キャラメロイド

 

 

 

人と話しているとき、スケールのやたら大きな間違い探しを強制されている気分になる。俺は俺で自分のことしか見ていないからそういうのに躍起になって、欠落のひとつひとつに名前をつけて生きているけれど、誰だってそうなのかもしれないし、全員がそうでもないことは確かで、でも一定数そういう種類の人間がいるようなパターンなのかもしれない。そんなことはどうせ知り得ないのだから、どっちでもいい。可能性さえ思考の片隅に留めておけばいい。

自分しか見ていないのは如何なものかというのはフィロソフィーみたいなもので、自分の中での当然だ。他人がアンチテーゼであることは、そんな難しい言葉を介さなくても、誰だって知っている。大人になるまでに気付いている。でも、その指針を遵守できない自分がいる。見ていない。意識的に見ることすらやめてしまった。

どうでもよくなったわけでもなくて、何だろう、見飽きたのかもしれない。別にそうとも限らないけど、見飽きたというのは多少しっくりはまる。多少しっくりはまって、でも引っかかりが残る。消去法で解を選んだみたいなあの感覚。とにかく、他人について考えなくなった。他人事なのは百も承知で、その上で近づこうとする、みたいなことを意識していた、少なくとも今よりは。

その感覚をいつの間に手放したのか。

わからない。覚えていない。稲妻に触れて一瞬のうちに切り替わっていて、その瞬間を覚えていないだけなのか。あるいは、ゆっくりと時間をかけて感覚を失っていったのか。わからない。確かめ方がわからない。

でも、見られないことの恐怖は覚えている。感触として手元に残っている。無関心の刃が切り裂いた心臓の古傷は易々とは癒えない。知っている。何回だって飲み込んできた。沸騰した感情を理性で押し留めてきた。そんな日が少なくなってきて、多分、それが原因なんだと思う。

自分に多少の嘘をついてまでしないと花束を売れない自分が嫌だ。憎むべき人物像そのものに近づきつつある。たまには天気予報を見ないと、誰だっていつかは愛想を尽かすのだ。散々主張してきて、誰よりもそれに背く自分がいる。むしろ自分がそうできないからこそ主張をしているのかもしれない。

だから、謝らなきゃと思うんだよ。都合の良い嘘しかつけないことを謝りたい。ちゃんと向き合っていないことに謝りたい。そもそも謝らなきゃいけないことを謝りたい。

本当は、どうでもよくなっているんだろうね。多分そういうこと。工場で生産された造花の花束を握りしめて、笑顔を造っている。一生そのまま。造花もないよりはマシで、ある方がずっと良くて、特に紛い物だと見抜かれなければなおさら。枯れもしないし。でも、バレたら失望されるんだろうな。大丈夫。一生隠しているつもり。