水掛け論

三日月が裏返って夏の夜空を真黒に照らしている。無限に落っこちてきているような灰褐色の建物がすべて眠っている。皆さんはどうお過ごしだろうか。

人間はいつだって多重人格で、私を司る幾多の感情が今日も意思決定に紐をくくってあちらこちらへと船頭多くして船山に登っている。人格の一人一人が人物像を決定すれども、私という人間はあくまでその人格の複合体であるがゆえ、結果的に目に映る印象とか人となりとかは酷く曖昧に映っている。ぼやけた視界に微かに映る人影は、光り輝く"いいひと"だったり、黒く染まって包丁をぶん回している"絶対悪"だったり、道端の石ころだったりする。眼鏡をかけなおして見えた人物像が今度こそははっきりしているだろうと思ったその翌日には全くの別人を見る自分がいる。昨日見えた石ころは今日は絶対悪だったり、昨日見えた絶対悪が気付かぬ間に"いいひと"にすり替わっているのだから恐ろしい。闇雲に振り回した包丁が刺さった相手はイイヒトか絶対悪か石ころなのか、とうに判断がつかない。石ころだと思って蹴り飛ばしたら絶対悪だったりすることが多いのだから背筋の凍る思いもする。

視界に映る世界が「好き」か「嫌い」か「興味ない」かの三つに分断されている。去年こそ嫌いなものが増えていくなぁと悟った顔で適当なことをのべつまくなしにべらべらと喋っていたものだが(今でも変わらない気がするけど)一年もたてばそれらの事象にいちいち腹を立てて逡巡するのも馬鹿らしくなって、大体の世界が興味ないのゾーンに左遷された。何かにいちいち怒っていた僕の人格たちは紐を握る両手の握力を失った。究極形がアパシーたる、肥大した「興味ない」の超巨大集合を腹に抱えて生きて、余計なエネルギーを使わない代わりに、その巨額の「興味ない」は手放すこともできず、『ほんとうに興味がないのなら興味がないなんて言うはずないのにな』なんてもっともらしい言説をガシャポンがごとく吐き出しておきながらもなんとまぁ無責任なことに、ライクでもヘイトでもない虚無を洗濯物のようにため込んでしまった。ああ無感情。あなたも無感情主義、どうですか。

両手に足りる程度のライクと一緒に生きていけたらいいな。数人でいいや。多くは求めないでいいな。そこからあぶれた人のことは、まぁなんとも思わないよ。

 

興味ないし。