眠る信号機

 

 

 

5日ぶりに外出をしてみると、普段何気なく通り過ぎる道の至る所に向けて、得体の知れない感触を抱いている自分に気付く。それはバランスみたいなものだと思う。どれだけそれが好きであろうと、ずっとベタベタ触っていれば、飽きたくなくても勝手に飽きる。そんな理屈だ。引っ付き過ぎず離れすぎずの距離感が一番やりやすいんだと思う。当たり前の話。

記憶の残り香をずっと探している。それを見つけて、どう言葉にするかをずっと考えている。同じことを繰り返せばいいってものでもない。同じ場所に行っても仕方がない。条件が同じで回数が違うのだから、減るにきまっている。写真を見ても同じようにはならない。それでも、探していた。

言葉にしたかったんだと思う。同じ景色を誰かに見せたかったんだと思う。同じ気持ちを抱いて欲しかったんだと思う。不可能じゃない。ついぞ同じ場所にいることは叶わなかったけれど、でも、まだ間に合う。そう思って言葉を書いている。ずっとそう思って書いてきた。俺自身を見て欲しかったんじゃなくて、俺の見た景色を誰かと共有したかった。記憶の海を繋げたかった。写真では伝わりきらないその世界を誰かに見せたかった。本質的に写真機を使うことができないようなその情景に触れて欲しかった。今もそんな気持ちで書いている。

伝えたいことがあるから書いているなんて半分たわごとみたいなものだと思う。その理屈では行けない場所がある。たとえば、伝えたいことがひとつもなくなったとき、何も書けなくなる。毎日が毎日そんな風な不甲斐ない日々ではないはずだ。だから、その理屈は脆弱だと思っている。全部じゃなくていい。半分でいい。半分ですらなくても、一部でいい。心のどこかに、その理屈を溜め込んでおいて、残りは別の動機を元手にして手を動かせばいいと思っている。真面目な日の6倍ぐらい、不真面目な日があればいい。全部が全部真面目なら、飽きるし、飽きられる。たまに真面目になったときに、心の蝋燭に火をつけて、それをぼうっと眺めていればいい。

その程度がいい。考えすぎるのはよくない。気の乗らないときは外界との繋がりを遮断すればいいし、逆なら逆でいい。引っ付き過ぎず離れすぎずの距離感が一番やりやすい。当たり前の話。