しょうもない近況報告
近況報告です
進捗じゃんけん
実家に帰っています
のっぴきならない用事があって、実家に帰ってきました。実家に突入するや否や、インフルの注射を打たれ、大量の書類に署名を促されるなどしています。辛い。というのも二時間もの間背負っていたギターが右腕になかなかのダメージを与えていて(背負うのが下手)、その右腕に針を刺され、ペンを握らされて延々と本名を書き続けたりしました。もうしばらくは自分の名前を見たくないです。
阪急電車は暇を持て余した虚無空間だったので、ひたすらNPC相手に麻雀を打っていました。画像は何故か8索を切ったNPCの様子です。鳴きが強引すぎる。
計算機科学実験及演習4
今日は一限から四限まで実験でした。実験はフレックスタイム制()なので11時ぐらいに実験室を出て飯に行けます。高頻度で一緒に飯を食ってる隣席の知り合いが医科大学に血を抜かれに行っていたので(ドMか?)、どこに飯を食いに行こうかと1限の時間中ずっと悩んでいました。11時ぐらいに東大路をヘラヘラ歩いていると、なんと吉野家の牛すき鍋膳の季節が到来しているではありませんか。これ幸い、渡りに船だと店に突っ込んで鍋膳を食したのです。これが事件の全貌だよ! みんなも牛すき鍋膳食べようね
冬コミ当落
18時からNFに関係するような会議があって、何故かそれへの出席が義務付けられていました。不貞腐れながら京大構内へ足を進めるその道すがら、TLでは冬コミの当落の話に花が咲いています。当落情報通知メールの確認をしてみると……
え~
マジか~
うわ~
ショック~
よほどの人気サークルでない限り基本的に抽選なので(アイマス研同士で枠の取り合いが起こっている気がする)、落ちてしまったものは仕方ありません。辛いね。今後どういう身の振り方をするかはまだ未定です。考えてはいるので続報をお待ちください。暫定ですが2/11のシンステには出すとして、来年5月の歌姫にも出てやろうかと画策しています。
夢の話
最近はモバのSSを読んでは寝るを繰り返すような日々が続いています。漢字二字で表すならそれは怠惰です。横文字を使うならデカダンス。高森藍子ssに飢えていて、深夜を徘徊する老人がごとく「456Pのサイトで『高森藍子』で検索し、何回も読んだはずのssを読み直したりする」というのを繰り返しています。ぼくは高森藍子ゾンビです。
ss空間には大局的な流れというものが存在していて、最近ならそれは「蒸機公演」だったりします。速報だけでも蒸機公演のssが3つぐらい書かれていて、シンプルに嬉しい(pixivは掘ってません)。岡崎泰葉いいですよ。ちょっと前なら飯を食うだけの泰葉ssがあったりして、二次創作(ss)界隈では比較的登場頻度が多い子なんですよね(当社比)。池袋晶葉的な。
Aiko Takamoriと岡崎体育じゃなくて泰葉さん、それから仙台の佐久間との共通項は、彼女たちがいずれも16歳っつー不思議な年齢であることです。別に16歳の全員をこよなく愛しているわけでもないのですが、16歳にちょっとした縁を感じる今日この頃です。具体的には昨日、すなわち11/1に眠り11/2の朝に目が覚めるまで、その間に彼女の夢を見たのです。
藤原肇です。
この子に関する知識は本当に少なくて、
- 岡山出身の備前焼ガール。釣り吉で、祖父を慕う側面
- 自分を器に例える独特のフィロソフィー
- 桜、蜻蛉、サイバー
マジでこれぐらいしかない
あとは同名のデレマス楽曲DBサイトがあることぐらいでしょうか(クイズの作問のときにしこたまお世話になる)。彼女の公式テキストなんて一切覚えてなくて、俺が知っているのはただ二次創作内での彼女だけ。
まぁここからssの話に強引に繋ぐんですけど(デレのオタクではないがデレマス二次創作のオタクなので)、Coアイドルのssってめちゃんこ真面目か作者の欲望ダダ漏れかどちらかに偏ってるんですよね。肇はその傾向がなかなか顕著だったりします。
ss紹介です。ひまならよんでね。
はてさて。藤原肇、実は声が全然脳内再生できなくて、今すごく困っています。例えば諸星のきらり(186.2cm)なら俺は脳内再生が本能のままに可能で、何ならきらりん語を俺の声帯から生み出すことすらできます。これは就職で役に立ちそうな数少ない俺の特技のひとつです。ところが藤原肇。公式テキストをまるで読んでいないから、どんな口調で何を語るのかがさっぱりつかめてないのです。(一度自身のssではじめを登場させた人間とは思えない、風の前の塵芥に同じ。というかただのゴミ。火曜と木曜に回収される)
夢で会ったのも何かの縁。ちょっくら肇のテキストを読み込む作業に体を起こしたいと思います。
縁と言えば、今日引いたおは60。
はじめがいます。何かの縁を感じました。
手前の依田さんも16歳ですね。
デレの新譜がよい
今週水曜がTrust meの発売日でしたね。俺は極度の面倒臭がりで、CDをインポートする手間すら惜しんだ結果、4枚ぐらい未インポートのCDが溜まってしまっていました。Trust meのついでに全CDをまとめて取り込んで、初めて聴いたのが木曜日。何日放置すんねんという感じです。ともあれ、スマホには
- Kawaii make my day!
- Dear my dreamers(ユッキの新曲)
- 双翼の独奏歌
- ハピガ!(幸子)
- Trust me
- 君への詩
あたりが一気に入ったのですが、思ったこと。
全体的にめっちゃいい。
KMMDはストーリー性があってグッとくるものがある。3人で歌うと個々人の声が映えるのなんの。ユッキの2曲目、なんかめっちゃカッコいい。最後にド高音叫ぶ曲好き(アジカンのせい)。アリア、なんかめっちゃカッコいい。セリフパート好き。幸子、カワイイ。幸子の育ちの良さと元気有り余ってるあの感覚がひしひしと伝わってきてハピハピになる。Trust me、狂おしいほどすき。アウトロがすばらしい。君への詩、ウサミンの声がノホホンとしててよい。
みんなもTrust me聴こうね。めちゃくちゃ良いので。ぜひ。ところで未だに聴き分けができないので、誰がどこ歌ってるか教えてください。佐久間どこ歌ってるかマジでわかんねえ。
最後に
ツイッターの下書き欄晒して終わります
屋上メテオ
どうだろう、僕たちは夢の中でパンケーキを食べていた。
夢の内容を日記につけると、夢と現実の境界が曖昧になって宜しくないらしい。でも僕の青に薪をくべていたのは夢ただそれだけだから、少しぐらいそいつに人権を与えてやってもいいと思うこの頃なのである。昨日は不思議な夢を見た。隕石の墜ちた駅からの脱出を試みる夢である。同時にそこには彼女が登場する。彼女はその駅の近くの、くしゃくしゃになった折り紙のような複雑な立体構造をした高校に通っている。隕石の降った駅はもう粉々になってしまっていて、ただどこまでもまっすぐな駅のホームの残骸が白煙を上げて横たわっている。僕には予感があった。隕石の墜ちたその瞬間、彼女はちょうど駅で京浜東北線を待っていたところだったのだ。再起不能になったその駅の中で、僕は彼女の制服姿を探す。不意にやってきた列車が彼女を一瞬のうちに吸い込んでそのうちにスピードを上げる――壊れたはずの線路を何故だか鉄道が走っていた。僕はただ、その銀色の箱が見えなくなるのをじっと眺めている――
色々な話をした。街を歩いたことがあった。行き止まりで話をしたこともあった。虹を見た。よく覚えている。硝子のように輝くもの、流木のように行き場のないもの、何にだって彼女は愛を与える。アイスココアに溶けるシロップを僕は映像のように思い出せる。冬の雨と、風に踊る七色のマフラー。残像のような排気ガスの水に溶ける匂い。静寂の中で弾ける時計の針の音。街灯の明滅・・・・・・
彼女には死のようなモノクロの鋭角は似合わない。君には針もナイフもコルク抜きも、アイスピックも電気椅子もアイアンメイデンも分不相応だろう。もっと丸いものでいい。だから、僕たちは夢の中でパンケーキを食べていた。そういうことにしないか?
アノミーと旅行鳩
*
思うに君達の一心に志向する理想郷とやらはエゴで満ち溢れている。例えば君はこの、細長い無数の針の刺さった球体をどう解釈するのかい? 解釈という字面が気に食わないのならこう換言してもいい。金属やコンクリートで表面を穴だらけに加工され、飽き足らず表層を鈍色で重鈍で咽るような煙たさの黒で塗り固められてしまったそれを、君達はどう認識するのかい?
・・・・・・ああ、君の返答の中身そのものなんざ白黒どうでもいいんだ。問題はその意識の介入だろう? 解釈だの認識だのそんな行為を挟む逐一、君達人間はどうしようもなくエゴに憑りつかれているのだ。そもそも物体は物体でこそ存在し絶妙なバランスの上で存在を維持していたものであるはずなのに、君達は解釈というナイフを手に物質をあけすけに解体し、中からだらだらと飛び出している赤にばかり目を向け、ことの本質はああだのこうだの異口同音に主張するもんだから、意志も意識も自意識も無意識も何も持たない側からすればいい迷惑で仕方がない。解釈という行為にはいずれエゴというエゴが付着して回るのだから、初めから正当な説明など皆目あり得ないのである。
この話題は難しいようだから、もう少し即物的な話をしようか。僕は人のそばに亡霊のように佇むエゴについて考えた経験がある。
考えうる人類の発明品のうち、最もエゴに溢れているものは何であろうか? 何も難しい話じゃない。少し考えてみてくれ。
そうだ。君の言う通りだよ。動物園だ。
時に、動物園で日を暮らす動物の心情を想像したことはあるかい?
くだらない人種は動物園に飼われている動物に憐憫の情を向ける。思うにそれは本当にくだらない。つまらない。ステレオタイプが過ぎる。面白くない。そしてその上に重大な誤謬すら抱えている。そんなものだからもう救いようがない。まこと度し難い。想像力が常人レベルにだに達していない。エゴイストの極みである。
僕はクジラだが、動物園で過ごした経験はない。その事実を断っておく、すなわちあくまで想像の範疇を出ないことを予め伝えておくが、動物園の動物はきっと、動物園は動物を見る空間であると捉えているのだろう。
どういうことか、って? いやいや。動物園の動物は、動物園にわざわざやって来るもの好きの動物を見て日々を過ごしているのさ。
どうだろう。少し考えてみて欲しい。動物園に人間の檻がないのは何故だろうね?
当たり前だって?
いやいや、動物園なんだろ? 動物を展示する場所なんだろう? いくら人間を見飽きているからといって、世界中を見回してみても人間の展示が行われている動物園が皆無であるのは聊か不自然だ。
君達は自分自身が動物であることをてんで忘れているのか?
僕にはそうは思えない。ならどうだ、現状は以下のような言葉で表現できるのではないだろうか。
君達は、自分自身が動物であることから抜け出せないこと、あるいは事実として動物的であることを忘れようと立ち振る舞ってはいないか?
その下らない意志に名前をつけたのは他でもない君達だろう。
――思うに君達の一心に志向する理想郷とやらはエゴで満ち溢れている。
*
フィクション
おはようございます
東京よりお送りします
同じ宿に泊まっている知り合いが夜の10時にもう寝ると言い始め、不貞腐れて10時半に床に就きました。そういう具合で目覚めたのが朝の4時台という訳です。遮光カーテンを開くと当然外は真っ暗だったのですが、向かい側のビルの5階のオフィスらしき空間に電気が点いているのが見えて闇を感じました。
せっかく起きたものですから日の出でも見に行こうと思い立ち、万世橋まで結構な距離を歩きました。が、一面曇りの空模様では日の出が見えるはずもなく、まさしく骨折り損です。その徒労をただの徒労のままに腐らせたくないために、こうして感じ取ったことを記事に書く次第です。
昼の対義語は?
よほど捻くれた人間でもない限り夜と答えるのでしょうか。生憎僕は人間性が捩れているので朝と答えたりします。
半分冗談です。まぁでも、この社会の真の闇というか、昼にも夜にも見えない部分を朝に垣間見ることが出来るのは本当の話です。昼や夜にネオンサインを輝かせて陽気な雰囲気を漂わせているチェーンの飲食店がゴミを出すのは朝ですし、そのゴミを回収する車が道路を次々通り抜けていくのも朝。24時間営業を謳う店では店員が死んだような目で立っていますし、そのコンビニで早過ぎる朝食を買っていく人の目も沈んでいます。
朝という言葉は幾分か明るいイメージを引き連れて辞書の中に存在しています。イメージというのは常々虚構で、本当は現実から目を逸らしているだけなのでしょうね。
という訳で、僕は希望の朝というフレーズが嫌いになりました。
以上です。
それでは、いい白昼夢を。
都市計画
街という生き物は不思議だ、と常々思う。
不思議という言葉はちょっと僕の思うことからずれているかもしれないね。
僕は街という生き物の持つ博愛主義的な素っ気なさを特異だと思っている。
例えばどうだろう。本は隅々まで読むものだ。本当は一字一句見逃してはいけない。どうしても読み飛ばしてしまったりすることはあるかもしれないし、あるいは作者の方から読み飛ばしても良いとの但し書きが入るかもしれない。でも、多くの本は全部のページを読むことを読者に強要する。強要とはいかないまでも、そのことを前提にしていることが多い。
それに比べて街はいくらか素っ気ないのだ。
全てを知ることを強要しない。別に街の中で行かない場所があろうと、街はその事実を気に留めない。それでいて、普段行かないような場所に行けば、新しい景色を見せてくれるのだ。前者が素っ気なさ、後者が博愛主義にあたる。
僕らの期待を世界はしばしば裏切るが、期待していなかった喜びに出会えるんだ、というフレーズをどこかで耳にしたことがある。
街という生き物は不思議なものだ。
例えばある建物が鎮座している。その建物の存在に理由を求めることができる。単純に、誰かが建てたいと思ったから建物が建っている。建物を建てる理由が無いときは、その空間は駐車場になっていたりする。
そうやって必然が連なった結果、生まれる街の風景は誰もそうなることを期待していなかったであろう偶然に満ちている。
必然の連鎖が偶然を齎す。
偶然という言葉は人に重くのしかかる。
例えば僕はプロットを作らない。これは、以前まで綿密なプロットを作成した上で執筆をしていたものの、その作業――習慣と換言しても良い――をいつの間にやらやめてしまった、ということを意味している。
街という生き物を考えたときに、僕は東京と京都を引き合いに出す。
例えば僕は東京の街が好きで、京都の町は退屈に思う。
謂わずもがな、京都の町は碁盤の目状になっていて、その風景に偶然が少ないからだ。
その点、東京はいい街だ。
道に規則性が無い。道路は不思議な角度で伸びていることが多いし、上下の変化も闊達だ。例えば御茶ノ水。駅を降りると神田川の水面と地面との高低差に驚く。駅から坂を下りる。坂は緩やかな右曲がりのカーブになっている。坂を下り切ると靖国通りだ。その場所から見える、高層ビルと形容するにしてはあまりに背の低い、痩せぎすのビル群。
その風景は、誰かが仕組んだものではないはずだ。
偶然という言葉はあまりに人に重くのしかかる。
綿密に練られたプロットに従って進行していく物語。
誰かの都市計画。
物語という生き物は不思議だ、と常々思う。
例えば僕は風船を握っている。
手を放してしまえば最後、二度とその風船を手にすることはない。
それでも不意に手を離した瞬間から、その赤い風船が空に舞い上がっていくだけの景色の方に、僕は心を奪われてしまうのだ。
物語はひとりでに動き出していく。
誰かの都市計画。
僅かな誤差が積み重なって、最終的に別の物語が出来上がる。
必然が齎すその偶然にこそ僕は価値を見出したいと思っている。
都市計画上の町と実際の街との差異が――その不完全さが大事なんだ、本当は。
そうでもないとさ、退屈じゃないか。