セカイ ポップス

ブログなんてものは俺にとって結局掃き溜めでしかないわけで、比較的に楽しい気分の期間に記事を書こうとぬたぬた頑張ったところで陰でも陽でもない地球外生命体しか生まれないよな、と思っています。ワンルームの隅っこから発信するにしてはあまりに中身のないことしか書けない自信がありますが、それでもなんとなく記事を書こうと思ってこうやってキーボードを次々殴打しているのです(早く寝ろ)。ちなみに今から書く内容をこの時点で考えていません。笑えますね。

自己紹介的なサムシングとして、俺は人と話すのが好きです、に類することを言うような人間です。俺の周りに生息している生命体たちはこのセンテンスを耳にタコが出来るぐらいに聞いていようものでしょうが、よくよく考えてみればこれは疑わしいのです。人並みにしか好きではありません。それはつまり普通ということなのでしょう。

何を隠そう、そのライクという言葉の比較対象は他者ではなく、過去の自分なんですよね。察しの良い方々はここで「ああ、ね」という虚無僧様様たる表情を浮かべているのかなぁと満月の夜に想像しております。

俺にとって会話とは知識と思索のアップデートの手段です。承認を得るために会話をする方々もいらっしゃるのでしょうが(否定はしません、むしろ肯定しています。会話は承認を得る手段として正常かつ順当で健全なものです)、俺は自己表現で承認を得るタイプの人間なので、会話をそう捉えるようなことはしておりません。高校時代まではその人間との会話がアップデートの手助けを導くような人がまわりに殆どいなかったから、対話を重要視していなかったのです。出来なかった、と言う方が正確ですかね。どっちでもいいですけど。大学に入って対話を重要視するようになったのはそういう人間の絶対数が単純に馬鹿にならないからであり、つまり環境が良くなったということに他なりません。

俺が周りの人間から情報を引き出すことに躍起になっているのは、要するに知識と思索のアップデートのためです。俺は高校時代から「他者は常にアンチテーゼである」(それを要約した言葉が「人のふり見てなんとやら」)というフレーズを愛用していて、そいつをモットーにしながら自分と他人との間に開いた差から学ぶところを探しているのです。

自分と他人との隙間って本当に大事なんですよね。それを認識することが如何に重要か。例えば楽器を演奏できない人は楽器を演奏できる人を見て楽器を練習するのだし、逆に楽器が演奏できる人は楽器が演奏できない人がいるからこそ楽器を演奏できることをアイデンティティとして得ることができるのです。孤独のよくないところは自他間の隙間が存在し得ないことであり、ちょっと頭を巡らせれば対話を重要視しない人間の向かう先の空しさが諒解いただけると思います。

壮大な前置きを経ましたが、多分数分前の俺が言いたかったのは次の言葉です。

 

「共北3Dに来て話し相手になってくれ」