アノミーと旅行鳩

 

 

思うに君達の一心に志向する理想郷とやらはエゴで満ち溢れている。例えば君はこの、細長い無数の針の刺さった球体をどう解釈するのかい? 解釈という字面が気に食わないのならこう換言してもいい。金属やコンクリートで表面を穴だらけに加工され、飽き足らず表層を鈍色で重鈍で咽るような煙たさの黒で塗り固められてしまったそれを、君達はどう認識するのかい?

・・・・・・ああ、君の返答の中身そのものなんざ白黒どうでもいいんだ。問題はその意識の介入だろう? 解釈だの認識だのそんな行為を挟む逐一、君達人間はどうしようもなくエゴに憑りつかれているのだ。そもそも物体は物体でこそ存在し絶妙なバランスの上で存在を維持していたものであるはずなのに、君達は解釈というナイフを手に物質をあけすけに解体し、中からだらだらと飛び出している赤にばかり目を向け、ことの本質はああだのこうだの異口同音に主張するもんだから、意志も意識も自意識も無意識も何も持たない側からすればいい迷惑で仕方がない。解釈という行為にはいずれエゴというエゴが付着して回るのだから、初めから正当な説明など皆目あり得ないのである。

この話題は難しいようだから、もう少し即物的な話をしようか。僕は人のそばに亡霊のように佇むエゴについて考えた経験がある。

考えうる人類の発明品のうち、最もエゴに溢れているものは何であろうか? 何も難しい話じゃない。少し考えてみてくれ。

そうだ。君の言う通りだよ。動物園だ。

時に、動物園で日を暮らす動物の心情を想像したことはあるかい?

くだらない人種は動物園に飼われている動物に憐憫の情を向ける。思うにそれは本当にくだらない。つまらない。ステレオタイプが過ぎる。面白くない。そしてその上に重大な誤謬すら抱えている。そんなものだからもう救いようがない。まこと度し難い。想像力が常人レベルにだに達していない。エゴイストの極みである。

僕はクジラだが、動物園で過ごした経験はない。その事実を断っておく、すなわちあくまで想像の範疇を出ないことを予め伝えておくが、動物園の動物はきっと、動物園は動物を見る空間であると捉えているのだろう。

どういうことか、って? いやいや。動物園の動物は、動物園にわざわざやって来るもの好きの動物を見て日々を過ごしているのさ。

どうだろう。少し考えてみて欲しい。動物園に人間の檻がないのは何故だろうね?

当たり前だって?

いやいや、動物園なんだろ? 動物を展示する場所なんだろう? いくら人間を見飽きているからといって、世界中を見回してみても人間の展示が行われている動物園が皆無であるのは聊か不自然だ。

君達は自分自身が動物であることをてんで忘れているのか?

僕にはそうは思えない。ならどうだ、現状は以下のような言葉で表現できるのではないだろうか。

君達は、自分自身が動物であることから抜け出せないこと、あるいは事実として動物的であることを忘れようと立ち振る舞ってはいないか?

その下らない意志に名前をつけたのは他でもない君達だろう。

――思うに君達の一心に志向する理想郷とやらはエゴで満ち溢れている。