左利き用

 

 

横文字が好きだ。意味のある文字列もさることながら、それ以上に、カタカナを4つぐらい無造作に並べて、およそ無意味な文字列が完成するのがこの上ない瞬間だ。あれは意味と無意味の中間にあるのだと思う。全く意味がないわけではなくて、カタカナの羅列を目にした時にふっと過るイメージ――ちょうど香りが記憶を掘り起こすような、そういう悦楽がある。

意味と無意味の中間にいたい。これは汎用的な文脈においてである。正確さなんて必要ないという主張と、無意味なものはやはり無意味だというトートロジー、その真ん中で胡坐をかいていればいい。何につけても、中間が心地いい。100%に定まる意味が必要な場面とそうでない場面がある。辞書の説明に文学が必要ないように、文学に正しい解釈が必要であるはずがないし、要はそういうこと。

造語というものをよく用いる。主語は自分。漢字をくっつけた造語はあまり好ましくないけれど、道端に落ちているカタカナを適当に拾ってくっつけたみたいな単語は好き。どうしてかはわからない。たぶん、ハナから日本語を感覚で書いてるからだと思う。悪く言うと杜撰。良く言う言い方は知らない。

センスって言葉、わからない。感じたいと強く思えばそうなるとも限らないし、結局は経験という主張もいまいち腑に落ちない。磨き方も育て方もわからない。磨くものなのか育てるものなのかも知らない。コンビニに売ってないかな。

センスが欲しいって文言の意図するところは何なんだろう。欠如だけ見えてて具体的に何が足りないのかわからないってことか。そりゃ苦しい。ところで、センスが欲しい。

考えすぎると何が何だかわからなくなる。ゲシュタルト崩壊的なもの。尺度がわからなくなってくる。自分の中のものさしが、めちゃくちゃな形をしている。多機能すぎるナイフみたいな。シュールレアリズム。言葉に向き合うって何なんだろうね。思えば思うほど、大して向き合ってこなかった自分に自覚的になって、自責の念に駆られる。向き合ってこなかったというか、感覚で処理しすぎていたというか。

感じればいいと思うんだけどな。本当は細部なんてどうでもいい。いやどうでもいいってことは言い過ぎだとしても*1、リアリティなんて追求しすぎるものでもなかったりするし。作風。世界観。そういう世界観でしかものを語れないのは、多分、感覚で生きてきた功罪。自分はどう足掻けど他の人間にはなれないし、他人はどう足掻けども自分のようにはなれない。なりたいと思わせるのが仕事かも。一瞬でもそういう風を過らせて、ざまあみろと腹の底から笑う。いいね、それ。頑張ろ。