人間にあまり会わない気がする。何気ない日常会話の中で、矢庭に隕石が降ってくるかのような比喩を何の気なしに用いたり、誰もが思いつく資格を持ち得ていて、それでいて誰もが思いつかなかったことを何気なく口にしたり、聞いたこともないような言葉の話を聞かせてくれたり、謎に用途のない知識が豊富で、それをちらつかせることなく大事にしたためていたりするような、そんな人間に出会えたら楽しいんだろうな。

退屈だなぁ。面白みのない人間と会話するのはやっぱりしんどいな。さっさと捨てるか

食用セルロース

女の子は砂糖とスパイスと水35L、炭素20㎏、アンモニア4L、石灰1.5㎏、リン800g、塩分250g、硝石100g、硫黄80g、フッ素7.5g、鉄5g、ケイ素3g、その他少量の15の元素でできているらしい。何を食べたらそうなるんだろう。

 

我々が吸収という言葉を目にしてぱっと思いつくのは、その動詞がメタファーとして興味深い使われ方をしているということだ。人がしばしば吸収しているのは知識だとかいう曖昧模糊な朦朧体だったりするし、会社はよく吸収される。普通に生きていれば思い至ることだと思うけれど、吸収という言葉は狭い範囲でしか用いられないにしては便利な言葉だと思う。視界に映る事象は我々の体の中に吸収されてはじめて存在しうるのだし、視界に限らずとも、それは五感ならばどれだっていい。すなわちヒトは生きているだけで(正確には起きているだけで)常に何かを吸収し続ける運命にある。僕はこれを"食べる"と表現することがままあるのだけど、誰もわかってくれないので、ここに書いておこうという次第である。本を読んでいると痛感するのが「本を食べる」ことの大切さである、といった具合に、食べるという動詞を吸収するの同義として利用する。

 

例えば、ご存知の通り、「本を食べる」のと「ただ本を読む」のは天と地の差が開いている。読むというのは字を目で追うのみで、本を読んだ結果得られる諸々を得ずに終わる可能性がある。本を読むことを有意義にしたいのであれば、本を読むことを意識するのではなく、本を食べることを意識すべきである。ふたりの人間がいて、同じ「本を読んだ」にしても、明々白々な差がついてしまいかねないので、食べることを意識した読書の仕方を考えるべきだ。これは一例にすぎず、もっと食べることを意識するべき場面が多くある。音楽を食べたり、絵画を食べたり、本媒体に限らず何かの物語を食べたり、など。他の人がなんだとかいちいち考えるのが面倒で仕方がないからあまり考えてないけれど、僕は手もとに何かが残るようなものの消費の仕方をしていかないと不安でやっていけない。

 

何かが残る趣味を選び取っていかないと社会的に死ぬぞ。

一睡の夢

例会で原稿を書いていた。少し手を動かすのに疲れて、パソコンをぱたんと閉じて、目の前に映ってるぶんだけの景色を観葉植物のように眺めていると、何も憂鬱なことは思い当たらないのに、死にたいような、死の淵で深海の底をつまらなさそうに眺めているときのような気分になる。季節の変わり目で、成り行きのように風邪を引いて鼻がろくすっぽ機能せず、食べ物の風味も分からず、息も絶え絶え、声を上げようとすれば喉が悲鳴を上げ下手くそなヴァイオリン奏者の三重奏のような音を出すにとどまっていたことだとか、よく知ってる知人をベースに脳内で作り上げた別人の何かにいかに嫌なことをされる可能性があることを想像して無常観と悦と愚かさを感じ入ることだとか、時間がすっかりもとの風景を奪ってしまった教室の様子だとか、明日が誕生日であることとか、不安材料でもなければ僕を脅かすことでもないが、何かとこころを一途にかき乱す感情の連鎖がすっかり脳をくたくたに撚れさせているので、感情が風邪を引いた様子でかたかたと震えているのである。すっかりメランコリーにとりつかれて、心ここにあらずのまま歩いてご飯を食べて家に帰った。偉大な芸術の巨匠はメランコリーに憑りつかれると神的狂気を発揮して作品群を遺すのであるが、僕に神が憑りつくほど神も暇ではないだろうし、メランコリーがどうとぬかすのはきっと気のせいだと思う。脳を埋め尽くしている理性感情の類にいちいち名前をつけないとやってらんないのだ。疲れてるだけだから早く眠りたい。そしてどうせ寝ない。

眠る鉄の塊

人は人と関わり始めた時点で、その人ならばこう考えるだろうななどどいう推測にも満たない思い込みの権化を心の中に飼い始めるのと同時に、その人間の存在そのものが桎梏となって、我々の行動を縛り始める。コミュニケーションとは結局のところ推測の連続であり、本当の意味での意思疎通など存在しないに決まってるから、お互いがお互いに意思疎通をしたフリをして騙し騙され日々を繋げていく。我々はその時点で心の中に「他人」を飼い、その「他人」と対話を行って、疑似的に意思疎通をしている。自分の目に映っている他人なぞ「自分の目に映ってる他人」でしかないのだからそれが他人そのものでないことは空が晴れか雨かどうかより明らかである。そんな感じで心の中に無数の生き物を飼っているから、その生き物をうまく統御してゆがめ尽くしてやれば、我々の世界に映るイキモノはみな自分の都合の良いハッピーフレンズである。このように人間は事実の確認ができない未来永劫の不確定要素に対して楽観的であるのと同時に、飼っている生き物に対して悲観的でもある。生き物に対し、ある種の不安と怯懦を感じ取っている。心の中で作り上げた生き物は自分に従順であり、自分に従順であるからこそ真黒な魔物に変化していることが頻繁にある。他人がどう思っているかどうかは推測の域を出ず、だからこそ、こうあってほしいという願望と、こうあってほしくないという願望が絵の具のように綯い交ぜになって、顔も手も足も判断のつかない無数の化け物を生み出している。化け物は見るのも恐ろしい見た目をしているのだが、ただ心の中を闊歩しているだけで、人を襲うことがない。それでも我々は化け物を恐れ、「もし自分の思っているようなことをあの人が考えていたらどうしよう」などと、純度100%の0%を不安がっている。肥大化した化け物に対峙するかのごとく現実の他人と関わらんとするけれども、実のところ他人はしょせん人間である。何も怖がることはないと自身に言い聞かせてのコミュニケーションは上っ面だけで、ゴミ箱に蓋をするかのように人は人を知りたがらないのである。化け物はもともとは人だったものにありとあらゆる推測を付加したものである。なるほどそいつは現実に即している。本当に怖いものは正体がはっきりしているものではなく、何が何だか分からないものなのだ。

 

ねむい。