生きるクジラと架空病患者
退屈な柄のカーテンを開く。不快な音がキシリと鳴って、僕の脳内を不吉の二文字が貫いた。地上百階建てのマンションからはこの街の全貌が見渡せる。夜は既に終焉を迎えて、朝が鎌首を擡げて今か今かとにじり寄ってきていた。それでも月明かりのイエロウは眠りの浅いこの街を重油の膜のように覆っていて、それは博愛主義にも似ているように思えた。
今こうしている間にも地面は数秒前とあまりに離れた場所に移動している。僕はそれが元来不思議で堪らなかった。このことをフラッピーに二、三度話したことがある。
「月並みだ」
彼はそう呟いていた。――フラッピーというのは僕のマンションに住んでいる動物で、猫であり、かつ猫でない。彼はひとり、排中律の枠を外れていた。僕の彼に対する第一印象は白いクジラだった。
「何度も繰り返すことが大事なんじゃないの」
彼の月並みという言葉には、ヒトの傲慢に対する軽蔑が滲み現れていた。人の住む世界というものは、彼ないし彼女が見たものが全てではないが、彼ないし彼女が想像した世界が全てだ。フラッピーはそういうことも言っていた。
「想像力が足りないんだ、自分が思いついたことがどうして他人に思いつけないといえようかね」
彼は煙草をやっていた。ベランダに出て紫をくゆらせるのが彼の週末の過ごし方だった。
「君だってそうだ」
「僕はヒトじゃないからねぇ」
「でも、ヒトなんだろう」
「そうだね」
週末はこうして非生産的な会話と甘い煙草の香りに溺れるのが僕の常だった。
「寝なくていいのかい」
「眠れないんだ」
「そうかい」
フラッピーは煙草の2本目に火をつけた。僕の部屋のベランダではクジラが煙草を吸っている。遠く離れた街の旧友にそんな手紙を書いたら、額面通りには信じてもらえなかったのを覚えている。きっと僕にしか見えない存在で、僕が信じるのをやめてしまったが最後、彼は1度目の死と2度目の死を同時に迎えることになるんだと思う。
新聞配達のエンジン音や、ゴミ収集車の唸る声が辺りを沸かす。僕は温めたオレンジティーを淹れたマグ・カップを右手に、アルミ格子の外をぼんやりと睨んだ。満月の山吹色は夜の帳のインディゴと絶妙に混ざり合って、殺してほしくない色と景色を構成していた。もうすぐ夜が明ける。
「今日はいいのかい」
食道を唾液が通過する。飲み込んだ感情はひしゃげた胃の中で落ち着いて、僕はアルミ格子に手を掛けるのをやめてしまった。
「まだ」
「まだ、やり残したことがあるんだ」
そのうちバターのような朝日が、地平線の先から顔を出す。風船の割れるように突然夜が死ぬ。目を背けてしまいそうな赤が津波のように街を飲み込む。
「なぁ」
フラッピーは煙草を終えていた。微かに漂う煙にはもう紫なんて表現は相応しくない。彼は夜の生き物で、朝になると忽然と姿を消す習性がある。僕はそれが羨ましかった。
「君と僕、どっちが先に死ぬんだろうな」
「さあね。君がここから飛び降りるまでに僕が死ぬのが早いか、僕が死ぬ前に君が飛び降りるか、じゃないのかい」
アルミ格子を摩ってみる。朝の風が大げさにそれを揺らす。太陽は既に過半を地上に現わしていた。もうすぐ一日が始まって、彼は蜃気楼のように消える。時間は全ての生き物を平等に殺戮するのだ。
やがて太陽が花火のように打ちあがって、クジラは消えた。踏切の音が目覚まし時計のようにがなり立てる。ベランダには煙草の吸殻が死体のように転がっている。朝日に照らされて浮かび上がる白い煙が、風に靡いて消えていく。――