完全敗北

何度も言っていることだけど、僕は完全敗北できる相手を募集しています。

 

 

夜は加速して、あっという間に僕らを追い越す、とよく言われますが、本当に夜は早いものですね。みなさんはいかがお過ごしでしょうか。今起きている人はきっと、眠たいのに寝る理由を見いだせないから起きていたり、あるいはテレビゲームに対峙していたり、夜食にソース焼きそばを食べていたり、窓を開けて外の空気を楽しんでいたりするのでしょうか。僕は一番最初のパターンです。眠ることにもいちいち理由が必要なのは面倒な世界だなぁと思います。何となく、夜に起きているというより、夜に起こされているような、そんな感覚です。幸福な夜をひとつずつ越えていきましょう。

 

勝ち負けに付随するのは嫉妬や羨望、勝った負けたのいざこざ、怒りや苛立ちでしょうね。僕は勝負事というものを本気でやるような性質を持ち合わせていないので、勝ったときも負けたときも何とも思いません。ただ、僕に勝った人が嬉しそうにしているのを見て幸せな気分になることはあります。

本気で勝負をしたことがないのですよね。別に冷めてるわけではなくて、真面目に勝負事に興じようとしても、生来的な遊び心がそれを拒むのです。一般に人が勝負事に全力で挑むというのはどんな状況でしょうか。例えば受験とかですかね。僕は受験勉強においてかなり手抜きをした*1ので、全力で挑むという言葉には役不足ですね。まぁこんな具合で、勝負事に全力で挑んだ経験がないのです。

文章の冒頭に繋がる話ですけど、勝負にマジになったことがないので、殊更に勝って嬉しいと感じたこともなければ、負けて悔しいと思ったこともありません。でもその反骨精神って大事じゃないですか。何につけても心の蝋燭に火をつけることになる原因みたいなものが必要で、今はそれがなくて困ってるんですよね。

今まで高みを目指したいと思ったことってほとんど無くて、何か学問だったり絵とかの芸術活動だったり色んなことに興味はあるんですけど、飽き性だから別に極めたいと思わないわけです。本気で強くなりたいと思ってるのは小説を書くことぐらいなのですが、今まで自分が飽きてきたそれ以外の活動と物書きにどんな違いがあるのかと考えてみても、ピンとくるような正解は見えないのです。それは先天的な性質なのかもしれません。単純に書くのが好きだからとか、そういうありふれたつまらない解答です。

ある程度書けるようになってきて思うことなのですが、目指すべき到達地点が見つからないのです。かつての自分が見据えていたところまで来てしまったというか。ここから先、何が待ち受けているのでしょうか。直感ですが、これ以上 上には行けないような気がしています。一次創作とかに本腰を入れてみたりするのもありなのかもしれませんが、一次はあまりに道が舗装されていない。本気で作家を目指してみようとするにしては文章が下手だし筆速度が遅すぎる。何と言いましょうか、登ってきた山が思いの他周りに比べて低く、ここから別の山に行くのは遅すぎる、といった感じです。

――ここまで書くと、将来に悲観的なだけの人間という感じがしますが、別に手詰まりではありません。冒頭に繋がるのですが、僕は完全敗北できる相手を募集しているのです。

完全敗北。僕がその人の作品を読んで、「僕にはこのレベルのものは何年かかっても書けそうにないな」と思えるような、そんな敗北。その敗北の前に横たわっているのは、嫉妬とか苛立ちとか、そんなちっぽけな感情ではなく、圧倒的な敗北を前にして思わず笑ってしまうような、自分の世界が根底からひっくり返ってしまうことへの爽快感です。

僕はそんな完全敗北を待ち望んでいます。

完全敗北を悟れば、僕はその人を到達地点にして、もう一度青い炎を身に宿すことが出来るのでしょう。

赤色の炎を青に染めることが出来るはずなのです。

だから、僕の前に圧倒的な作品を持ってきてください。

お願いします。

*1:そのせいで結構悲惨な目に逢った

クリシェの殺し方

突然ですが、ここでクリシェの話をします。

 

この記事を書くそもそもの動機です。

 

動機その1

なんとなく最近、クリシェという言葉が独り歩きしている感があって、このまま放置しておくと周囲の人間に「何かにつけて『クリシェ!!!!!!』と叫んでいるヤバい人間」と認識されかねないので

 

動機その2

というか自分自身もクリシェについて正しい認識をしているのか自信がなくなってきたので

 

記事のレゾンデートルについては、9割9分僕自身のために書かれたものだと考えてください(これを読んでいる人が存在しているという前提で書いているのもなんだか不思議なものですが)。また、過度な一般化による反撃を極度に恐れているので、ich denke*1構文が繰り返されています。

非常に大事なことなので何度も声を高くして言いますが、この記事に記載されている内容は文章論ではなく私見です。個人の見解であり、他人に向けたアドバイスの類でも何でもありません。たまにツイッターに流れてくる、アマチュア文字書きの文章製作論みたいなのが大の苦手で、ああいうのと同一視されることだけは避けたいなぁと思うのです。

 

理性と感情のスタビライザー:いくら理性的に生きようと思っても、あらぬところで感情的になってしまってとんでもない言動に走ってしまうことがザラにありますが、それを防ぐためにあらかじめいろいろな私信を明文化しておいて、感情に天秤が傾いたときに過去の自分の発言との整合性を保とうとする本能を利用して、衝動的に何かを破壊してしまいそうになるのを防ぐのです。

 

 

留意:以下における「クリシェ」という言葉の指す内容は、あくまで僕自身の解釈によるローカルな意味です。換言すると、「僕の口から出るクリシェという言葉の意味」であって、「世の中に広く用いられるクリシェという言葉の意味」ではありません。

 

 

 

クリシェとは

 

フランス語で常套句。ここまでが辞書的意味です。以下は辞書的意味に色んなものを付け加えたクリシェ、いわば改造クリシェです。改造というわりには普通のことを言っておりますけれども。

物語や文章表現において、あまりに用いられすぎているがゆえに、読者の目には陳腐に映る展開や表現技法のこと

*2

以下は僕が散々口にしている、クリシェの例です。

主人公周りの状況が悪くなったときに雨を降らすのはクリシェ!!!

で、なんやかんやあって状況が好転したときに都合よく晴れるのはクリシェ!!!

雨上がりに虹が架かるのはクリシェ!!!

軽率に泣かせるのはクリシェ!!!

 

クリシェの何が悪いのか

 

あえて断定口調で書きますが、クリシェ自体は悪いことではありません。そもそも文章を善悪の軸で測ること自体はちゃめちゃに無粋ですけれども*3、まぁそれは置いておくとして、それにしたってクリシェを使うこと自体は許されることであって然るべきです。それならこんな文章書くなよという話なのですが、事態はそんなに単純でもありません。クリシェという存在は折角綺麗に仕上がった作品の質を破壊しかねない不穏分子であり、爆弾だとかダイナマイトだとか、そういう毒にも薬にもなるような危険な存在なのです。危険物は慎重に扱わねばなりません。危険物であるからこそ、クリシェは出来る限り用いない方が良いし、用いるにしても何らかの正当な理由を以て行使しなければならない、というのが僕の立場です。

ところがクリシェというものは「じゃあ使わなくていいや、これで満足か?」で済むようなアレでもありません。というのも、書き手側がクリシェクリシェと認識できない場合があるからです。この事実がクリシェを猛毒たらしめているのですよね。先のクリシェの例だって、ああいう流れの作品を全く知らない人からしてみれば新鮮に映るはずです。

(以下、読み飛ばしていただいて構いません。少し難しい話です。)

突き詰めると、クリシェクリシェと認識するか否かというのは、読者の経験の問題であって、本来なら作者に無関係だ、という結論に到達します。例えば「日本人だと思ってた人が日本人名を騙った外国人だった!という叙述トリック」の含まれる作品を読みまくった人からすれば、その技法はもうクリシェなのでしょう。現実にはそんな作品は数えるほどしか存在しないはずだし、それをクリシェと認識しない人が大半です。つまりある技法がクリシェクリシェじゃないかという判断は、「それをクリシェと認識する人間の割合がある一定値を超えているか否か」という判断基準に依るものになります。自然言語は難しいという方のために、簡単にモデル化します。

関数σは展開ないし技法それぞれに与えられる固有の関数です。引数に読者を取り、その展開ないし技法を読者がクリシェと判断すれば1を、そうでなければ0を返す二値関数です。

素数が充分に大きな集合Xは、各読者xを要素に取ります。先述の閾値をτ(0<τ<1)として、Σ{σ(x)} / |X| >= τ であれば クリシェ、そうでなければクリシェでない、と判断する、ということです。

このモデル化は、数学的にとらえて厳密性が云々という意図で行われているのではなく、単純に数式で記述した方が分かりやすいから、という理由によるものです。

 

結局クリシェはどこがどう駄目なのか?

 

読者がクリシェクリシェと認識してしまった場合のデメリットは、「一部の読者が読む気をなくす」に尽きます。まぁ萎えるんですよね。「しょーもな」みたいな。ちょっくら「ダメなクリシェ」のカテゴライズでもしておきましょうか。

  • 如何せんそのクリシェがあまりに用いられすぎている
例えば一部の(ここ重要)Jpopやアイドルソングだと雨上がりには100%虹がかかりますし、離れていても空は繋がっていますよね。そういう類の歌でそうなってしまいがちなのは、歌詞に深い意味をこめても意味がないからです。そういう歌を聴く人が注意を向けているのは歌声だとか歌の上手さだとかであって、歌詞は体裁のための道具に過ぎないんですよね。でも文章は日本語のみが構成要素なので、ただ一つの表現手段であるその部分でクリシェを使ってしまうと、致命的な安直さを生み出してしまうことになります。
  • 文章の核となる部分(大きな伏線や文章の主題)がありきたり
「離れていても空は繋がっている」ってことを主題にした小説、読みたくなくないですか? 肝心の最後のセリフが「でも、離れていても空は繋がっているよね」である小説を想像して見てください。多分僕なら下宿のど真ん中に3秒でキャンプファイヤーを建設して高らかな歌と共に本が燃え尽きるのを眺めることになると思います。
  • 自明なことをわざわざ1ページぐらい使ってつらつら述べている
そんな誰でも思いつくようなことをだらだら書かないでくれよ……という気持ちになる。
 
ここで問題になるのは、「クリシェ、別に悪いことしてなくない?」という意見です。確かにクリシェの価値は0かもしれないけれど、価値を下げるような狼藉を働いているわけじゃない、と。
 
いや、ね。読者の時間を奪ってるんですよ。これを言うと、自分が読者の立場に立ったときはそんな意識(自分はわざわざ貴重な時間を払っているのだという意識)は働いてない、とよく言われます。僕もそんな意識を持って読書をしてるわけじゃないです。(たまに超絶下手くそな文章を読まされているときに時間返せという気持ちにはなるけれど。)それでも、読者の時間を借りているという意識を持つこと自体は大事だと思うんですよ。あくまで主観だし僕の見解ですけどね。それが自分の作品を読んでくれる人への僕なりの最大限の敬意なのだと考えています。
 
僕には、あくまで僕に限った話なので全然気にしないでいただきたいんですけれども、作者は読者にある程度新しいものを供給すべきだという意識があるんですよね。読書って本を読んでそれで終わり、で済ませるようなものじゃないでしょう? 買った、読んだ、終了、で済ませるのはあまりに淡泊すぎやしませんか。読んでその後に読者自身があれこれ思索するのが読書体験ってものじゃないですか。ショーペンハウアーも確かそう言ってる[要出典]。文章に書かれてる内容が全てどこかで見聞きしたものだったら、それが出来ないんですよね。読書前と読書後で別人が出来上がっていなければならないから、読書で何も得るものが無いというのはもう完璧に読書の意味を削いでいるに等しいのです。
 

クリシェの避け方

 

実際に書き手がクリシェを避けるにはどうすればいいのでしょうかね。僕は二つの方法論があると思っていて、それらは仰々しくここに書くまでもなく大勢の書き手が無意識にやっていることではないでしょうか。多分。

  • 経験

ひとつはシンプルに、読書歴を積んで、ありきたりな事象に対するアンテナを強化することです。たくさん文章を読んで、クリシェクリシェと認識できるようになるぞ! という策ですね。

  • 隠匿

もうひとつは、クリシェクリシェと認識させないような文章力で押し切ることです。たとえ展開がチープでも、それに上乗せされている日本語の文章力が目を見張るものであれば、人間そちら側に目が行きがちです。「うわ、文章うま!」という感想だけ抱いて、実は展開がありきたりであったことを隠匿できます。何ていうんですかね。言葉は悪いですけど、火事場泥棒って感じですかね。ちょっと違うか。巨大花火を打ち上げて、みんながそちらに目を向けている隙に雲隠れする雰囲気です。

 

例外

 

結局のところ、クリシェを用いる行為は僕の倫理観においては極力避けるべきだと判断されています。でもクリシェを使っても良い場面だってあるはずなので、それについて軽く論じておきます。この節はクリシェを使いそうになったときに自戒として働く予定で書いているのですが、それが丸々この節の存在意義になっていたりもします。

  •  代替案がないとき / 代替により文章の存在意義が消滅してしまうとき
軽率に登場人物を殺したり、軽率に泣かせて読者にお涙頂戴させたりするのは一種のクリシェですが、じゃあ殺さないでおこうだとか泣かさないでおこうと簡単に鞍替えしてしまっても、それはそれで結果について回るのは中身のない文章です。そもそも人が死ぬ文章を書きたいのに「人が死ぬのはクリシェ!」みだいな雑なことを言われても困る、みたいな状況でのクリシェは許されてしかるべきだと思われます。クリシェを書かなければならない状況に陥ったとき、「クリシェを書く!」という意識と覚悟をもって製作に挑まなければならないのですが、その意識と覚悟が欠如した状態で製作に特攻するのは無謀極まります。すなわち、「書こうとした主題がクリシェである」場合、「クリシェだと認識し」、「それを念頭において製作を進めている」という2条件が揃っていれば特に問題はないのです。
問題になるのは、本当に代替案がないか? というところです。
例えば人は心模様を空模様にメタファライズしがちで、「外は雨が降っていて、それは俺の心の雨のようだ」みたいな比喩*4を用いてしまったが最後、各方面から容赦のない「クリシェ!!!」コールが飛んできます。ここで先ほどの理論「代替案がない」を用いることができます。すなわち、「クリシェだとは分かっているが、それでも俺はこれを敢えて書くのだ」と主張することで、外野の野次を一蹴することができます。
ところがその道理がまかり通るのは代替案がない場合の話。先ほどの下手くそなシミリは「語り手の心情が悲しみに満ち溢れている」ことを表現しようとしたに違いないのですが、内的なシグナルにせよ外的なシグナルにせよ、悲しみを表現するのならベターな表現がいくらでも思いつくはずです(思いつかないのは単純に書き手の能力不足)。比喩ひとつひとつにつけても、よく見る表現に逃げるのではなく、「同じぐらいに読者の想像の手助けになる比喩で、少なくとも自分は見たことのない比喩」を用いるべきです。文章に真摯に向き合うならね。でも毎回そんなことをやるのは時間がかかって仕方がないし全身の骨も脊椎から耳小骨に至るまでバキバキに折れてしまうので、多少の妥協は許されるものだと考えています。
 
比喩は色々と考えて使っているのですが、他人の比喩を意識的に流用したことは3回記憶していて、ひとつは「眠りの粒子」、これはとあるssからの流用です。ふたつめは「氷を抱きしめるような儚さ」、これは安吾です。最後のひとつは「世の中のどっちを向いてもつまらなさそうにしているような」、これは漱石ですね。ちなみに今まで自分が使った比喩で一番好きなのは「ざまあみろ、というような折れ方をした信号機」です。多くは語りませんが(すでに多く語っているので説得力が皆無)、人類にこき使われていて休まず働かされていた信号機が人類滅亡に際してざまあみろという言葉と共にぽっきり折れているというのが良い。初見で「いやどんな折れ方やねん」ってツッコみたくなるところも好き。何よりこの比喩、信号機が折れているところを想像したら「ざまあみろ」って言葉が無意識から漂着したというエピソードがあって、なんとなくその偶然が心に触れて離れないのです。結局めちゃくちゃ長く語っててもうダメ。
 
もうひとつの例外です。
  • 消費されるための文章を書くとき

もうこれに尽きます。雑な設定、安直なご都合主義、雑巾みたいに使い古されたお涙頂戴のお話。一部のJpopも同じような感じなのですが、量産されて、消費されて、飽きられて廃棄される、そんな文章を書きたいのならクリシェをバンバン使いましょう。何故って? 何も考えずに文章が書けるからです。枠に当てはめて素早く文章を作れますからね。

 

結論

 

『結局さ、圧倒的文章力でねじ伏せればいいんじゃね?』

真実です。先述の通り、文章力でクリシェの存在を隠匿することができるので。

まぁ、書きようなんですよね。とどのつまり、クリシェがどうこうというよりも、クリシェをどう書くかで文章の質は変わってきます。では早く文章うまおになりましょう、以上!!!……で済めば話は早いのですけどね。文豪レベルの文章力がないのなら、クリシェを避ける努力が必要になります。分かりやすい話です。文章力があれば何書いても面白いのだし、逆に文章力がなくてもアイデアが斬新であれば作品は評価されることが多いのですよね。自明。小学生でも知ってる。

さて、僕が「クリシェ!!!!」と叫んだときにどう対処すればいいのかについて。「いや、うっとうしいし顔面殴ればよくね?」とかそういう話ではなく、僕に限らずとも誰かが「これはクリシェだし書き換えた方が良いよ」と主張するに至ったとき、具体的にどう書き換えるか、という話です。こういうときに明文化は役に立ちます。まずクリシェが文章に存在しているということは、クリシェクリシェと認識できていないか、クリシェと認識しているが敢えてそのままにしているかのどちらかです。前者の場合、作者は代替表現、あるいは代替となる展開を探すべきです。この作業が終わり、もし代替表現が見つからないのであれば、後者の「クリシェと認識しているが敢えてそのままにしてある」パターンに集約されます。後者の対処法ですが、悲しいことに一つしかなく、しかも激しい技術が要求されます。「その箇所の日本語を洗練させる」ことです。要は文章力の鬼になれという話です。

無茶振りが過ぎますよね。でも天神なら大丈夫。分かりやすい学習システムはありませんが、もうひとつの方法があります。

「消し飛ばす」

 

というわけで、クリシェとのツッコミを受けたら、以上の方針に基づいてクリシェを殺しましょう。以上です。

*1:思索の結果としてのI thinkはドイツ語で書きたくなるんですよね。功績のある哲学者が多いからなのでしょうか

*2:現実世界の僕は、ここで右に用意してあったシャンディガフに口をつけ始めました

*3:そもそものそもそもですが、人の文章論に口を出すこともYOKEI NA OSEWAですね

*4:これはシミリで、メタファーではない

スケートボード

常々思うことだし何遍も言っていることだけれど(しつこい)、大体の人には複数の人格が備わっているという主張を信じている。別にその人格ってのは全く異ならなくても良くて、「ほとんど同一視できるが細かい部分に差異がある」だとか、「挙動こそ異なるが根底の部分は繋がっている」とか、そういうパターンでも複数の人格という言葉の範疇に含むものとしている。だからここで述べる複数人格というのは多重人格などという仰々しくアカデミックな概念とは異なる、いくぶんか実利的な存在である。(断っておくが、以下の文章は論理的な骨子を有さないものであるので、真面目な指摘は勘弁してほしい)

 

複数の人格を有していることを信じられないのなら、一人でいるときの自分と、誰かと会話しているときの自分を比較してやると良い。

 

例えば僕は、普段誰かと同じ空間を共有しているときの人格と、ひとりで文章を書いているときの人格を異にしている。文章を書いているにしても、ブログを書くのと小説の真似事をするのとではまた別だし、かと言って例外もある。

区別のために何となく名前を付けていて、人と会うときはそれはymdという人格だし、ブログを書いているのは時空犯罪者さんだし、小説家の真似事をしているのはラミンさんだ。最近はymdさんがブログを書いたり台本形式のssを書いたりもしているし、人と会っているときに時空犯罪者さんやラミンさんが顔を出す場合もある。自己紹介終わり。

 

本題。

人と会って馬鹿騒ぎをするときがある。カラオケに行って全力であんきら狂騒曲を歌わされたり、酒に飲まれてスマホを座布団に投げつけたり、普通に部屋で騒いだり。

後に一人になって、なんとなく茫然として、1ミリぐらい後悔する。もっと有意義な時間の使い方があったんじゃないか? 後悔とは言うけれど別に学ぶことはない。同じことを繰り返す。共感して欲しい。

今日思いついたことなんだけれど、あれは別の人格の羨望に依るものなんじゃないか?

ymdさんが馬鹿騒ぎしてるのをラミンさんや時空犯罪者さんが羨ましがっている。

そう考えると、それはもう滅茶苦茶にしっくりくる(語彙が貧弱)。

 

みなさんも、そういうことにしませんか? たくさん人格飼ってるでしょ? 名前をつけてあげてください。ちょっと世の中が分かりやすくなります。

3回前期まとめ

なんとなく気が向いたので3回前期の単位について忘れないうちに書いておこうと思います

 

 

全体的に

計算機科学実験及演習3とかいう必修科目があり、これが計算機科学コースの鬼門として屹立しているとの噂でした。僕はハード・ソフト両方について、必修さえ終わらせればそれでいいや、というスタンスのもとで課題をこなしていたので、相対的には楽でした(ヤバいプロセッサ作ってたりMLインタプリタをめっちゃ拡充しようと努力していた名実ともに意識の高い人はなかなか大変そうだった)。まぁ絶対的には苦痛であることは変わりなかったのですけれども。

2回のときにコンピネとDBを上回履修していたので単位は守られましたが、もしこれらの履修もしていたと仮定すれば、多分1、2個は単位を落としてたんじゃないかなぁと反実仮想に思いを馳せる次第です。安寧は常に薄氷の上に鎮座しているものです。

 

月1 デジタル信号処理

毎週月曜1限に小テストがありました。貴重な日曜の夜の数時間をテスト勉強に充てるのはなかなか虚無。そのうえ小テストは満点が取りにくいようなつくりになっていて、6点だとか8点をしこたま量産し、果然A+に微妙に届かないまま終わる。さよならだけが人生だ。

 

月2 プログラミング言語処理系

ksuenaga is god

単純に試験が簡単で(主観)単位が取りやすいというのもありましたが、それ以上にレジュメが読みやすい。とかく勉強する気が湧いてくるが故、時間をかけて資料を読み込み単位を取るという非常に健全な科目だったという所感です。ところで先の文言と矛盾しているように思われるかもしれないですが(実際矛盾してる)、コンパイラの資料を全く読まずに試験に突入したことを覚えています。実際に読まなかったところは出なかったので問題はありませんでした。普通にA+をいただきました(ありがたい話です)が、周りを見渡すと案外A+を取ってない人がちらほら見受けられました。どうなんでしょうね。

 

火2 オペレーティングシステム

今期イチのよく分からん科目。

普通に試験対策をして、「まぁいけるっしょゎら」みたいな感じで試験に突入したのですが、「?」というような問題が櫛比のごとく並んでいます。スライドに書いてないことばかり出題されていたんですよね。とりあえず全問埋めたものの、手ごたえは7割弱。それは一定の自信をもって埋めた箇所が全部合っていたら、という脆弱な仮定のもとに成り立っている揣摩臆測で、何か事故ってたら落とすよなぁコレと思いながら試験後の平静を保っていました。しかし成績表にはA+と書いてあります。何故?

まぁ相対評価の賜物なんですかね。普通に考えてスライドに書いてないことは全員書けませんもんね。

 

火4 生命情報学

講義に出席してレポートを出して終わりました。「とりあえずレポート出せばA来るよ」という噂を聞いていましたが、まぁ本当にそうでしたね。

講義の方は、人体に関する興味深い豆知識をポンポン紹介する人と、なんかボソボソと情報学チックな話をする人、それから親の顔より見たSVMの話をする人の3人でした。個人的には豆知識の人の話が面白かったです。

 

水3 人工知能

レポート40点、試験60点で評価される講義です。真面目にレポートを出せば40点ぐらいは確保できますので、試験に煩わされる必要がなくなります。ただ、試験が少し厄介でした。過去問に一回も登壇していなかったDLの問題が出たり、探索問題についても「例を挙げよ」とかいう採点が大変そうな問題が出たり。自己符号化器 is 何

それに加え、今年から新たな人が試験問題に加担していて、この人がパーティクルフィルターのアルゴリズムの穴埋めとかいうよく分からない問題を出していたので、試験はあまり点数を取ることができませんでした。何故かAは来ました。何故?

 

水4 統計的モデリング基礎

中間試験と期末試験が1回ずつ設けられています。スライドの内容がそこそこに難しく、必死に勉強してなおほぼ完全的な理解を得られていないまま中間試験に突入しました。が、めちゃくちゃ簡単でした。なお、分散の式を間違え、ストリームデータの分散を求めるところだけ盛大にミスをしました。このミスがなければA+が貰えただろうに、惜しいことをしました。

期末試験も同様に簡単でした。一か所だけ用語が分からないところがあった。

 

木2 計算機アーキテクチャ

一週間ごとにちょっとしたレポート(40点分)が課せられるのですが、それが鬼難しい。毎回頭に?マークを浮かべながら、頭を使うのに飽きて適当に提出したりしていました。たぶん20点も取れてないんじゃないか?

試験は過去問と大体一緒だった(ただし大問3は うるせ~! 知らね~! FINAL FANTASY という感じだった)ので、そこそこに書いて出しました。レポート点がまぁ察しなので素直にBです。負けました。

 

計算機科学実験及演習

p(՞ةڼ◔)v

 

ハードウェア:中間レポート前の大事な時期にカンピロをやってずっとトイレにこもっていました。ペアの方が中間レポートに必要なチャートやデータパスの図を作ってくれてめっちゃ助かりました。罪滅ぼしに期末レポートを8割方書いたのを覚えています。

ソフトウェア:OCamlたのしい! 書きやすい言語ですね

 

評価:C

 

p(՞ةڼ◔)v

 

終わりに

今期は勉強の方よりもサークルの方が忙しかったので(単位よりss執筆の方が大事なのは自明)、講義の方がおざなりになった感があります。来期はどうしましょうかね。卒業すること以外考えないのなら、木2のア論と実験(木34・金1234)だけ履修して土日月火水の5連休を作るとかいうパワープレイが可能になります。まぁ応用代数とか取りたいしやらないんですけどね。

希望の研究室に行けるような成績を取らねばなりません。頑張ります。コンピネDとかプロ言Dとか工業数学Cとかがじわじわ効いてる。

 

A+ 5

A 15+2(実験)

B 2+2(実験)

C 2+2(実験)

D 2

ミラノ風ドリア

食べ物には頭の悪さという指標がある

 

俗な意味での"偏差値"という言葉を当てはめてみよう

 

例えば"鴨のコンフィ"はなんとなくつよそうだから偏差値65

 

"オムライス"の偏差値は45

 

こんな感じで、偏差値の低そうな、すなわち頭の悪そうな食べ物というのを考えてみよう

※食べ物の"頭の悪さ"という指標と、その食べ物の美味しさや優秀さは関わらないということを明記しておく

 

"焼きそばパン"

炭水化物に炭水化物を挟む頭の悪さが光る

"マヨネーズ"

何にでもかけまくる人はかけまくる バカ

"チーズバーガー"

アメリカンboyが頬張ってそう

"肉団子"

謎メタファー

"芋煮"

軽率に芋を煮込むな

"かに玉"

なんかネーミングが雑魚い おいしいけど

"ナポリタン"

未確認生命体っぽさがある

"カツカレー"

カレーだけじゃ飽き足りないのか

 

 

 

チェーン店の名前って割と頭悪そうなの多いですよね

びっくりドンキーとかいきなりステーキとかすしざんまいとか

 

サ↓ イ↑ ゼ↓

 

リグ

自分のことしか話せない俺を許してくれ

 

人に怖がられている

そう感じることはないか

 

最近はずっとそのことを考えている。どうしてそうなってしまったのだろうね。

いや、俺が人に怖がられていると感じる理由は明白で、それは俺の誰彼構わず攻撃してしまえるような情緒の基盤の不安定さに起因している。なんというか、危険というか、爆弾というか、触らぬゴミに祟りなしというか。

昔の自分を回想してみて、俺もあんな奴とはあんまり意思疎通を図りたくないな、と思った。考えたくもない。ふと口にした言葉ですら、勝手に虫眼鏡で拡大されてこれはおかしいだの浅いだの言われる。穏便に場を済ませたけりゃ口を突いて出る言葉のひとつひとつに神経を研ぎ澄ませなければならないし、だからと言って黙ってれば何か言うことはねえのかと愚痴を吐かれる。相手にしたくない。

 

それは青でもなんでもないのだ。ただ攻撃目的だけで行われる言葉狩りに、青などという美しくてどこまでも透き通るような色を当てはめちゃいけない。それは美化だ。人は記憶を良いように改竄しがちだ。正しくは何色だったのだろう。名前なんてなくて、でも見た人全員が顔をしかめるような、絵の具を混ぜ過ぎたような色だったのだろうかね。

 

散々人の首根っこにナイフを突き立てていた俺が今更こんなことを言うのは本当に愚かしいことだと思う。今だってそんな自分の唾棄すべき汚い本性が顔を出そうとすることもある。その度にそいつと戦っている。たまに負けて、つい口を滑らしてしまう。

 

もう遅いんだよ

お前が今まで他人を散々脅かしてきたぶんぐらい受け入れろよ

今更物欲しそうな目で楽しそうに生きる人たちを眺めたってもう遅えんだよ

一生怖がられたままで、そのまま孤立して死ね

 

さあね。でもそれが、過去の俺が欲しがってた未来なんじゃねえの

 

ほらすぐ下らねえ自己憐憫に浸ろうとする しょうもな

狭心症

ルッキズムという言葉があるだろ。

初見だと意味がよく分からないかもしれないな。

英語にしてみようか。

 

lookism 

見た目による差別、外見至上主義

 

クソだろ。

なぁ。

 

この言葉嫌いなんだ。本当に良くないと思う。知恵の実食ったからってここまで堕ちぶれなくたっていいだろ。

 

 

「ご注文は?」

「えーと、この自己嫌悪ってのと、あ、あと取り皿74億個お願いします」

 

しっかり食えよ

胃袋に詰め込め

入らない? 知るかよ

美味いもんばっか食いやがって

 

 

 

今はそうでもないが、鏡が嫌いだった。

上から模造紙でも貼り付けてやろうかと思うくらいには、見たくもないものだった。

いや、単純に、自分の顔が嫌いなんだ。

自分の顔が嫌いだから、ルッキズムも嫌いだ。

 

どうだろうね。

到底正しくない態度だと思う。

そりゃそうだろ。

自分の顔を嫌う感情そのものが、外見至上主義だ

矛盾してんだよ

 

俺がもし整った顔に生まれていれば、ルッキズムが大好きになってたんだろうな。

ルッキズムのクソさ加減にも思い至らずに、人を容貌で差別して、切り捨てて

 

でもそうやって、誰かを切り捨てた経験が、誰にだってあるはずなんだ。

外見で人を選んだ記憶があるはずだ。

目を逸らすな

ひとつずつ掘り出していけ

 

残さず食え

あと何人前あると思ってるんだ

お前が今まで出会った人間の数だけ残ってんだよ

満員電車の中、最寄駅のホーム、家の近くの本屋

近所のちょっとした交差点、行きつけのチェーン店、コンサート会場、テレビの中

 

目を逸らすな