食用セルロース

女の子は砂糖とスパイスと水35L、炭素20㎏、アンモニア4L、石灰1.5㎏、リン800g、塩分250g、硝石100g、硫黄80g、フッ素7.5g、鉄5g、ケイ素3g、その他少量の15の元素でできているらしい。何を食べたらそうなるんだろう。

 

我々が吸収という言葉を目にしてぱっと思いつくのは、その動詞がメタファーとして興味深い使われ方をしているということだ。人がしばしば吸収しているのは知識だとかいう曖昧模糊な朦朧体だったりするし、会社はよく吸収される。普通に生きていれば思い至ることだと思うけれど、吸収という言葉は狭い範囲でしか用いられないにしては便利な言葉だと思う。視界に映る事象は我々の体の中に吸収されてはじめて存在しうるのだし、視界に限らずとも、それは五感ならばどれだっていい。すなわちヒトは生きているだけで(正確には起きているだけで)常に何かを吸収し続ける運命にある。僕はこれを"食べる"と表現することがままあるのだけど、誰もわかってくれないので、ここに書いておこうという次第である。本を読んでいると痛感するのが「本を食べる」ことの大切さである、といった具合に、食べるという動詞を吸収するの同義として利用する。

 

例えば、ご存知の通り、「本を食べる」のと「ただ本を読む」のは天と地の差が開いている。読むというのは字を目で追うのみで、本を読んだ結果得られる諸々を得ずに終わる可能性がある。本を読むことを有意義にしたいのであれば、本を読むことを意識するのではなく、本を食べることを意識すべきである。ふたりの人間がいて、同じ「本を読んだ」にしても、明々白々な差がついてしまいかねないので、食べることを意識した読書の仕方を考えるべきだ。これは一例にすぎず、もっと食べることを意識するべき場面が多くある。音楽を食べたり、絵画を食べたり、本媒体に限らず何かの物語を食べたり、など。他の人がなんだとかいちいち考えるのが面倒で仕方がないからあまり考えてないけれど、僕は手もとに何かが残るようなものの消費の仕方をしていかないと不安でやっていけない。

 

何かが残る趣味を選び取っていかないと社会的に死ぬぞ。