躁病日和

自分を主人公だと思っている人間が嫌いだ、と思うことがよくある。それは私と性別が同じで私と血の繋がった人間を見てよく思うことで、それ以外の人間には無関係のことだ。だからもし誰かがこれを読んで、ナイフを首元に突きつけられた気分になったとしても、それは過剰な自意識の招いた悲劇であり、私は貴方を刺すつもりはなかったのだ、と断っておく。私にはありふれた一般論を論じるほどの人生経験も説得力もないのだ。

一年前の私は、自称主人公を嫌うと同時に、心のどこかに主人公になりたがる自分を飼っていた。私はそれを自覚していたし、感情が熱暴走を起こして自己顕示欲の鬱憤を霧散させようと躍起になる自分を嫌ってもいた。勿論そんな上っ面だけの自己嫌悪は、結局のところ自分への言い訳でしかなかった。

感情というものは心の中で輪廻転生を繰り返す生態系の一角を担う生物と同じで、殺しても殺してもすぐに湧いて来る。ずっと前から嫌いだった、他人によく見られようとする自分を二度とこの世に現れないようにするために必要だったことは、自分を殺そうとする意志ではなく、効き目のある物質の投与––分かりにくければ薬とでも置き換えれば良い––だったように思う。心のどこかで穀潰しをしている自称主人公は、私が芯から心を震わせられるような、それに打ち込む自分を真正面から認められるような趣味を見つけてから、風船から空気が抜けるようにしぼみ始めた。確かなものが自分に宿る感覚は、派手にナイフを振り回さなくとも、嫌いな自分に最後通牒を突き付けてくれる。

だからこそ今の私は、主人公になりたがる人間を、自分を主人公だと思っている人間を、この上なく純粋に「嫌いだ」と断言できる。この嫌悪感の齎すものは、自己中心的な考えを元に他人を足蹴にする人間の稚拙さを嘲笑うようなシニカルな感情でも、自称主人公のもつ他人に害を与えるという特性に対する怒りのような感情でもない。自分を主人公だと思い込んでいる人間は、そんな手段を取るまでしないと自分を承認できない人間なのだ、という原始命題的な事実なのである。

血が繋がっているという救いようのない事実と、その事実から私はまだ逃げられるんだという自信が、今の私の血の中には確かに流れている。

 

洗濯物を干しながら、ふとそんなことを考えていた。