HNSN

眠ってそのまま一生目覚めなかったらどんなにいいのだろうね、と思ったりする夜がある。別にいなくなりたいわけじゃなくて、ただ、そんな風にして消えてしまえるのがどんなに幸せかというのを考えるのだ。誰だって一度はそういう架空の幸せに思いを馳せたことがあるんじゃないか。

無数のそれとが繋がっている。何も間違ったことじゃないし、世界はそういう風にしてできている。どうしようもなくて、そのどうしようもなさに死にたくなったりする。本当はいてもいなくてもいいような人間になりたくて、でも心のどこかではそんな人間になりたくないとも思っていて、そうやってあれこれ悩みはするけれど、でもそんな世界を肯定しなきゃ始まらない。それ自身を下らないなとは思うし、でも結局は大事に抱きしめてもいる。

中途半端なのは一番よくない。どっちかに偏るほどに人間ができてもいない。誰しもそんなものだとは思う。でもやっぱり苦しい。白と黒が入れ替わるたびに昨日を後悔する。後悔からその先が繋がらない。学ぶ学ばないじゃない。中途半端にできている。生まれながらに。殺したくなった昨日までの自分と、でも成長していない今日の自分。見比べて、やっぱり消えたいよなと思い直したりする。自分のいない世界を想像して、その綺麗さにいくらか心を痛める。自分を特別視しているわけじゃないはずだけど、でもそんな人間が世界の大多数を占めていたらそれはそれで変だ。

そんな想像で今を生きている。目標だとかそういうものじゃない。ただ単に消えたい。別に心配されたくはないからそんなことを普段から口にすることはないが、でも、そういうことを思いもしない人間をうらやましく思ったりする。自分がいなければなぁ。本当にな。肯定だの否定だのじゃないんだ。ただ、いなくなってしまえばいいのにと思う瞬間が訪れる。そうして自分のいなくなった世界を想像しては、その正しさを実感するのだ。

他の誰にも描けない風景画だとは思う。でもそんなの誰だってそうだ。別に特異な話じゃない。自分が生きる世界は特別な世界で、特別であるという点で凡だ。死にたいわけじゃない。生きたくないのかと言われれば嘘になる。ただ、生きるのを選んだわけでもない。だから苦しい。苦しいのだって嘘かも知れない。もう何が何だか分からないや。全部本当だ。嘘じゃない。ふわっと消えてしまえたらいいのにね。いなくなることすら許されないんだぜ。理不尽だよ本当に。勝手に恵まれてろよ。一人にさせろ。一生このままじゃないの。土足で踏み入るな。ああもう台無しだよ。ぐちゃぐちゃだ。

私信

残酷なことを言っているのはさすがにわかっている。結局誰かに読まれる機会が増えようが、時間と精神とコーヒー代を削って本当に出来の良いものを作らなければ、素晴らしい、すごくいい、好きだと褒めてもらえることはない。生半可な覚悟じゃ中途半端なものしか出来ないってのもわかってるし、先天的にこういうことが好きじゃないと結局どこかで壁みたいなものにぶち当たるってのも知ってる。書いて書いて書きまくって、それでも物量こなして経験値稼ぐだけじゃ書く能力自体は全く増えない。早く書けるようにはなる。でもクオリティは微妙だったりする。そんなもんだぜ。そもそもこんなの才能がすべてだ。読書の経験値がどうってのもそもそも読書が好きか嫌いかで決まってる。意識的にやってやろうと思いなおす瞬間はいくらでも訪れるけれど、読書の才能のある人間には敵わないぜ、やっぱり。修羅の世界だろ。練習すれば0を1にするぐらいなら出来る。でもそこからなんだ。1から先へと進まない。普通逆じゃねえか。残酷だろ。

マジになってナイフ研いで、死ぬ気になって机に噛り付いて、風邪ひいてそれでも書いて、風邪だからむしろ目にもの見せてやんよって陰鬱な気分でパソコン殴って、そうやって出来上がった作品も、誰かにさらっと消費されてそれで闇の中へ消えてくだけなんだよな。よほどのレベルじゃなけりゃな。仮にけっこう良いものが出来上がっても、読む人が読む人だとふーんで終了。そこからさらに運の壁を越えなきゃいけねえ。ちゃんとわかってくれる人に読まれないとダメなんだぜ。だからアドバイスも何もないんだよな。そのくせ数回その運の壁を乗り越えた人間は何書いてもチヤホヤされる。読む人が読んでくれるんだからな。それは悪いことじゃないんだ。いいものが審美眼のある人間に読まれることは健全だ。でもそれを傍から見てる人間は苦しくて仕方がないんだ。クオリティ見てもそんなに劣ってるとは思えないのに、運の違いだけで現状の差が歴然だ。残酷だろ?

まぁそんな世界なんだから、俺は無理に書けとは言わないよ。本当にな。やりたい奴だけやればいい。マジになるのはすげー辛いんだ。俺自身めちゃくちゃ恵まれてる方だから、これでもマシな方なんだ。本気出して誰にも見向きすらされないのは本当に退屈だと思う。やりたいのならやればいい。でも本気でやりたいなら、何かひとつ犠牲にしてでも、身体を動かすべきだ。マジで荒唐無稽なことがいいな。今から徹夜して一本書いてみようぜ。それで翌朝目を擦ってその作品読んでみて笑いながらゴミ箱送りにしろ。アイデア煮詰まったら散歩にでも出掛けろ。行く宛がなかったら鴨川沿いを三条まで往復すればいい。部屋で考えてても何も生まれないしな。マジになってみろ。案外時速出るぞ。毎時3000字ぐらい余裕だ。短いのなら3時間もかからずに書ける。上手く書けないところはスルーでいこうぜ。通して読んでみると案外そうでもなかったりする。で、そういうのを毎日やってみたらいいんじゃないの。たぶん書けるようになるぜ。というかそれぐらいしないとヤバい作品は書けねえよ。日和ってたら筆は進まないだろ。

思い付きなんだよな。結局。だから締め切りなんかあっても書けない日は書けないし、そんなの関係なく書ける日は書けるんだ。思い付きで滅茶苦茶やってみようぜ。何か思いついて書き始めたら、あとは想像力の赴くままだ。

望遠鏡 その2

 

 

どうも。前回の記事の続きです。続きとは言っていますが前回と同じようなことを書くことになる気がします。一つ目の見出しがそれに該当するので、読み飛ばすといいかもしれません。

この記事、というかブログに投稿している記事全部に対して言えることですが、考えていることをわざわざ言葉に翻訳する一連の行為は自己との対話を目的にしています。もっと言うならば、今の自分との対話のみならず、過去の自分との対話も同時に可能にするための機構でもあります。なので、そういう目で見てください。以上、自分語りの正当化でした。

 

 

そもそも何を目指しているんだ?

俺の底みたいなのはわかりやすくて、というか浅くて、要するにただ力が欲しいだけだったりします。これはモノカキに限りません。なにか出来るようになったら嬉しい、というだけの、それはもう純粋な、まるで子供みたいな願望です。事実子供です。

無力というのは悲しいじゃないですか。空しいじゃないですか。実体が欲しいんです。幽霊にはなりたくない。自分自身がいま生きているのだと確信していても、他人から見えなければ意味がない。そういう意味での幽霊というメタファーです。

何者かになりたいだとかそんなことを考えるような精神年齢ではありませんが、俺が抱えているのはそういうありきたりな欲求ではなく、もっと実利的なものだったりします。わかりやすい例を挙げます。顔が良ければコミュニケーションが楽になるだとか、めちゃくちゃ歌が上手ければ一目置かれるだとか、多少頭が良ければ食べるのに困らないだとか、そういう現実に即した思考です。手の届く範囲が増えると生きやすさが変わるでしょう。それを強く実感する瞬間が頻繁にあって、だから、できることなら手の届く範囲を拡充して、ちょっとだけ楽に生きたいのです。そういう意味で力が欲しい。誰の眼から見ても明らかな実体が欲しい。前回は弱者がどうだとかのっぺり論じてましたが、まぁ似たような話です。手の届く範囲が狭いのが弱者です。弱者は怨恨をぼそぼそ呟いている暇があったら少しでも努力するべきで、実体を得るために適切な費用を支払うべきです。肩書き。承認。名誉。あるいは金銭。そのあたりを追い求める人間を軽蔑しがちな空気が社会には漂っていますが、そういう人間を下賤だと見下すのは大抵が弱者で、両者を見比べてみてどちらの言葉に説得力があるかなんて明白なわけです。*1

 

でも結局、ここまでの話は、当然と言われればその通りと返すしかないわけです。当たり前です。そもそも我々大学生は保護される側から少なくとも自分だけでも保護できる側へと移動するために大学に通ってるんだし。俺はその角度が少し趣味の側に回り過ぎているぐらいのもので、本質的にはやっぱり誰とも違わない。誰だって力が欲しくて、力を得た先にある多幸感だとか安寧だとかのために日々を過ごしている。そんなもんです。遠い先の未来を望遠鏡で覗いて、あるいは想像したりして、視界に映ったあれこれや想像をエネルギーに車輪を回してる。別に感慨深くはありませんが、方向性は違えど同じ世界に住んでるわけなんですね。ちょっとだけ気分が軽くなった気がします。

 

 

 

 

趣味

これ以上書くことがないので、趣味の話をします。

散々主張してきたことのように思うんですが、好きなことを晒すことが本当に苦手です。苦手というか、意味を見出せないのです。趣味とか嗜好を誰かに伝えるのは自分の心臓をさらけ出すようなもので、簡単に攻撃され得るんですね。これが苦しい。今まで幾度となく自分の嗜好がすげなく否定される瞬間を目にしてきました。誰だってその経験があるはずだと想像しています。俺はそんな経験をあまりに積み過ぎたものだから、嗜好を晒さないことが何よりの安寧だったりします。それから、自分が何かを好きだと言うことで、他人を否定してしまえるのが怖い。何かに傾倒しているということは選ぶということで、それ以外のおおよそすべてを否定することに他ならないのです。それは無意識に他人の心臓に針を突き付けているに等しい。よく分からないのなら二択問題を考えてください。片方を好きだと言えばもう片方は選ばれなかった方になります。ライクを主張する行為は自身の被攻撃可能性を格段に上昇させ、同時に他人への攻撃でもあります。まぁ普段はここまでのことを考えずに生きているので、普通に何が好きだとかを口走ったりするんですけどね。積極的になれないのはそういう理由です。

考えすぎだと思うのなら、あなたはあちら側の人間です。

ともかくも俺は好き好んで好みを暴露したりしません。自分が誰かの嗜好を受け取ることはあっても、バンプの良さを誰かに発信しようとは思わなかったし、今もそうは思っていない。ナイフのどこが好きなのかは一生俺の心の中の檻に閉じ込めておけばいいと思っていたし、今もそう思っている。周りの人間にアジカンだのあまざらしだのを聴いて欲しいとは到底思えないし、俺がそういうの聴いてるって情報さえ知っていてくれれば他には何もいらない*2。俺の思うところは全部、押し入れに乱雑にしまっておけばそれで済む。まわりの誰が何を聴いてるのかって情報に興味がないわけじゃないけど、その領域に踏み込んだら俺は人を傷つける可能性を入手してしまうから、やっぱり気安く踏み込んじゃだめだ。

それでも俺が趣味の話をするときは、それは半分ふざけているときだったりします。今から趣味の話をするのですが、つまり、俺はネタのつもりでやっています。よろしく。

 

 

読書

俺は読書が大の苦手ですが、趣味と言い張っています。苦手だが嫌いじゃないというのも理由の一つなのですが、それ以上に、俺が読書を意識的にやるように心がけているからです。本当に読書をよくやる人間は酸素を吸って吐くみたいに本を読みまくります。もはや無意識でしょう。それなら彼ないし彼女は読書を趣味だとも思わないはずなのです(誰も趣味の欄に呼吸って書かないじゃないですか)。ですから俺は安心して趣味を読書だと言い張れるんですね。

書き終わった後に気付きましたが、この話は結構いろんな人にしてる気がしますね。

本を読むのは苦しいですが、嫌いじゃないです。自分に欠落している視点を与えてくれるのはおよそ本です。だから読後には読破前と別人になることが出来るわけです(本の内容にもよるけど)。あと、何か得るものがある趣味っていいですよね。

 

物書き

物書き体験は想像以上に多岐に渡る体験で、要するにパソコンに向かってタイピングしている時間だけが物書きってわけじゃないという話です。一度何かを表現することにハマってしまうと、それはもう、人生がそれ一色に変貌します。例えば、外を出歩く行為が、何か表現したいものを探す旅に変化します。目に映る森羅万象を、どの言葉の組み合わせで表現するかという尺度で無意識に捉えようとする体になります。日本語についてあれこれ考えます。物質ひとつひとつに対して、ぴったりとくっつく比喩を考えたりするようになります。自分が抱いた感情を言葉にしようと必死になります。

それこそ同じ趣味の方なら肯けることだと信じていますが、生活が物書き中心に様変わりするのです。これがなかなか悪くない。何かに気付いてそれをメモ帳に貯め、逆に新しいものに触れようとして行動を起こしたりする生活。いいものです。

物書きといえばもうひとつ様変わりするものがあって、それが読書です。今までさらっと読んでいた文庫本を、数十倍から数百倍にかけてのおぞましい時間をもって読破することになります。日本語書いてる人ならご存知でしょうが、物書きで難しいところのひとつに「読者が流し読みする箇所を上手に書く」ことがあります。書き手のその技術を学ぶため、普段読み飛ばすところを精読するのだから、普通に読むのとではかかる時間が段違いなわけです。読書は苦手だが嫌いじゃないと言いましたが、こちらの文脈における読書は苦手だし嫌いですらあります。時間がかかりすぎる。それでも、そういうのも物書きの宿命なんですかね。そんな偉そうなことを言えるほどのものは書いてませんけど。

 

ギター

普段から言ってることだしありきたりなことしか書けなさそうなので省略します。楽器はいいものですね。

 

飯を食う

突然趣味っぽくないのが顔を出します。許してください。

高い飯を食うのが好きです。別にそこに高尚さはありません。結果的に雑になってしまいますが、本当に書くことがないのです。お菓子を食うのも好きです。甘ったるくて綺麗なカクテルを見るのも好きです。

 

旅行

東京に旅行に行くのが好きです。大学一回生のときの旅行で得た感慨みたいなものを忘れたくなくて、なるべく頻繁に東京に足を運ぶようにしています。東京に行って飯を食ったり、街を歩いてそれぞれに自分の中で意味を見出したりしています。誰か東京旅行に行きませんか? 夕焼けが綺麗だったりしますよ。

余談ですが、懐かしいという感情がプラスイメージなのはなんででしょうかね? 俺はもう自分の中で答えを出しているので、俺と同じように答えを思いついた人は耳打ちで教えて下さい。

 

深夜徘徊

深夜徘徊が存外好きです。徘徊という言葉に良くないイメージがある方は、深夜に散歩に出掛けることだと言い換えてやってください。街が死んでいるので好きです。車も通らないような街の車道を歩いていると、崩壊した世界の疑似体験ができるのでおすすめです。それ以外の動機なら、考え事に向いていたりもします。昼はどうしてもうるさいので。夜は邪魔がそうそう入りません。

 

麻雀

麻雀が好きというより、麻雀中にふざけたことを抜かすのが好きです。俺は誰かと居るときは四六時中ボケることばかり考えていて(ボケた結果の打率はおよそ2割5分)、麻雀中はなんとなくコメディの精神が加速するから好きだったりします。

 

カフェめぐり

その顔で? うるせえ。カフェに行くのが好きです。カフェに行って、進捗を生んだり本を読んだり、どうしようもなくそういうのが好きです。しがない男子大学生の趣味にはそぐわないような気もしますが、嘘は吐けません。あんまりハシゴとかの経験はないけれど、つまり正確にはカフェめぐりではなくカフェに行くことなのだけれど、そろそろ暇を見つけて本当のカフェめぐりをやってみたい気持ちがあったりもします。

 

本屋めぐり

本屋で2時間溶かせる人種です。本棚を牛の歩みぐらいのスピードで見て回るのが好きです。紙の匂いに全身を燻すのが好きです。それから、読んだことのない本の内容を想像するのも好きです。あの昂揚感に勝るものはないとすら言えます。紙の本がもし絶滅してしまったら本屋体験も味わえなくなるのでしょうか、と想像するたびにもの悲しい気持ちになります。

 

雑貨屋めぐり

その顔で? うるせえ。雑貨屋も好きです。どうしてあんなに楽しいのでしょうね。わかりません。でも、棚に乗っているものそれぞれに規則性が薄いところが好きなんですかね。陳列されてる賞品いちいちに、どうしてこれがここに置いてあるんだ?と胸をときめかされます。店主の気持ちを想像するのもまた一興。この商品をどうして入荷したのか?と頭を巡らせてみるのが面白いのです。例えば雑貨屋には「謎の象の玩具」「引っ張ると変なポーズをとる二足歩行のキリン」「やたらアバンギャルドな柄のハンカチ」「タイトルが謎過ぎる本」「店内に一つしかない帽子」「そもそも商品なのか店としてのインテリアなのかすらわからない物体」みたいなのがわんさかあって、それらいちいちにちょっと物語を見出してやったりするのが楽しいわけです。

 

 

 

 

今日はもう遅いので寝ます。

続きは思いつけば書くかもしれません。

※某お酒を飲むところで誰かに話したかもしれませんが、絶対にこういう場所で書かないような趣味もあって、それは書かないようにします。

 

 

 

*1:注意:ここでいう弱者は単に努力可能性を保持したままサボっている人間のことです。実体を得るために必要な努力すらままならない人間については論じていません。

*2:自分が何を聴いてるのかって情報を予め持ってもらえると、うかつに攻撃されずに済むわけです。

望遠鏡

2019年の幕開けです。

動画見てたら年を越していました。今日は平々凡々な一日の予感がします。歳をとるごとに新年の特別感がなくなっていきますね。これは私の想像ですが来年あたりはいよいよどこかのワンルームでひとり年を越したりするんじゃないでしょうか。

特別なことは何もありません。突き詰めて行けばどうせ365分の1なんだし、普段との差はおせち料理を食べたり屠蘇と称した酒を真昼間から飲んだりするぐらいです。親族の集まりに顔を出すことはありません。そもそも親族で集まる事案すら生じていません。昔はあれこれ言いながらも新年は特別だったのですがね。大学生になって美味いものばかり食ってるから、豪勢なおせち料理のありがたみも薄いです。初詣はいつの間にか行かなくなりました。どうでもいいですけど初詣に行くと言うくせに二回目以降の詣に行かない人ってかなり多いんじゃないでしょうか。

年が変わっても老け込んでいくだけでまるで嬉しくない。でもテレビをつければ誰彼構わず楽しそうにしているから、こちらも浮かれた気分になったりします。浮かれているのはカレンダーをめくるのが楽しいからただそれだけであって、節目を迎えただけで実情は何も変わりません。年を越した瞬間に経験値ボーナスが入るわけでもないし、冬に飲む温かい缶コーヒーは相変わらず美味しくないのです。真っ白な1月のカレンダーが顔を現しても無印良品に150cm幅のカーテンは入荷しないし、間違って買ってしまった左利き用のはさみはもうどこにも行けない。そんなもんです。

どうせ変われないのだからせめて変わったふりをしようというのが人間の考えることです。年が明けるというだけでなんとなく救われた気分になります。落としどころというやつですかね。惰性で続けていた無意味な行為を切り離してしまうための理由になったり、逆に怠惰につきサボっていた習慣を取り戻す理由になったりもします。その意味でも、今日は新年の抱負的なものを列挙したいと思う次第です。ちなみにここまでの829文字はすべて最後の一文のためのお膳立てです。言葉なんてそんなもんです。

 

 

 

 

コミケに行った

抱負の話をする前に、この話題について触れておかなければなりません。さてさて、12/31はコミケ3日目でした。コミケの開催されている東京というのは関西民からすれば遠隔の地と称する他なく、しかしその地理的障壁に負けずに新幹線やらりんかい線やらで例の埋め立て地へと向かうわけです。最後に一般で参加したのは2017年の夏ぶりでしたから、実に一年半ぶりの一般参加という計算になります。じゃあ17年冬と18年夏は何をしていたのかという話ですが、サークル参加してたんですよね。今回一般で参加せざるを得なくなったのはもちろん冬コミに落ちたからです。まだ引きずってます。

そんな中でも不幸中の幸いだったのは、以下のような反実仮想です。

"冬コミに受かってたとして、誰が原稿を書き終えて出していたのか"

想像ですが、誰一人として原稿を書けていなかったのではないか、と思っています。危機感は怠惰への特効薬ですが、やはり限界があります。危機感がいくら募れども一日に10万字とかを書き上げるのは不可能だし、そんな極端な例じゃなくたって無理なものは無理です。誰か一人が書き上げさえすれば最悪一冊の本になりますが、それすら危うい状況で本を作るとなると、想像するだけでもおぞましいです。ポジティブに考えましょう。冬コミに落とされたのではなく、コミケット準備会が最適解へと私たちを導いてくれた。そういうことにしておきましょう。

事実、引きずってる暇なんかないんですよね。それは一秒も無駄にしちゃいけないという若かりし藤原基央ステートメントのような意味ではなく、次のことに目を向けなければいけないという意味です。

シンステですね。

シンステの締め切りは1/4に迫っています。あと3回寝て起きたら締め切りなのです。私は書き上がっているのでいいのですが、他の面々が心配です。このままだと私の個人誌になってしまうので誰か書いてください。お願いします。

にしても私は超遅筆だと思っていましたが、他の方々が一向にssを完成させない(ように見える)のを見ていると、なんとなくそうでもないのかなぁ、と思ったりもします。ぼんやり。多分私以上に暇な人間がいないからなんでしょうけど。二日に一回ぐらいのペースで三条のカフェに課金して3時間で2000字ずつ生み出していた日々を思い出します。

 

話を戻します。

冬コミに落ちた事件を私は引きずっています。仮にそう見えなくても根の深いところで引きずっています。引きずっているように見えるのならあなたの眼が正しいということです。夏コミの達成感から一転、私の心はどす黒いルサンチマンで埋め尽くされました。怒りだったり嫉妬だったり、そんな分かりやすい解消法のあるような感情ではありません。怨恨。それだけです。恨みつらみ。行き場がない。固定装備。呪いのアイテム。ロマサガ2でいうところのプリマチュチュです。プリマチュチュは毒無効という便利な特性がありましたが、ルサンチマンの特性は実害をもたらすことそれだけです。

ルサンチマンはただの怨恨ではありません。弱者の怨恨です。弱者を自称するからには事実として私は弱者なのです。このあたりは夏コミ後にSlackに貼り付けたpdfにも書いた記憶があります。その部分を引用します。

 

二次創作にありがちなことなんですけど、作品が評価されるかどうかというのは内容の是非に無関係なわけです。本を売ることだけを考えた上で大事なことは結局、「誰が登場するか」だとか「どれだけ目につきやすいか」だとか、そういうことなんですよね(自明)。京大アイマス研は別に本を売り上げるためだけに会誌を作ってるわけじゃないので、このまま活動を続けていくのですが、(以下略)

 

要するに我々は弱者なのです。どれだけ内容を鋭くしたとしても、買われなければ意味がない。その「買われるかどうか」という側面において、我々は弱者に他なりません。こういうのは逆の立場から見てみれば分かりやすいです。例えば人がコミケに来たとして、アイマス研のブースにそもそも足を運ぶでしょうか? たまたま通りがかったとして、アイマス研のブースで足を止めるでしょうか? 足を止めたとして、ss本を買うでしょうか? 例えば私なら、(斜に構えているので)アイマス研の本には目もくれないでしょう。現に昨日のコミケではアイマス研島の前を通りがかった記憶すらありません。

本質的に弱者なのです。どれだけ快作を集めた本を作ったとて、アイマス研を標榜し、アイマス研の島でss本を売っている以上、売れ行きの爆発的な伸びは期待できません。問題は売れる売れないではなく、多くの人の手に渡るか否かです。私の求めるゴールはそこにあります。多くの人の手に渡って欲しいのだけれども、理想と現実の差は理論上埋めることができなくて、それはつまり、その差を破壊するようなブロックバスターを開発できるはずがないということです。そんなことはもちろん分かっていて、でも言葉にしたところでどうしようもないから、創作をできることだけで充分幸せだなどと言い聞かせて、そうやって今までやってきたのです。

例のpdfではここから個人誌を出したいという個人的願望に繋がるわけですが、今回の記事はというと、それと同じです。やっぱり私は個人誌というものを出してみたくて仕方がありません。青写真は輪郭がくっきりしています。私はとりあえず今まで書いた高森藍子のssをまとめて、そこに書き下ろしを加えて本にしたいと思っています。そこで立ちふさがるのが表紙問題です。

本の表紙は大事です。人はよく表紙だけで本を買うかどうかを判断します。現実、表紙は内容より大事だったりします。内容よりも妥協をしてはいけない箇所だったりします。誰が登場するかを一目で分かりやすくするために、登場するキャラクターの絵を描くべきです。出来れば。キャラクターの絵を描くなら、上手く描くべきです。もしくは、上手く見えるように描くべきです。

この点です。私が弱者なのは、購買意欲をそそるような表紙を描けないからです。絵が描けないのは当たり前で、そもそも絵を描こうと思ったことがないからです。

解決策は二つあります。一つは、相応に上手くなるまで絵の練習をすること。

もう一つは、絵の上手い人に描いてもらうこと。

一つ目は時間が、もう一つの方はお金が必要です。一つ目について。絵がうまくなるのに数年ちょっとでは済まないし、その頃にはどうにも心変わりしていそうです。コストパフォーマンスのいいのは二つ目です。ただ、完全に自分の想定通りには進行しにくいという欠点があります。どちらにも利点があって、でもデメリットの方がメリットをやすやす呑み込んでしまうぐらいに大きい。そんな具合です。幸いなことにこのふたつを同時進行することが可能なので、絵の練習をしつつ状況次第で誰かに表紙絵を頼んで個人誌を作る、という立ち回りで迎え撃ちたいと思っています。

 

以上のことから、新年の抱負は、

  • 絵をちょっとでも上手く描けるようになる
  • (2019年中に限らずとも、いつか)個人誌を出す

です。よろしくお願いします。

 

 

文章について

一応文章の話もしておきたいと思います。私の眼に自分の文章は常々不完全に映りますが、ある程度のものならようやく書けるようになってきたと思っています。不完全を完全にすることは不可能です。それはどれだけ木を彫刻刀で削っても本物の熊が錬成できないのと同じです。文章を書くことに対してやっと自由になれた気がしていて、あとは好き放題書くだけだと、意気揚々キーボードを叩いていたりしています。抱負と言うともやもやしているから、目標とでも言い換えましょうか。

  • 10万字のssを書く
  • 逆に6000字のssを書く
  • ぶっ飛んだssを書く
  • テーマに沿ったssを書く

このあたりでしょうか。作風の幅を広げたいです。超ド級に長ったらしいものを書きたいし、逆に3日ぐらいで書き終える練習もしておきたい。とにかくヤバいssを書いてみたくもあるし、テーマに沿って書くことの楽しさを知りたくもある。とりあえずは短いのを書きたいです。10万字にふさわしいようなテーマが見つかったら長いのに着手するかもしれません。5万5000字やら6万字やらを書き終えた経験のある今の自分なら絶対に書けるという自信があります。

 

 

 

 

とりあえず今日のところはこんなところにしておきます。続きはいつか書きます。

ブルーデージー

誰しもが抱える主張のひとつやふたつを、しかし今の俺は多数を弾倉にこめようとしている。いきなり分かりにくい書き出しで申し訳ないが、それはもう単純なことで、気取った言葉を選ばずに表現するなら、言いたいことがたくさんあるということだ。

誰かが文章中の情報の流れという話をしていた。俺の想像の中でその言葉はぐにゃぐにゃと踊っている。さながら酩酊のようだ。酩酊というのは単に、その言葉の解釈が酒に酔ったときのようにふわふわしているという意味だ。つまり、言葉の実像を捉えきれていない。まぁそれも無理のないことで、そもそも捉えようとしていなかった。有体に言えば軽視していた。軽視というと棘が強い。別の言葉に置き換えるなら、二の次にしていた。

情報の流れという概念をほっぽり出していたのは、俺にとって文章をだらだら書く意義が主張そのものにしかないからだ。わかりにくいか。具体例を挙げる。大阪から東京まで行くにしても、色々と方法があるだろ。でも俺は目的地にしか価値を見出していない。その道中をどうだっていいと考えている。そういうこと。読者に主張をぶつけられればそれでいい。それにしか意味はないと思っている。俺はね。ちなみにこれは俺が書く場合の話で、他人の話はしていない。

次いで俺が重視しているのは分量だ。なるだけ短い方が良い。同じ読後感を味わえるのに30分で読み終えられるものと10時間かかるものなら前者の方がいい、という話。ひとえに短ければそれでいいとは言っていないので、一応ここに断っておく。

大阪から東京まで、新幹線と夜行バスと在来線があって、俺は新幹線が一番いいと思っている。読者を主張パンチでぶん殴るなら、その最短経路を突っ走る。*1そういう気持ちで書いてる。そういう気持ちで書いてるから馬鹿みたいに水が少ないし情報の流れが断続的なのだ。情報の流れだとかを軽視するに至った理由はそこにある。

まぁ、あれだけ情報の流れをブチブチ千切って日本語書いてれば、当然下手くそにも見える。俺はその点を割と気にしていない。書きたいことを書ける以上の満足感はない。あとはどうだっていい。真面目にそういうところを意識して書けばもっと上手くなるのだろうが、結局それは目的地への行き方の問題で、外聞の問題でもある。外聞をよくするために文章書いてるわけじゃない。日本語上手いねって言われたくないのかと胸倉掴まれて耳元で叫ばれてみれば「そりゃ言われたいよ」といった本音が出てもおかしくないが、でも、やっぱりそれは二の次だ。いくら日本語が美しくても、主張がないのなら俺はそれを無価値とみなしたりするでしょう。*2結局主張が出来ればそれでいい。最後の方の一文と説得力の確保のための下手くそな残りの全文の意味が辛うじて通ればであればもう充分だ。

 

両方あればいいって? 今からその話をするんだよ。

いや、綺麗な日本語と主張のある日本語はなにも二律背反じゃない。俺はせっかく主張のハンマーで読者をぶん殴るパターンの文章を書けるんだから、ついでに綺麗な日本語を目指してみようぜ、と最近は思い直している。*3俺は文章が下手だが、単に妥協してるだけで、別に書けないわけじゃない*4。でも、綺麗な日本語を書くのは疲れるんだ。本当に。ただでさえ長ったらしいのを書いてるのにそれの手直しに文章を積み重ねた時間と同じぐらいのそれを費やさねばならない。例えば俺はこういうブログの記事は一回書き終わってしまえば一度も推敲せずに投稿してツイッターに連携してそのまま寝るのだが、記事を書く時間が2倍に増えるとなると厄介だ。おそらく床に就くのが朝の6時とかになる。そこまでやるほどじゃない。身体を削ってまで記事を書くのは嫌だ。だから当然記事の推敲なんざやるわけがないんだけれど、ブログとssとは違う。ブログの記事は噛んでは捨てるガムみたいな対象で、一度書いたらもう終わり、俺は自分の書いた記事をそうそう見返さないし(見返すと自分の書いた日本語の劣悪加減に反吐が出る)、誰かに読まれたとて、やっぱり適当にスクロールされ、あるいは途中でブラウザバックされて終わりだ。あいにくssとかになるとそれは本になって誰かの手元にしばらくとどまり続けてしまう。また、単純にその文章を目に入れる人間の総数が桁違いだ。だから、少しは日本語の美しさに拘ってみたりするべきなのだ。

 

実はこの記事にしたって、情報の流れを多少意識して書いている。前の段落だって、普段の俺なら3文程度で終わらせていた。実際は何文だろう、少なくとも3文よりは長い。感想は「案の定疲れた」。書くのは疲れるよ。本当に。この時点で2000字も書いてるんだぜ。普段ならこのあたりで記事が終わっていそうな量だ。普段の倍ぐらいの熱量と時間をもって日本語を書いてるから、倍ぐらいの疲労感があってしかるべきなのだ。そもそも俺は主張が好きなのであって、別にその媒体なら何でもいいと思っているらしい。これは最近気が付いたことだ。要するにその媒体は日本語じゃなくてもいいはず。でも結局は日本語が一番伝わるから、致し方なく日本語を書いている。言葉を考えるのは嫌いじゃないけど苦手だ。下手の横好き。

 

もう疲れたので、情報の流れとか気にせず適当になんか書きます。

 

 

 

こいつ俺より絶対頭いいよなって思った相手に巡り合った経験があまりない。*5これはそういう相手に恵まれなかっただけのことで、おごり高ぶってるわけじゃないし井の中の蛙でもない。俺よりずっと頭のいい人間は世の中にごまんといて、具体的には日本だけでも5万人ぐらいはいるはずで、でもそういう人間とは運悪く(運よく?)巡り合わない人生だった。中学のときはこいつ絶対に俺より頭いいよなと思っていた人間が友達に一人いて、でもそいつはいじめに遭って灘に転校した。

ときどき反実仮想を考える。例えば俺の方がそういう憂き目に遭ったとして(俺はそういう被害の対象にならないタイプの人間なのであり得ないことなのだが)、高校から灘にでも行っていたとしたらどうなのだろう。きっと東大の理Ⅲとかを目指してたんだろうな、と考えてみる。今の自分の心情と照らし合わせてみると、本当にいっときの気の迷いかなんかで医学部*6に行かなくて良かったなと思う。考えただけでもぞっとする。実家が火事になる想像よりも背筋が凍る。きっと高校時代と同じの無趣味のままで、無駄な大金だけ残してそのまま人生が終わる。受験に受かる可能性があるからってだけで大学6年間を医師になるための勉強に費やす人生。最悪だ。

同時にこうも考える。きっと医学部に入ってたら、自分より頭がいいと断定してしまえる人間にたくさん出会っていたのだろうな。それはそれでどうなのだ? でもきっと、今のように、頭がいいだの悪いだのという杓子定規を本当に下らないと見下せるような人間にはなれていなかったんじゃないかな、と思う。いい世界線に漂着した、としみじみ物思いに耽っている。

 

 

本当はもっと書きたいことがたくさんあったはずだが、一つ目のことを書いているうちにあらかた忘れてしまった。いつか思い出したときにでもゆっくり吐き出そう。もう4時だし。

*1:俺が書いて6万字とかなら、最短経路が6万字だったのだと了解してくれ。

*2:クリシェを目の敵にしてるのはそういうことでもある。

*3:このために、やけっぱちで編集室に出した文章を削除して一部書き直したりしている。

*4:と信じたい人生でした。-完-

*5:注意:俺の周りにいる人間は大体俺と同じぐらいに頭がいい。でもさほど差を感じるわけじゃないから、俺より絶対頭いいとは思わない。なんというのだろう、相手との圧倒的な差を感じたときのあの感覚の話だ。

*6:厳密には理Ⅲだからといって医学部とも限らないのだが

誘拐犯

 

 

 

その気になれば僕たちはどこへだって行ける。こうやって部屋の隅で縮こまっている今だって、ほんの少しのお金を惜しまなければ、どうせ浪費するに違いないその時間を惜しまなければ、日本全国どこにでも辿り着くことが出来る。そんな当たり前の事実に、強く体を揺さぶられる瞬間がある。行きたいところに行けるような時代になって、それでも僕たちはその権利を有したまま行使したがらない。ただ理由がないという理由で、同様に僕たちはどこへだって行けない。

非日常が逃げて行っているのではない。どちらかと言えば僕たちの方が、日常を追いかけ回している。口では散々ああだこうだと愚痴りながら、それでも変化のない毎日にどうしようもなく依存している。身体を動かさない方が楽だ。退屈は疲れない。移動は負担だ。ぶつくさ呟きながら、けっきょく、そんな建前を背に、変わりっこない日常を握りしめている。

理由のないことを選ぶ理由がないのと同じで、わざわざ行動に逐一理由を求めることにも理由がない。でも世間は、たとえば理由もなく遠回りをすることを奇怪の目でみつめる。理由もなく起きていることに無意味という名前をつける。世間を批判したいわけじゃない。むしろその方が健全だ。理由もなく人を殺すことを問題視しない社会はよほど狂っている。そういうふうにして、理由をいちいち求める社会に生かされている。だから、安全な社会の中で、理由を求めるという理念に文句を言うのは、まぁ、間違っている。文句を言いたいのではない。ただ、事実がそこにあるというだけ。理由を求められるのは、安全で、疲れないし、このうえなく理性的で、そして退屈だ。

日々に収穫を求める。あれだって、理由を探すのと同じだ。別に生きたくて生まれたわけじゃないのに、何も生み出さないからって誰も君を責めたりしないのに、でも、せっかく生まれ落ちた以上、一日ごとに進歩をしなければそれは悪だと思ってしまったりもする。丸一日を寝て過ごそうが、そういう日が一年続こうが、それは悪いことじゃない。言葉はその態度を怠惰だと言って攻撃する。見えない誰かに責められた気分になる。実際に具体的な誰かに責められることもある。

 

本当は、本当に、理由なんて必要ない。通学に使うバスの、普段は通り過ぎる駅で降りたって、誰も君を責める権利を持たない。わけもなく京都駅まで歩いて、新幹線のチケットを買って、それで東京へと飛んでいってしまったって、誰かが傷つくことはありえない。ほんの気まぐれで新横浜から折り返してきたって、それも悪ではない。そのまま京都駅を通り過ぎて博多まで行ってしまったとしても、進んだ分の乗車券と特急券の値段を払えば、何も問題ではない。

想像の世界で、仮定の世界で、僕たちはどこへだって行ける。でもその仮定が現実に侵食してくることはまずあり得なくて、それは僕たちが理由に固執する生き物だからだ。

理由に固執するけれど、でも本当は、身体を動かすのが面倒なだけ。

上っ面だけの言葉を並べて、気楽で退屈な毎日を手放さない。

そのバス停に誰かが降り立つことはない。新幹線は定刻に京都駅を出発する。

そうやって日々は進む。

その足枷を君の足に括りつけた犯人は、いったい誰だろうね?

 

 

 

 

特に関係はない

何も言いたいことがなくて、でも何か言わなければ気が済まないような、そんな具合のよくある夜だ。言いたいことのストックが無限にあるはずはなくて、それらは定期的に喉元までせり上がって来る、離島に一ヶ月に一回やってくる定期便のようなものだ。主張の消費期限は勝手に迫る。言いたいことは勝手に消えていく。大抵のことは一度声に出せば満足だし、大声を出しているうちに「まぁ別に必死になってまで言うことじゃないな」と思い直して、再び押し黙る。

ふとした瞬間に主張はやってくる。渋谷のビルに突っ込む電車のように、突然胸を掠める。深夜の線路沿い。赤信号を渡る夜。雨傘を回す日。そういう一人きりの瞬間に、不意に世界の裏側を見たような、例えば瓶の底に書かれた文字を見つけたような、一瞬で霧が晴れるような、唐突に部屋の電球が切れるような、そんな出来事が起こる。そうなってしまえばあとは孤独が自動的に信念を運んでくるのを待つだけだ。

そんな具合に、孤独に助けられる夜がある。手に入れたそれらを大事に仕舞い込んで、丹精込めて磨き上げて、いくぶんか外聞をよくして、それで誰かの手前に持ち出すのだ。そういう風にしてものは生産される。

 

 

だから思考停止と孤独は対にあって、一方を選択すればもう一方は手元からかなり遠ざかる。もっともその選択は一日とかそういう区間でのみ二律背反なのであって、別に一日ごとにやるべきことを交換してやれば何も問題なかった。

でもここ最近は自分の中でのそのバランスがどうにも崩れている気がして仕方がない。考えることが減った。なくなったのではなく、減った。絶対量が少なくなった。考える時間が足りなくなった。

他人のことを考える時間が一気に目減りした。一年前なんかは他人のことをまだ考えている余裕があった。他人のことを考えて、ときに疎んで、ときに一生かなわないと思って、そのつり合いを上手にとりつつ生きていた。気付けば他者を対象として思考を巡らせるのをやめてしまっている。自分のことばかり考えている。本当に。

興味を失っている。ある意味当たり前だ。興味を失うほどには互いを知り過ぎている。知り過ぎて、でも肝心なところは分かり合えないまま、分かち合えないまま、そうやって生きている。

そこはかとない危機感がある。5%も理解していないものを、知り合ってからの年月というおよそ無関係な指標を元手にして、半分ぐらいわかったつもりになっている。他人に興味を持たなければならない。別に全員じゃなくていい。知ろうとする貪欲さも必要ない。ただちょっと耳を傾ける。それだけでいい。見返りなんて難しいことは考えなくていい。考えない方がいい。打算も算盤尽くも何もなく、ただ、耳を誰かの方に向けてみる。そうやって自己完結しない世界に生きないと停滞するなんて当たり前だ。過去の自分だって同じようなことを思っていた。結果だの因果だの偶然だの必然だの幸福だの不幸だの都合だの目的だの愛だの、難しいことは考えなくていい。考えない方がいい。身体が少し傾いた方へ走る。木の棒が倒れた方向へ進む。そういう流動性が必要なのだ。

 

 

悪として仕立て上げられているような分かりやすい対象に向けられた怒りはちっとも美しくないだとか、主張があってその方向に一直線に進むから下手なのだ、回り道でも舗装された道を行くべきだだとか、そういうことを考えている。でもそういう風にして孤独から生み出される主張には対立候補がない。そんなものだからひどく独善的に映ったりもする。独善的なことばかり考えている自分が嫌になってくる。どっちが正しいんだろうね?