深海魚

一人ではどうにもならないと感じるときがある。夢物語のような美しい完成形を思い浮かべては挫折するようなことを繰り返してきたから、自身の限界はよく知っている。

作りたいものがある。書きたい作品がある。描きたい作品がある。

でも、本当に自分が望んでいるものは、完成形を眺める行為それだけだ。いつだってそうだった。承認が欲しいのではない。出来上がったものを見て悦に浸りたいだけ。スタートとゴールを結ぶ道中に意味が落ちているわけではない。

昔から、白紙の画用紙が好きだった。白紙を見ればお構い無しに心が躍った。紙とペンさえあれば、自分は何処へだって行ける。でもいざペンを握ってみれば、直面するのは理想と現実の壁だ。何でも自由に描けるというのは一種の能力だ。そんなもの持ち合わせているはずがない。遍く人類にそんな能力が最初から与えられている世の中など、かえって面白味がないだろう。

白紙の画用紙はまるで張りぼてのロケットだった。空っぽのエンジンに空気を詰め込んで、いつか離陸のタイミングが来るはずだと中で頬杖をついていた。

真摯さがない。何かを作りたいという欲にだけ忠実で、本当に何が必要なのかを知っているくせに、行動には反映されない。受け取った時間をそのままゴミ箱に捨てて、水上を漂う流木のようにふらふらと生きている。必ず死ぬと書いて必死だ。そこまでの真面目さがあったとしても、それはそれで救いようがない。

 

何者かになりたい?

成人してまでこんな中学生のような自問自答をすること自体愚の骨頂だ。

さておき、何者かになりたいわけではない。重要なのは、何になるかではなく、結果的に自分の手元に何が残っているかだ。

 

作りたいものがある。書きたい作品が山ほどある。山ほどある書きたい作品のためにやらなければならないことは指数関数的に増えていく。間に合わない。ただでさえ間に合わないのに、くだらないことで時間を浪費するから、永遠に前へと足を進められない。

もどかしい。狂おしい。

そんな感情の行き場はない。一人ではどうにもならない。

 

ストイックに生きようとは思わないし、できるとも思っていない。

でも、一人の時間がもっと必要なのかもしれない。

どうせ決意表明のような行動を取っても無駄だとは分かっている。

だからこの熱は、しばらく心臓に保っておきたい。

目処が立ったら誰かに話すのかな。

そうであって欲しい。