都市計画

街という生き物は不思議だ、と常々思う。

不思議という言葉はちょっと僕の思うことからずれているかもしれないね。

僕は街という生き物の持つ博愛主義的な素っ気なさを特異だと思っている。

 

例えばどうだろう。本は隅々まで読むものだ。本当は一字一句見逃してはいけない。どうしても読み飛ばしてしまったりすることはあるかもしれないし、あるいは作者の方から読み飛ばしても良いとの但し書きが入るかもしれない。でも、多くの本は全部のページを読むことを読者に強要する。強要とはいかないまでも、そのことを前提にしていることが多い。

それに比べて街はいくらか素っ気ないのだ。

全てを知ることを強要しない。別に街の中で行かない場所があろうと、街はその事実を気に留めない。それでいて、普段行かないような場所に行けば、新しい景色を見せてくれるのだ。前者が素っ気なさ、後者が博愛主義にあたる。

 

僕らの期待を世界はしばしば裏切るが、期待していなかった喜びに出会えるんだ、というフレーズをどこかで耳にしたことがある。

街という生き物は不思議なものだ。

例えばある建物が鎮座している。その建物の存在に理由を求めることができる。単純に、誰かが建てたいと思ったから建物が建っている。建物を建てる理由が無いときは、その空間は駐車場になっていたりする。

そうやって必然が連なった結果、生まれる街の風景は誰もそうなることを期待していなかったであろう偶然に満ちている。

必然の連鎖が偶然を齎す。

 

偶然という言葉は人に重くのしかかる。

例えば僕はプロットを作らない。これは、以前まで綿密なプロットを作成した上で執筆をしていたものの、その作業――習慣と換言しても良い――をいつの間にやらやめてしまった、ということを意味している。

 

街という生き物を考えたときに、僕は東京と京都を引き合いに出す。

例えば僕は東京の街が好きで、京都の町は退屈に思う。

謂わずもがな、京都の町は碁盤の目状になっていて、その風景に偶然が少ないからだ。

その点、東京はいい街だ。

道に規則性が無い。道路は不思議な角度で伸びていることが多いし、上下の変化も闊達だ。例えば御茶ノ水。駅を降りると神田川の水面と地面との高低差に驚く。駅から坂を下りる。坂は緩やかな右曲がりのカーブになっている。坂を下り切ると靖国通りだ。その場所から見える、高層ビルと形容するにしてはあまりに背の低い、痩せぎすのビル群。

その風景は、誰かが仕組んだものではないはずだ。

 

 

偶然という言葉はあまりに人に重くのしかかる。

綿密に練られたプロットに従って進行していく物語。

誰かの都市計画。

 

物語という生き物は不思議だ、と常々思う。

例えば僕は風船を握っている。

手を放してしまえば最後、二度とその風船を手にすることはない。

それでも不意に手を離した瞬間から、その赤い風船が空に舞い上がっていくだけの景色の方に、僕は心を奪われてしまうのだ。

物語はひとりでに動き出していく。

 

誰かの都市計画。

僅かな誤差が積み重なって、最終的に別の物語が出来上がる。

必然が齎すその偶然にこそ僕は価値を見出したいと思っている。

都市計画上の町と実際の街との差異が――その不完全さが大事なんだ、本当は。

そうでもないとさ、退屈じゃないか。