特に関係はない

何も言いたいことがなくて、でも何か言わなければ気が済まないような、そんな具合のよくある夜だ。言いたいことのストックが無限にあるはずはなくて、それらは定期的に喉元までせり上がって来る、離島に一ヶ月に一回やってくる定期便のようなものだ。主張の消費期限は勝手に迫る。言いたいことは勝手に消えていく。大抵のことは一度声に出せば満足だし、大声を出しているうちに「まぁ別に必死になってまで言うことじゃないな」と思い直して、再び押し黙る。

ふとした瞬間に主張はやってくる。渋谷のビルに突っ込む電車のように、突然胸を掠める。深夜の線路沿い。赤信号を渡る夜。雨傘を回す日。そういう一人きりの瞬間に、不意に世界の裏側を見たような、例えば瓶の底に書かれた文字を見つけたような、一瞬で霧が晴れるような、唐突に部屋の電球が切れるような、そんな出来事が起こる。そうなってしまえばあとは孤独が自動的に信念を運んでくるのを待つだけだ。

そんな具合に、孤独に助けられる夜がある。手に入れたそれらを大事に仕舞い込んで、丹精込めて磨き上げて、いくぶんか外聞をよくして、それで誰かの手前に持ち出すのだ。そういう風にしてものは生産される。

 

 

だから思考停止と孤独は対にあって、一方を選択すればもう一方は手元からかなり遠ざかる。もっともその選択は一日とかそういう区間でのみ二律背反なのであって、別に一日ごとにやるべきことを交換してやれば何も問題なかった。

でもここ最近は自分の中でのそのバランスがどうにも崩れている気がして仕方がない。考えることが減った。なくなったのではなく、減った。絶対量が少なくなった。考える時間が足りなくなった。

他人のことを考える時間が一気に目減りした。一年前なんかは他人のことをまだ考えている余裕があった。他人のことを考えて、ときに疎んで、ときに一生かなわないと思って、そのつり合いを上手にとりつつ生きていた。気付けば他者を対象として思考を巡らせるのをやめてしまっている。自分のことばかり考えている。本当に。

興味を失っている。ある意味当たり前だ。興味を失うほどには互いを知り過ぎている。知り過ぎて、でも肝心なところは分かり合えないまま、分かち合えないまま、そうやって生きている。

そこはかとない危機感がある。5%も理解していないものを、知り合ってからの年月というおよそ無関係な指標を元手にして、半分ぐらいわかったつもりになっている。他人に興味を持たなければならない。別に全員じゃなくていい。知ろうとする貪欲さも必要ない。ただちょっと耳を傾ける。それだけでいい。見返りなんて難しいことは考えなくていい。考えない方がいい。打算も算盤尽くも何もなく、ただ、耳を誰かの方に向けてみる。そうやって自己完結しない世界に生きないと停滞するなんて当たり前だ。過去の自分だって同じようなことを思っていた。結果だの因果だの偶然だの必然だの幸福だの不幸だの都合だの目的だの愛だの、難しいことは考えなくていい。考えない方がいい。身体が少し傾いた方へ走る。木の棒が倒れた方向へ進む。そういう流動性が必要なのだ。

 

 

悪として仕立て上げられているような分かりやすい対象に向けられた怒りはちっとも美しくないだとか、主張があってその方向に一直線に進むから下手なのだ、回り道でも舗装された道を行くべきだだとか、そういうことを考えている。でもそういう風にして孤独から生み出される主張には対立候補がない。そんなものだからひどく独善的に映ったりもする。独善的なことばかり考えている自分が嫌になってくる。どっちが正しいんだろうね?