眠る鉄の塊

人は人と関わり始めた時点で、その人ならばこう考えるだろうななどどいう推測にも満たない思い込みの権化を心の中に飼い始めるのと同時に、その人間の存在そのものが桎梏となって、我々の行動を縛り始める。コミュニケーションとは結局のところ推測の連続であり、本当の意味での意思疎通など存在しないに決まってるから、お互いがお互いに意思疎通をしたフリをして騙し騙され日々を繋げていく。我々はその時点で心の中に「他人」を飼い、その「他人」と対話を行って、疑似的に意思疎通をしている。自分の目に映っている他人なぞ「自分の目に映ってる他人」でしかないのだからそれが他人そのものでないことは空が晴れか雨かどうかより明らかである。そんな感じで心の中に無数の生き物を飼っているから、その生き物をうまく統御してゆがめ尽くしてやれば、我々の世界に映るイキモノはみな自分の都合の良いハッピーフレンズである。このように人間は事実の確認ができない未来永劫の不確定要素に対して楽観的であるのと同時に、飼っている生き物に対して悲観的でもある。生き物に対し、ある種の不安と怯懦を感じ取っている。心の中で作り上げた生き物は自分に従順であり、自分に従順であるからこそ真黒な魔物に変化していることが頻繁にある。他人がどう思っているかどうかは推測の域を出ず、だからこそ、こうあってほしいという願望と、こうあってほしくないという願望が絵の具のように綯い交ぜになって、顔も手も足も判断のつかない無数の化け物を生み出している。化け物は見るのも恐ろしい見た目をしているのだが、ただ心の中を闊歩しているだけで、人を襲うことがない。それでも我々は化け物を恐れ、「もし自分の思っているようなことをあの人が考えていたらどうしよう」などと、純度100%の0%を不安がっている。肥大化した化け物に対峙するかのごとく現実の他人と関わらんとするけれども、実のところ他人はしょせん人間である。何も怖がることはないと自身に言い聞かせてのコミュニケーションは上っ面だけで、ゴミ箱に蓋をするかのように人は人を知りたがらないのである。化け物はもともとは人だったものにありとあらゆる推測を付加したものである。なるほどそいつは現実に即している。本当に怖いものは正体がはっきりしているものではなく、何が何だか分からないものなのだ。

 

ねむい。