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ガラクタ

ちょっと晦渋な文章を書く。つもり。

今までの文章はさして難しいとは思ってない。読んだら意味が分かるからだ。

まぁ書き始めてみて方針転換することなんてざらだし、結果的にどうなるかなんてわからないのだけれど。そもそも何書くかこの時点でまだ決まってない。いつものようにアドリブでつらつら文字を書き並べてみようと思う次第。ただ、難しくしようと思ってどこまで難しくできるのかは気になる。

 

 

桜の木の下には死体が埋まっていると初めに言い始めたのは誰だろう。僕の両手には歴史だとか文学だとかそれにおおむね関係する知識がないからとうに判断がつかない。無論誰が言ったとかいつ言われたとかは問題ではないわけで、この文字列がわざわざ仮想空間から引っ張り出されて人間の前に命題として立ち現れているのは何故かというところにある。背景が分からない限り僕の述べる言説というものは解釈という功利的な地点にたどり着かないことは自明であり、つまりこのフレーズが生まれた理由を知ったうえでその風船に自分の知識を詰めて真上に飛ばさない限り、他人を解釈したとさも賢いように拵えて実のところ自分の知識純度100%の自己満足を発しているに過ぎないことになる。人という物質は常に他人の言葉を自分の都合のいいように翻訳しなおして、私はこう考えるというコギトエルゴスムに見せかけたシンプルなエゴイズムを旗に掲げて承認欲求を満たす生き物であるのだが、人間がどのような生き方を取ったところで承認欲求はシビリアンの最高次的な 欲求に位置付けられていたりもするのだから目を瞑る。だからせめて、僕のやっていることは解釈なぞという煌めいた言葉などではなく、翻訳ですらなく、上手に線路をゆがめた自己満足であることを予め断っておく。さて桜の木だが、花の下にいる人間は享楽を求めて花を見ている。僕は花を見る人を見ていたが、ふと、それが死体なのではないかという考えが頭をよぎったのである。常々言葉にしては理解されない考えのひとつで、生とか死とかいう概念の定義は心臓が動いているかだとか呼吸はあるだろうかだとか事実めいた定義らしき定義にすっぽりと落ち着いている一方で、僕らが薄々気付いていることに生と死の感情に任された概念は少し単純でない気がするということ、つまり生きているのに死んでいる心地がすること、これは深夜に人間がいちいち思いめぐらしている破滅衝動の終末理論だったりする、あるいは死んでいるのに生きているような人間がいること、死者が死んでもなお生きる人間たちの桎梏となりうることは言及の必要性がないように思われる、要するに定義と僕らの経験則的帰納的感覚は少し異なっているのかもしれないという甲論乙駁を論うのである。生と死は本来0と1であり互いに不可侵であるべきだった。それが定義である。ところが生と死は共存している気がする。人は生きながら死んだりできる気がする。そう呼べばしっくりくるような生き方をしていることがままある。さて桜の木の下で盛り上がる彼らは、生きているのだろうか?死んでいるのだろうか?

死んでしまった人間が死にたかったから死んだはずがないのと比較できることだが、生きている人間が必ず生きたいから生きているとは限らない。言うに及ばず。ファッションじゃなく本気で生きたくないと考える人間がなお生きる理由はふたつある。一つに死ぬことには多少なりとも覚悟が必要であり、生から死へ移動することには苦痛も伴うからである。そしてもう一つは、生から死への道が一方通行だから、である。一度死を選んでしまえば最後、自分の意志で生の世界、自分が生きている世界へ戻ることは不可能である。よほど望みが絶たれない限り、現状が好転する可能性が存在する限り、人は生きる方を選ぶ。可能性が限りなく低くなれば人はこれ以上生きていても苦しいだけだと悟り一方通行の矢印を振り返らずに歩いていく。これを自殺と呼ぶ。では仮に、死に苦痛が伴わない世界が存在するとしたら?その一方通行が両方通行であるような世界が存在するとしたら?目の前にレバーがある。生きている人間がレバーを引くと、生きている状態から死んでいる状態に移り変わる。そこに苦痛はない。死んでしまった人間には意識がないが、「意識はあるが現実世界における意識がない」世界を仮定しよう。死んでいる人間には現実世界における意識がない。意識がないから死んでいるのである。同時に意識がある。意識があるから再び生の世界に戻りたくなればレバーを引けばよい。現実世界の意識が直ちに取り戻され、人は再び生き始める。このようなレバーを生きている人間の前に持っていこう。ここからは推測だが、ほとんどの人は一回ぐらいはレバーを引くんじゃないかと思う。つまり、生から死への移動と死から生への移動が等価ならば、生きる意味なんてひどく曖昧になってしまうと思うわけだ。口では生きたい生きたいと言うが、実のところ生きなければいけないだけで、生きることを強いられている事実を認めたくないから自分を偽っているに過ぎないのだ。桜の木の下には死体が埋まっている以上に、桜の木の下には死体が集まってくるのである。初めから死んでいるのである。彼らが生きているのは死ねないからであって、積極的に生きたいと一秒の裏切りもなく考えて生きると死ぬという選択肢を提示されてなお生きるを絶対に選ぶ人間など一握の砂にも満たないのである。目に見えなくてもちゃんと死んでいるのだ。気付けないだけなのだ。今日も葉桜の下で骸骨は踊り狂う。死体に死体としての自覚が芽生えてしまったら最後、骨は一瞬にして原子の大きさに砕かれて風に乗って消えていくのである。生きていると勘違いしている死体を眺めながら、今日も平和だな、と思ったりもする。世界は常々それを諦観と呼んでいる。