ハリボテ

無意識に散らかった文章を書けたのは何かに怒っていたからで、何かに怒れるのは少なくとも怒りの対象が存在するときだけだ。生活は絶対に止めることのできない鉄道か何か、大きくて人工的な夜の生き物みたいなもので、僕は車輪の下を想像しながら客室で眠っている。そんな風な人工的な安寧の中で閉じこもっているうちに過去のことをすっかり忘れてしまったのだろうか。果たして僕はそもそも何に怒っていたのだろうか、もう何も思い出せない。

 

日本語の濃縮率は素晴らしいと思うときが誰にだって訪れる。洗脳兵器、未来永劫、永久機関、時空犯罪......神にアジダハーカという名前をつけるように、漢字4文字の箱に無茶苦茶なものを押し込んできた。ハリボテである。......世界平和。人は絶対に存在しないものにも名前をつけるのである。

平和は主観だ。ディストピアは当の本人たちからすれば平和そのものであり、逆にディストピアでなければ平和たりえないような気もする。平和の裏側にあるのは真実であり、真実を無視することが平和への近道ではないか?何も知ろうとしない態度が平和なのではないか?すべてを風化させることが平和そのものなのではないか?

靄のかかった怒りを覚えなくなったのは何かと無関心になったからなんだろうか。毎日が平和で、それでいて怒りが原動力となってものを書いたりできたから、少し寂しい。

 

11月11日は近所の交差点で誰かが死んだ日だ。僕は偽善者でないので胸は痛まないが、少しずつ、その事故に関わった人の怒りの感情が薄れて、事故のことが風化していっている気がする。それが正しい世界平和だ。忘れちゃいけないことなんて一つもないんだ。