誘拐犯

 

 

 

その気になれば僕たちはどこへだって行ける。こうやって部屋の隅で縮こまっている今だって、ほんの少しのお金を惜しまなければ、どうせ浪費するに違いないその時間を惜しまなければ、日本全国どこにでも辿り着くことが出来る。そんな当たり前の事実に、強く体を揺さぶられる瞬間がある。行きたいところに行けるような時代になって、それでも僕たちはその権利を有したまま行使したがらない。ただ理由がないという理由で、同様に僕たちはどこへだって行けない。

非日常が逃げて行っているのではない。どちらかと言えば僕たちの方が、日常を追いかけ回している。口では散々ああだこうだと愚痴りながら、それでも変化のない毎日にどうしようもなく依存している。身体を動かさない方が楽だ。退屈は疲れない。移動は負担だ。ぶつくさ呟きながら、けっきょく、そんな建前を背に、変わりっこない日常を握りしめている。

理由のないことを選ぶ理由がないのと同じで、わざわざ行動に逐一理由を求めることにも理由がない。でも世間は、たとえば理由もなく遠回りをすることを奇怪の目でみつめる。理由もなく起きていることに無意味という名前をつける。世間を批判したいわけじゃない。むしろその方が健全だ。理由もなく人を殺すことを問題視しない社会はよほど狂っている。そういうふうにして、理由をいちいち求める社会に生かされている。だから、安全な社会の中で、理由を求めるという理念に文句を言うのは、まぁ、間違っている。文句を言いたいのではない。ただ、事実がそこにあるというだけ。理由を求められるのは、安全で、疲れないし、このうえなく理性的で、そして退屈だ。

日々に収穫を求める。あれだって、理由を探すのと同じだ。別に生きたくて生まれたわけじゃないのに、何も生み出さないからって誰も君を責めたりしないのに、でも、せっかく生まれ落ちた以上、一日ごとに進歩をしなければそれは悪だと思ってしまったりもする。丸一日を寝て過ごそうが、そういう日が一年続こうが、それは悪いことじゃない。言葉はその態度を怠惰だと言って攻撃する。見えない誰かに責められた気分になる。実際に具体的な誰かに責められることもある。

 

本当は、本当に、理由なんて必要ない。通学に使うバスの、普段は通り過ぎる駅で降りたって、誰も君を責める権利を持たない。わけもなく京都駅まで歩いて、新幹線のチケットを買って、それで東京へと飛んでいってしまったって、誰かが傷つくことはありえない。ほんの気まぐれで新横浜から折り返してきたって、それも悪ではない。そのまま京都駅を通り過ぎて博多まで行ってしまったとしても、進んだ分の乗車券と特急券の値段を払えば、何も問題ではない。

想像の世界で、仮定の世界で、僕たちはどこへだって行ける。でもその仮定が現実に侵食してくることはまずあり得なくて、それは僕たちが理由に固執する生き物だからだ。

理由に固執するけれど、でも本当は、身体を動かすのが面倒なだけ。

上っ面だけの言葉を並べて、気楽で退屈な毎日を手放さない。

そのバス停に誰かが降り立つことはない。新幹線は定刻に京都駅を出発する。

そうやって日々は進む。

その足枷を君の足に括りつけた犯人は、いったい誰だろうね?