東京旅行 6日目

桜が綺麗に咲いているだとか上弦の月が孤高に輝いているだとか、対象物を自然に絞った上で感慨や感傷に浸る一連の行為は、単純に対象物として選択できるものが非人工物以外に無かったからだと思う。人工物の波が非人工物を飲み込んで、人の息がかかっていないものを探す方が難しくなってしまった現代においては、そんな行為に頼らずとも娯楽という娯楽を享受できる。それでも現代の人間が桜がどうの月がどうのと声高に主張できるのは、偏に伝統という言葉に流されやすい日本人のDNAに起因していると思う。単純に先人が語る趣きという概念に価値を見出すことは、それ以外の人工物に似たような感情を抱いて価値を語ることよりも、説得力の観点において逞しい。現実のところをかしとかあはれとかそういう朦朧体をコンクリートに捉えることのできる人間は数少ないはずで、それでも人がそんな曖昧な概念に説得され得るのは、誰かが言っていたから、に過ぎないのだと思う。

だから、その趣きだとか感傷だとかそういう単語の効果範囲を出来るだけ広げて考えてみる。心から心酔できる対象は、身近にはなくて、でも手の届かない場所にあるわけではない。身近にある存在に心酔することは、得てして感傷を齎さない。自分の経っている場所よりずっと遠くにあって、でもちゃんと存在していることがわかるもの。そんな存在が、例えば誰かにとっての桜であったり、手の届かない位置に淡々と輝いている月であったり、誰かにとっての異性であったり、誰かにとっての銀河の向こうだったりする。私にとってのこの街は、つまり、そういう存在だ。

私はここに住みたいわけではない。先述の通り、身近にそれが存在してしまえば、感傷も何もないのである。片道1万5000円の水色のチケットを握ってようやく辿り着くことのできるような、大勢の人が死ぬために生きているような、雑踏と慢性的な社会不安と群青で満ちているような、そんな不自由で退屈な街が愛おしくて仕方がないのは、その街がずっと遠くにあって、簡単には手が届かないからだ。

旅行は明日が最終日である。一週間で得たものはそんなに多くはないし、自分の意識や見識が劇的に変化したわけでもない。それでも、旅行して良かったとまでは行かなくとも、助走のきっかけになった程度の感想ぐらいは胸を張って言えるようにしたい。後になって振り返って、あのとき東京で過ごした一週間が自身の血肉となって、誰かの心を震わせることに繋がったのだ、と思えるような、そんな時間になるのだったら、これ以上のことはない。経験が未来に繋がるというのは、きっとそういった風のことを言うのだろう。

 

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中華料理の食べ放題に行った。完全に食いすぎた。死にそう。