心臓

人は学ばない生き物だから、どれだけ強い意志であってもいつかは手放してしまう。記憶の揮発性を緩和してくれるものは蒸発しない記憶装置で、言葉だとか文字だとかそういうものである。――本当はこんな自明な前置きを書くこと自体馬鹿らしいことだけれど、少し言い訳をさせて欲しい。この記事は誰の目にも触れられないものとして扱われるべきで、でももしある特定の人間に見られてしまったときのことを考えて、こんな序文を書いている。この記事は自分のための備忘録だ。それ以上でもそれ以下でもない。私は今感じていること、正確に言うと昨日感じたことを書き記さなければならない。書き記しておかなければ、怠惰で傲慢な私のことだから、全て忘れてしまうのだ。

 

生かされていると感じる。

こう書くと、飼い殺しされている、と解釈されそうであるので、換言するなら、こうだ。――誰かのおかげで歩いていられると感じる。こう書くとjpopの常套句みたいだけど、実際にそうなのだからこれ以外に言いようもない。

 

最近は思うところが色々とあって、このブログで話す内容は私の趣味のことばかりだ。

あれだ、文字を書く話だ。

2年ちょい日本語と戯れるのを趣味にしているという話だ。

日本語を書くことに一種の倦怠感を感じている。それは自身の限界を見ているからだとか、単純に上達しないからだとか、そういうありきたりな話ではない。私は苦労をしているわけでもなければ、大きな挫折に直面しているわけでもない。

自分がいくら思うところをぎゅうぎゅうに文章に詰め込んだとて、結局読む人が読む人なら裏の意味というものに気付いてくれないし、つくづく無意味だなぁと思うのである。

この文言は「伝えきれていないお前が悪い」と反駁もされそうであるが、生憎その反論は受け付けない。というのも、伝わっている人には伝わっているからだ。私の思索が正しく伝播している例がある以上、私に落ち度はないはずだ。

 

いくら時間をかけても、伝わらない人間には伝わらない。

私はそんな世の中に対して拗ねた態度をとっていた。

正しく解釈できる人間がいるのだから、それ以外の人間は己の能力不足を嘆いていればいい。

自分の作品が誰かに褒められて、その人間の思う作品の価値を、絶対価値だと認識していたのだ。

 

逆だ。

自分の作品の価値なんて、誰か一人に委ねられるものじゃない。

それぞれにはそれぞれの価値があって、それが高い人もいれば低い人もいる。

私が良い作品を書いているのではない。

私の作品に、誰かが価値を与えてくれているのだ。

だから私は、自分の作品を褒めてくれるような人間に、生かされている。

 

初めてpixivに文章を投稿した。

処女作を誰かが誉めてくれた。

誰が誉めてくれたかなんて忘れるはずがない。しっかりと覚えている。その上であえてぼかしている。

初めて掲示板に作品を投稿した。

そもそもどうして掲示板に作品を投稿したのか。

褒めてくれたからだ。誰かが価値を吹き込んでくれたからだ。

背中を押してくれたんだ。

書いた作品に懐疑的だった私に、自分の作品を信じる力をくれた。

今回だってそうだ。

どうしても書き下ろした作品を信じ切ることが出来なかった私に、そのせいで散々弱音を吐いて、ダメならダメだと言ってほしいとまで零した私に、これ以上ない撃力を与えてくれた。あなたは正しかった、と言われたようなものだ。疑うことに疲弊していた私は、やっと信じるに足る根拠を手に入れたのだ。

 

生かされている。

お世辞であれ本心であれ、私は評価をしてくれた人に背中を押されて、ここまで歩いて来ている。

自分の作品が評価されるのは、私の才能や努力にのみ起因するものだと思っていた。

とんだ勘違いだ。

私の作り上げた世界を受け入れてくれる人がいたから、私は自分の世界を信じることができたのだ。

私に能力があるのではない。

私の作品を評価してくれる人に、私の文章を面白いと感じることのできる能力があった。それこそが正しい構図だ。

 

やっと気付いたんだ。

遅すぎる。