マイルドカフェオレアイスショコラ

梅雨は結局やってこなかった。蝉が鳴き始めたという噂を聞きつけてイヤホンを取って街を歩いたりもしたが聞こえるのは車の騒音ばかり。夏は青だの夏は群青だの、高尚っぽい言説を垂れては理想郷の夏のお話を繰り返すばかりで、風鈴の音を聞きつつ扇風機の風に当たりつつ空を覆う入道雲をぼおっと眺めて過ごす和室横の縁側と蚊取り線香の煙という想像は想像の範囲を越えないし、エアコンが壊れて海に行ったりする強制イベントも起こりやしない。そんな理想郷の夏を後目に、クーラーをガンガンに効かせたコンクリートの冷たい部屋で誰かに向かって愚痴を垂れるのが大学生の夏休みである。夏は夜と言われてみれば存外的を外していないようにも思う、確かに徹夜でゲームをすることは夏休みのウェートの85%を占めているし、頽廃と虚無と背中合わせに貴重な若き時代をたまに郵便ポストに入ってる美容院のチラシのごとくぐしゃぐしゃに捻り潰すことは一種の快楽である。破壊衝動である。

 

最近は創作のことばかり考えている。喫緊の義務たる原稿に向けて、本文は一滴も書かずとも何を書くかぐらいは決めておかないと、なんというかやばい。無から有を捻り出すことは難しいものだ。言葉がほしい。何の脈絡もない言葉がほしい。人間は言葉を食べて生きている。それどこから湧いたんだみたいな言葉を組み合わせて継ぎ接ぎして変なものを作りたい。脳みそに設置された引き出しをすべて引っ張り出して中身を取り出してぐちゃぐちゃにかき混ぜて拾い合わせたい。出来上がったものを見て唾棄したい。脈絡なく言葉を引っ張り上げるのは難しいなぁ。ほんとうに。

今日は晩御飯から帰る途中、何故かレーザーポインターという単語が湧いて出てきた。不穏。

 

たんしお

大阪ゴーストシップホール

順天候、梅雨前のモラトリアム。梅雨前線は雨の前に二三日、人間に対して梅雨に対応するための準備期間を設けている。本日はお日柄も良く、吐き下すほどには真っ白い雲が空の四分の一に居座っていた。その雲も忌まわしき直射日光を邪魔するまでには至らず、これが日本晴れかと考えてみたところで、快晴の快哉を”日本”晴れと叫することにエゴイズム的なものを感じた。そんなことはどうでもよく、つまりは絶好のカタルシス日和だった。

 

今日は些細な相手をいちいち相手にする人のことを考えていた。のほほんと生きているだけでも自明に突っかかってくる相手はいるもので、殺虫スプレーを吹きかけてもぴょんぴょんと飛び跳ねているものだから、年を取るうちにだんだんと相手のことを考えなくなっていく。防衛機制なのか無関心の度が過ぎたのか、どうでもいいの境地に足を踏み入れている自分に気が付くものだ。でもそれはちゃんと善悪を考えていないことに等しいわけで、単なる思考停止なのではないか?ああでもなくこうでもないとしたら自分はどこに行くのだろう、それは「関係ない」の領域だと一応理論上の正論をぶら下げて、私は間違っていないんですよアピールをする。これまた愚民の特権である。自分はどちらにも属さないというエリアを都合よく利用して、整合性、自己肯定、浅い悟りの道具にする。やっぱりよくないんじゃないか? 感情をむき出しにするのは愚かしいと日陰で知った顔で呟きながら、感情をむき出しにすることから逃げてるだけでは?

 

脳は思ったことをすぐ忘れるから、こんなに自明なことも書いておかねば忘れてしまう。

 

シャフ度でこれ書いてたからどうにも首が痛い。

反実仮想

初夏と梅雨の中間地点。夜風を浴びながらコーヒーを飲む自分を想像するのは愚民の特権である。よし実行に移そう、思い立ったが吉日と近所のスーパーで安物の缶コーヒーを入手し、そいつを片手に家に帰ってくる。ところが想像ないし換言せずとも妄想であるところの白昼夢はレポートや試験勉強の魔の手により終わりを告げるのである。前途多難さを味のなくなったガムのごとく噛み続けて早十数年、未だに学問という分類づけをしていいのか悩むレベルでの勉強とやらを繰り返している。ああ忙しい、ああ忙しい、と水を得られなかった魚がちっぽけな井戸のようなワンルームで飛び跳ねている。飛び跳ねるのをやめようにも、生憎わざははねるしか覚えていない。そんな八畳ほどの浅いプールから抜け出そうにも抜け出せない日々が悶々と音を立てて過ぎ去るのは夏休みまで。じゃあ夏休みが終わればお前は時間の不足を理由にアレができないコレができないとぎゃあぎゃあ喋っていた悦を享受できるのかと言われれば、まぁそんな筈もない。そうに決まっている。夏休みになれば暇に任せて夜風を浴びながらコーヒー飲んだりするわけもない。経験則だ。ひたすら創作に打ち込んだりもしない。経験則だ。カメラを片手に景色を撮りに行ったりもしない。経験則。忙しいことを言い訳に本当は何もできない自分が隠れ蓑の中で縮こまっている。

 

いい感じに社会性フィルターがかかってきたので、夏休みにやりたいこと、反実仮想あるいは実現不可能な願望について書いておこう。

今年は夏休み中にssをたくさん仕上げなければならないので、否が応でも書かねばならない。わいわいがやがやと書きまくるやつをやりたいなぁ。きょうだいせいたちだいしゅうごうだわいわい。所詮人も動物なのだ。

大学がないからみんなでご飯食べに行ったりもしたいものだ。できるだけ虚無こと夏休みを楽しんでほしいなぁ。

まぁでも、書きつくってみてもあんまりやりたいことないな。

どうせ暇だろうな。

息継ぎ

ツイッターのトップに野球のツイプラを固定していたがために、暫く振りにここに文字を書く。

 

課題は忙しく、レポートは雪崩のように襲い掛かってくる。ひたすら雪かきをしたところでトカゲの尻尾、鼬ごっこである。そのくせ休日は二週間に一回外せない用事もあり、隔週の隔たれた間に挟まった暇なはずの休日にも何らかの予定を入れて、嗚呼忙しい嗚呼忙しいとせわしなく時間をたらふく平らげながら、自分を俗世根性の手垢塗れの大学生だと思い込んでいるサイコティックに傾倒をしている。心の底から本当に楽しいと思えるはずもないわけで、楽しいという言葉を耳に目に口にして自己暗示的催眠術にまんまと嵌っている時間が95%を占めている。残り5%の中には本気で楽しい時間と、自己暗示に浸る自分に気付いて絶望虚無浮遊感のトリプルヒットが直撃している時間の二種類がある。トリプルヒットで受けたダメージは孤独で紛れる。何故だか分からんが。一面に真っ青な夜の帳が重たい帰り道を一人で歩くことに悦を感じる。中途半端に膨らんだ月が南に、居場所をなくしたようにふわふわ浮かんでいたりする。釘バットみたいな電柱が地面に突き刺さっては風に揺れて鳴いていたりもする。車一台も通らない二方通行の道路のど真ん中をゆっくり踏みしめたりする。意味をなくした街灯がちかちかと眩しく蛾と戯れていたりもする。何だか幸せだったりするけど、これは郷愁の類なんだろうなと普通のことを考えている。あまりに孤独なのは辛いが、孤独から離れすぎるのも虚しい。いい感じにバランスをとって生きていけたらいいよな。幾分か都合がよすぎる気もするが。

ここ二週間ほど常に誰かに会い続けてきたから、僕はしばしの休息に入るよ。

本質情報

信じてもらえないかもしれないけど、嫌いな人はいないんだよな。*1

 

日本には罪を憎んで人を憎まずということわざがある。何か嫌なことがあったときその人の一面を嫌うことはあれどその人そのものを嫌うことはないんだ。*2誰かの発言が自分の琴線に触れればその人は自分に合わないだけなんだし、わざわざその状況を声に出してまでして他人にアピールするのは世界の中心に立ちたいという欲望、あるいは煩悩の現れなのかもしれない。*3

何かを嫌うのにはエネルギーが必要なんだろう。"あいへいといっと"を絶えず何度も何度も声に出す人を幾度となく見てきた。嫌悪の対象は人だったり事物だったりするけど、彼らはサンドバッグを殴っているつもりでも実際のところかつて物があった場所に存在する空気を殴って蹴ってしたりしている。*4自意識過剰を承知で言うのだけれどもし僕に嫌悪感を抱いている人がいても、僕はそれに気付けないから無駄にエネルギーを消費させてしまっているかもしれないし本当に申し訳ないなぁ。*5

どう思われてるかに関心はあるけどそれはわりとどうでもいいと思う。でも僕に嫌われてるって思ってる人がいたら嫌だなぁ。あくまで可能性の話だけど。

でも大学入って尊敬する人がさして増えていないんだよな。単に諦めているだけなのかもしれないな。そうじゃないと信じたい。

*1:自意識過剰な自分語り

*2:誰だってそうなのかもしれない、というかこの人が嫌いだとわざわざ言う人は大体嫌っていると言われることで人の困った顔が見たいだけだったりするよね

*3:すごく気持ちがわかる

*4:攻撃されている対象は攻撃されていることに気付いてなかったり攻撃を意に介してなかったりするから可哀想で仕方がない。ダメージが全く通ってないことを思い知らされて一層憤慨して敗走したりしている。不憫

*5:まぁそんなことはないだろうけど

うらやみ

おはようございます(^^)今日もいい天気ですね(^^)

 

0

言葉の怖さというものを知らない人間とこの世を暮らしているから、敵意なき悪意が戦場のごとく上空を飛び交ってぶつかり合っている。言葉は包丁だ、包丁で料理が捗るように、言葉は人間が開発した文明の利器なのである。包丁で人殺しが捗るように、言葉は簡単に人を傷つけるだろう、そんな経験のひとつやふたつぐらい誰にだってあるだろう。

なんとなくで言葉を振り回すな。敵意なんかなくても言葉があればいともたやすく心臓を貫ける。そんなつもりはなかった、じゃないんだよ。自制が効かないぶんだけ、敵意なき悪意のほうがただの敵意より悪質だろ。もっと丁重に扱え。お前ひとりが存在するのにどれだけの人間の首を絞めるつもりだ。まぁ、何も考えてないからそうなるんだろうな。

 

1

苦労と挫折の違いを分かってない人間が多すぎる。このふたつは全然異なるパラメータだ。苦労は人一倍積んでいるが挫折を味わったことのない人間だって、挫折ばかり味わって苦労は全くしないゴミみたいな人間だっている。後者は前者を挫折を味わったことのない人間だとこき下ろしたりする。苦労したことのない脳粗鬆症のルサンチマンが感情に任せて舵を取る。まぁ、何も考えてないんだろうな。どうせ誰も何も考えてないんだし。

 

2

包丁は危険だから他人と距離を取る。少し前からそうやって生き始めた。おかげで人を刺すことが減った。右手は肉を切断する感触をよく覚えている。もっと切り刻みたいと体が動いていく。包丁を振り回す。周りには誰もいない、予防線を張ったからだ。遠ざけておいて本当によかった。

嫌いだから遠ざけてるのではなく、嫌いになりたくないから遠ざけている。どうかこの違いを分かってほしい。分かってほしいよほんと。

分かってもらえないのは分かってもらうための努力をしてないからだ、自分が一番よくわかってる。

 

3

普通に生まれてきたのを幸運に思ってほしい。普通にも特別にもなれなかった人間はただのゴミだからな。普通の方がゴミより幾分か幸せだろ。うらやましい。うらやましいよ。だってすごい幸せそうだもんな。どうしたらそんな生き方できるの。

自己顕示欲

鉄道を交錯するように流れる川、その川沿いに乱れるように咲いていた桜、その桜の木が二週間見ないうちにすっかり緑色に染まっていた。葉桜を湛えた木は偏に中庸だった。二週間は短いな、と意味もないことを悟った気分になってキャリーバッグを片手に階段を登った。すれ違う人の顔はどれもこれも明るい。なんだか取り残されたような気分になった。誰に取り残されているのかもよく分からない。頭の中の時計は電池が切れているみたいに僅かも動かない。色んな感情の間を行ったり来たりしている。停滞である。

 

小学校のころ、36色の色鉛筆を買ったことがあった。色鉛筆の真っ当な使い方も知らないのに、まこと宝の持ち腐れである。青色のケースから36本の色とりどりの鉛筆が顔を出しているのを見て、無性に気持ちが高ぶったのを覚えている。その色鉛筆で何を描けるわけでもないのに、強くなった気分になった。学術書を買ったときは意識が高いのに、三日もすればやる気を失って本棚の奥地に仕舞い込む一連の流れと同じものに起因すると思う。36色の色鉛筆を使って鮮やかなものを作り上げる自分を想像して嬉しくなったりするように、本を読み切った自分を想像して喜んでいるのである。成長してないな。

 

西宮北口駅のスロープから、バスのロータリーを見下ろした。車一台として中を走っていなかった。白線だけが一人前に引かれているのが虚無感を生み出していた。花壇のゼラニュームが空しく風に揺蕩っていた。高校のころ、窓際の席を陣取って授業を受けていたとき、眼下のグラウンドを眺めていたのを思い出した。体育の授業はないらしく、グラウンドには人ひとりとして居ない。白線がぎこちない曲線を描いて引かれているのを見ていたのを覚えている。誰のためでもなく、誰のためにもならないのに白線が引いてあった。兵どもが夢の跡。何度も反芻しては、今も江戸時代も同じだったのかな、と解釈という名のエゴイズムを両耳にぶら下げて改札をくぐった。イヤホンの金網の奥では同じ音が鳴り続けている。ふと、音楽に関して他人に依存し続けることが虚しく思えたりする。生産者になれっこないと自らで烙印を押してきた。判決を信じて疑わない防衛機制はちゃんと正しいことなのだ。均衡が崩れることへの恐怖を愛してやまない。この世に存在する絶望的な事実は何よりも僕を守っているのだ。

 

 

 

人は自分の理解できないものをすぐ見下そうとするからな。理解しようとする努力すら怠る。くっだらない自己先入観で「どうせ大したこと言ってないだろ」つって考えることから逃げるんだ。理解できないんなら仕方ないさ。でも理解できないからって見下す癖をなんとかしろ。脳みそ余らしてるくせに一秒も考えずに理解できないと言うのをやめろ。犯罪者としての自覚を持て。