360°



どこかの本で“幸福の本質は移動である”というのを読んだ記憶がある。当時の自分は理解力が乏しく、怠惰がゆえ理解しようとする努力も怠っていて、その言葉の横を通行人のように通り過ぎ、要するに丸っきり無視していたわけだが、しかし先日そのフレーズを再度目にする機会に恵まれて、結果2回目のそれが暗がりの部屋に白熱電球を灯すような明瞭さをもって心臓に刻まれることとなったのである。

幸福の本質は移動だ。幸福という言葉はどうも宗教的な盲信を想起させるから、用いることに積極的になれない。しかし代替案が存在しないのだから仕方なしにこう表現している。

幸福の本質は移動である。



どうもこんにちは。最後まで読んでください。お願いします。


昨日僕はとあるコンサートというかライブに行っていたわけですが、その最中のふとした瞬間に、そういえば誰かの記事でライブに行くことに積極的になれないというのを目にしたなぁ、ということを思い出していました。早い話が、積極的になれないとまでは言わないのですが、しかし似たような気持ちを抱いてしまったわけなんですよね。尤も、ここまでの言葉から自ずと想像される情緒不安定さとは裏腹に、これは穏やかでない話ではありません。なので安心して読んでください。


自分がよく言うことですし、それと同様の頻度をもって他の人が主張することでもあるのですが、大抵の構図には生産者と消費者を見出すことができるわけです。自分は本能的にも理性的にも生産者側に立ちたいと願う人間で、それは単純に消費者という立場の惨めさと情けなさというものが脳裏にしかと刻まれているからです。自身の中に何も残らない趣味を自分は趣味と見做していないという独りよがりな主張をよく話しますが、これも似たような言葉です。(勘違いしないで頂きたいのは、これは僕の中での言葉の定義の問題であって、決して他者への攻撃の意図は含まれていないということです。分かりきったことですが一応断っておきます)

惨めじゃないですか? 大勢の中の1人になって騒ぐだけの生き方って。僕は昨日のライブでそういう気持ちになりました。段落冒頭の文ですが、疑問符で締め括るということは他人にとっては必ずしもそうではないことを示していて、つまり完全な消費者に回ることが全く苦痛でない人間の存在を僕はしっかり認めています。勘違いしないでください。念のため。ただ僕が、消費者側に回ることに一定の精神的な苦痛を感じる性質であるというだけです。消費者を貶そうなどとは微塵も思っちゃいないですし、むしろそんな人間を羨ましく思う夜を何度も越えてきたような人間です。僕は。

ここから自己投資の話に移ります。

一端の大学生ごときが生産者側に回るのは難しいことで、その揺らぎようがない事実が時として僕の心臓をぐしゃっと締め付けるわけです。もどかしさとも言うのでしょう。理想と現実は笑ってしまうぐらいにかけ離れていて、その乖離を一朝一夕で埋められるほど現実は甘くないことを嫌というほど思い知りました。

でも、その差を埋めようとする努力にこそ、価値があるのですよね。これは文章冒頭の警句、幸福の本質は移動であるという文言の意味するところそのままです。例えば僕が高校時代に打ち込んでいたことに、ひたすら難しい言葉を調べて自分の語彙にするという行為があったのですが、あれだって自身の語彙力不足を嘆いた高校生の自分が焦燥感を原動力に理想の自分と現実の世界との差を埋めようと踠いていたに他なりません。今にして思えば本当に馬鹿らしい暴れ方で、そんな言葉の表層だけをなぞる訓練に意味など見出せるはずがありません。でもそうやって水中を溺れるようにじたばたと苦しんだからこそ、今の自分がいるはずなのです。

幸福の本質は移動である。

消費者然とした自分が生産者に生まれ変わるための努力、自己投資こそが幸福の本質であるに違いないのです。

元来創作というのはそういう行為なのではないでしょうか。僕はそう思います。暗殺者が息を潜めて物陰から虎視眈々と機会を伺うあの瞬間こそ人生の絶頂であるのと同じでしょう。何者かになることそのものよりも、何者かになろうと奮闘する日々こそが、窓の外から溢れ出す斜陽を全身で浴びるような緩やかな幸福なのです。


将来の夢という質問に対して、僕はずっと医者になりたいと答えるような人間でした。その言葉には主体性がまるで欠けていて、朱色の血は通っておらず、中身のない張りぼてで、およそ無機物のような言葉でした。そもそも過去の自分がそうなりたいと思っていたことすら不明で、きっとそう言っておけば外聞がいいという理由だけでそんな風な嘘を吐き出し続けていたのでしょう。

こういった場合は本当になりたいものを隠していることが多いのですが、しかし僕はそのパターンに当てはまらないような小学生だったのです。

夢がない。なりたいものがない。なりたいものという発想自体すら持ち合わせていない。それは僕です。別に珍しくないことなのでしょうし、この事実が僕の人格形成に影響を与えたなどとは微塵も思っていないのですが、しかしそういう概念に対する羨望がふっと浮き上がることがあります。夢があるのはいいよな、努力を払うことに対する疑いなどの不純物なく一直線に努力に向かうことができるのだから、という在り来たりな精神です。

でも最近は、その概念が徐々に明瞭になりつつあるのです。ここまで書けばもう簡単な話で、僕は初めから、生産者になりたかったのでしょう。それがあまりに普遍的で漠然とした概念だから、意識をしていなかった。ただそれだけの話でした。


ところで、僕は創作という言葉に一定の苦手意識があります。チープに思えるんですよね。言葉に重みがない。少なくとも自分のやってることをそんな言葉で表現されたくないのです。特別視されたいという傲慢ではなく、名前をつけられたくないというか、そんな曖昧で緩やかで穏やかな不満です。創作活動を創作だと認めてしまえば最後、それが創作とは程遠い別の何かに変貌を遂げてしまうような、そんな心理が脳のどこかで働いているのです。言葉としては便利なのでよく用いるわけですが。



ここまでが自分語りで、ここからが主張です。



聞き飽きるぐらいに言っていることですが、僕は生産者であることを他人に求める人間です。結局これに尽きるのですが、消費者なんかに収束せずに、生産者を目指して生きて欲しいわけです。消費は脆い。今が楽しかったとしてもそれは刹那的快楽でしかないのです。生産は強い。一度体内を循環し始めれば、しばらくその赤は消えることがない。消費者は生産者と違って結局待つことしか出来ないから、時として行き場のない不満を抱えつつも生きる以外の道を選択できない状態に陥る。

何より消費というのは停滞に他なりません。それは幸福の本質は移動であるという主張の真逆に当たります。停滞は幸福の真逆なのです。歩みを止めてしまったその瞬間に、人は緩やかに死に向かっていくのです。結局はこれは変わっていく努力が必要だというクリシェなわけですが、しかし何度も繰り返し主張すべき真実でもあります。

無理にまっすぐ歩こうとする必要なんてなくて、例え正解と180°逆の方向であっても、あるいはてんで見当違いな方向であっても、停滞よりはずっとマシなのです。たまには立ち止まって休憩をしたくなる日もあるでしょう。辿り着いた場所の風景を眺めたくなることもあるのでしょう。しかし、足を踏み出す意志を失ってしまったその瞬間が、あなたが最初に死んだ日となるのです。