自己想像世界陶酔

視界に映る水溜りの中を一匹の魚が泳いでいた。遠くでは咆哮を上げながら鯨がぬらりぬらるりと地上を這うように進んでいく。青色の魚が車を上手に避けながら僕の右耳を掠って通過していった。電信柱のさらに上を銀色の魚の群れが泳いでいく。高層建築は人を押しつぶすかのように上へ上へと無意味に伸びているのに、その屋上はまだ水面を捉えていない。夜は深海のごとく宇宙オーケストラのような音楽を奏でながらインディゴブルーの天井を作る。クッキーの型のような三日月が遠くで光っているのを見ていた。

 

この話をしたら、僕の左にいた同級生がなんのこっちゃさっぱりわからんと云う。サンテグジュペリの言うことに、小さな穴の開いた箱には羊がいる、と。かつて純真無垢なつっけんどんだった心臓、小学生の頃の僕にはよく理解できなかったのだけれど、今ならそいつがよく分かる。想像力は天性じゃなくて、自分から鍛えていくものだと思っている。想像してみるのだ。もし町が深海に沈んでいて、でも地上と同じように歩けるのだったら。息ができるのだとしたら。魚が周りを漂っているのだとしたら。脳がその世界を想像すれば僕はその世界に居るような気分になれる。現実は現実のままで、脳内の人間はまた別の世界にいる。肉体と精神は切り離せるのだ。この話をすると、左の人間に頭の病院に行くことをお勧めされた。そうかね。僕には鯨が見える。魚が見える。月が見える。描いた理想は永遠に費えることなく生きてゆく。それを殺さなければ、自転車なんてなくたってどこにでも行ける気がするんだ。

まぁジョークはさておくにしても、僕はこんな感じで創作をしていたんだなということを思い出した。明日は脳内でどんな世界をソウゾウしようかな。現実にないぐらいの綺麗な景色をソウゾウしようかな。明日は脳内で誰を殺そうかな。全人類かな。

続・終わらない世界

神戸と聞けば華やかな印象が散見されるが、彼らの言及している神戸とは実際には三宮とか元町とかの地域であって、JR神戸駅あるいは阪急高速神戸駅はというと、これがなかなかしょぼい。所用で高速神戸を降りて新開地方面へ向かおうとしたのだが、高速神戸の改札を抜けるとそこは限りなく長い地下道だった。黄ばんだ四方の壁床天井が規則正しく並んだモノクロの蛍光灯にちかちかと照らされていて、冷え切ったバターのように静まり返っていた。人は地下道の空しさを掻き消そうと必死なのか、地下道にご丁寧にわくわく散歩ロードといった名前を付けて、その文字の上に小学生の絵日記のような散歩をする人々の絵を貼り付けていた。何がわくわく散歩ロードだ。全然わくわくしねえ。どっちかってっと牢獄だよ。誰がこんな真っ暗の筒の中を散歩するんだよ。

 

とはいえ牢獄の中を歩かないわけにもいかなかった。左右には昭和の香りを色濃く残す古本屋だとか日の当たらないところで売ってどうするのという風な帽子屋だとか有料貸出の卓球台とかが存在した。それもなかなか乙なもの、というわけでもなく、古き良きとかでも何でもなく、ただのオールドファッションだった。地下に放置された店舗群は時代の風を浴びなかったのだろう。存在したのは1%の薄気味悪さと99%の古いという事実だった。

 

 

大学に入ったけど自分のやりたい勉強やれてないし超きつい。ここから先、果たしてなんとかなるのか?分からないな。勉強量はなんだっていいし何も考えずに頭を使うのはお家芸だからいいのだけど、不安を感じるのは嫌なんだよな。自分のやりたい勉強ばっかりやってても食っていけないからこんな学科にいるんだけど、やっぱり嫌なもんは嫌だなぁ。不安とは言うけど恐れている状態になることはそこまで嫌じゃないんだよな。倒錯してる。やだなぁ。逃げたい。一生逃げたまま生きたい。苦しい。自分の脳みそなんて肝心なとこで役に立たないからな。太刀打ちできないんだろうなぁ。はぁ。文系が理系より食ってける世界だったらなぁ。ss書けば単位降ってくる授業ねえかな。マジで将来年収300万でいいから週休5日とかで過ごしたい。これも高望みかな。青い炎は灯ってるんだよな。どうか消えないうちに安寧の日々を過ごせますように。ss書きてえ。

終わらない世界

ろくすっぽも眠っていないのに無理やり8時に目を覚ましたりするから、今日の午前は意識が朦朧としていた。朦朧とした意識の中で何をしていただとかどんな夢を見ていただとかどんな病に冒されていただとかは覚えていないのだけど、ただ意識が朦朧としていたことは覚えていた。折角8時にたたき起こした身体はひっきりなしに睡眠を求め、空腹を殺してまで体をソファーに擡げさせる。次に目が覚めたのは時計が12時を過ぎて1時になった時刻だった。

 

 

止んだと思った雨はしっかりと降り続いていて、京都に放置してきた洗濯物が心配で仕方がない。少しだけでも外に出ようと足をコンビニに走らせたが、大金と引き換えに紙切れ四枚とプリンを得ただけだった。心配事は相変わらず多いけど、少しでも道楽を得るための選択と考えれば痛みは軽くなるものかな。人に会わないから苦しい思いをしているのかもしれないと思い、誰かと会話をしたいとばかり願う。苦しんでるときの気分転換は当事者からすれば転換も何もない無意味の権化に見えるけれど、後々の自分にとってはありがたいものだったりもする。誰も理解しなくてもいいから会話だけでもしたい。何かと理由でもつけないと会話すらさせてくれない世の中だったりするし、それもまた苦しい。プリンは美味しかった。

 

 

熱を出すと決まって生ぬるいスポーツドリンクの味を思い出す。曖昧な記憶には、風邪を引いて怒涛の勢いでペットボトルを空にする自分がいる。風邪を引いたときの世界がゆらゆらと眩んでいく感覚とか、何をやっても許されるような自己肯定感とか、風邪を引いているのになおキーボードを一心不乱に叩いているときの悦とか、あることないこと全部が500mlのペットボトルの中に澱のように沈んでいる。灰白色の液体越しに見える世界はどこか眠たげで憂鬱で、でもその景色は風邪を引かなきゃ見られない。風邪を引いてる気がするからとスポーツドリンクをコップに注いだ。不思議な味がした。

一生風邪に冒されていられればいいのになと思う。

言語依存症

カタツムリの貝殻の中ではひとりでに動き回る物体が苦しくもないのに口元をハンカチで押さえている。物体は物体ではあるのだけど、心臓と肺は時計の様に無意味に動いている。画面の向こうでは真っ黄色のテレキャスターを大太刀のごとく振り回す人間がいる。別段変わったことじゃないなと見つめたりもする。テレキャスターは生きていた。

 

昨日から降り続いていた雨は止んだ。中途半端に曇った空が川沿いの桜を汚していた。水量の増えた川が胃酸を吐き出すように音を立てていた。アスファルトに溜まった水がどす黒く濁っていた。交差点の交通事故跡の花は萎れていた。キャリーバッグを持った親子連れが僕とすれ違って坂道を上って行った。北に聳える山脈の上のさらに上のほうがこの世の果てのような曇り方をしてぼやけていた。カメラがあればいいなと思った。

 

玩具を買ってもらった子供の様に言葉を振り回すという行為への自覚が芽生え始める。近くにいる人間を適当に言葉で刺す。うめき声が上がる。そいつを憎んでいる人間は一方的に歓声を上げる。世界のあちらこちらから聞いたこともない様な音が聞こえるのが楽しくて、言葉で手あたり次第人を刺した。気付けば自分の周りに大量の刃物が浮かんでいる。誰かに刺さった包丁の隙間に入り込んでくるような人間を探した。まだ探し続けている。永遠に見つからない予感がしている。都合がいいことこの上ない。

 

選ぶ権利がある。

麻酔と延命治療

ビニル傘を片手に雨の中を闊歩していれば、いつの間にか自分が世界で一番不幸な生き物だと勘違いをしている自分がいる。踏切ですれ違った緑色のリヤカーがガタガタと音を立てるのを、別段うるさくないなと雨に向かって嫌味を吐いたりする。傘で雨を凌いだぶんぽっかりとエーテルのごとく空いた空間に閉じ込められているから、何もかもがどうでもいいかのような気分になって、時間が経つのも厭わなくなってしまった。右から左へ列車が過ぎ去ってなお上に持ち上がらない遮断機を、そういうものかと勝手に飲み込んでしまったりする。左からも回送列車が走ってくるはずの未来に気付けなかっただけだった。

 

屈託のない夜を過ごしていれば、いずれ屈託のある夜が来て、朝を迎えたくないから眠れなくなる自分を想像したりもする。不安に不安を感じているうちに、その不安が一つの憂にすり替わってしまった気がする。誰だってそうなのかもしれない。不安の理由は確かにあるんだけど、その理由が何か不安なことがあるかもしれないから、然るに無限の未来からの恐怖に襲われているという事実。無から有を作り出すのは人間の得意技なのかもしれないけど、目下そんなマクロ的な視点から俯瞰した神よりも事実の方が何倍も大切だし、もし第三者がコントローラで人を操っているんだったら、悪趣味だから早くゲームクリアまで持ってってほしいと思う。けど僕が操る画面内のリンクは指を舐めながら一心不乱に走り続けたり、妙ちくりんなポーズを決めながらモンスターと記念撮影したりするのだし、僕が言えたことじゃないな。

ひょんな勘違いで他人を責めてしまった記憶が二桁は頭の隅に残っている。自分が正しいという前提の世界で自分の正しさの主張をするのは、遺憾これトートロジー、といった形ではあるのだけれど、それに気付けないからこそその世界を自分が正しいという歯車のみで動くプラスチックの悲しき玩具と見做せるのだろう。

ホットチョコレートを作って放置していたことに気付いたのは作ってから1時間後のことだったし、洗わずにコップに水を注いだせいで埃が浮かんできて水を全部捨てることになってしまったし、洗ったまま数時間洗濯物を放置してしまったし、印鑑はなくすし、文具屋にはシャチハタしか売ってないし、一風堂のラーメンは美味しかった。頽廃はいつも君のそばにいるからいつでも寄りかかると良い。

部屋の除湿器の音がうるさい

難解で晦渋めいた文章をわざわざ理解できないと宣う人の心の奥底には無暗矢鱈に開き直った劣等感と得体の知れない不安が狗のように付きまとっているという事実が理解させる気がないだの理解させる気がないものを書いてもお前は孤独だだのそういった本音を理解できないという短い言葉に凝縮させていることを考えるにつけても結局紙面上ないし画面上に点の集合体として描画された言葉という嘘が本物の口から放たれた言葉に遠く及ばないレベルで言葉のレゾンデートルに合致していないあるいは合致することができないほど言葉というツールに脆弱性が隠匿されているような気がしてならない。

 

伝言ゲームだと思う。

言いたいことは顔を合わせて伝えないとまるっきり伝わらないわけで、一度紙面上画面上の文字を介してしまったが最後、伝言ゲームのように嘘が電波に乗って伝播していく。画面に打ち込んだ文字はほんの少し伝えたかったこととはずれていて、相手はそのずれた言葉をさらにずれて解釈するものだから、結果的に伝わったことは伝えたかったことと正反対の色をしていたりする。だから本当に言いたかった言葉を殴って右手で握りつぶして殺してまで顔を合わせない選択をすることはおよそ賢明でないはずなのに、我々には愚行の権利があるのだから、愚かな選択をして愚かだったと遠い目をして内心安心の息を吐く域を出ない。

やっぱり伝わんないなと思うことは多い、誰だってそうだと思う。伝わらないなら伝わらないなりに一生孤独に生きていかなきゃいけないのだけど、なかなか残酷だ。考えることが孤独なら孤独を避けるためには頭を使わないことを覚えなきゃいけないけど、そうそうできるものじゃない。どうしても伝えたいことがあっても、切腹してもなお伝わらないという空虚な事実を文豪は教えてくれるのだし。

せめて自分が受け取るときぐらい、努力のひとつやふたつを支払いでもしないと人は永遠に孤独から抜け出せない。僕は抜け出すつもりもないが、灰色の脳細胞を他人がために費やす人間への救済を見えない誰かに祈りたい気持ちで溢れんばかりだ。

エイプリルフール

精神異常者ごっこ遊びの悦に浸る人間が特別視されたいという欲求を以て円形の有象無象やらの中心に侵入したところでいざ回りで行われている椅子取りゲームは彼を椅子にすらなれない木偶の棒と見做す。インサニティが誉め言葉だとかそんなはずがないとかそもそもそんなことどうでもいいだとかその心底どうでもいい議論の3秒前に人はそいつは狂ってすらいないという決断を下し溜飲を下し木偶の棒に向かって唾を吐く。お互いがお互いを見下し軽蔑し侮蔑し睥睨するものだからコミュニケーションのコの字もあっちゃいない。コミュニケーションにおける無限降下法である。棒は自身を選ばれた存在だといつの間にか取り違えてしまって尊大な言葉を矢継ぎ早に回転させてふらふらと足元を崩しているし、椅子たちは円の中心に背を向けて意味もなく途中でぶつ切りに切断される滑稽な音楽を聴きながら嗚呼愉快、嗚呼愉快とげらげらげらげら笑っている。ドグラマグラを右手に抱えた棒は右手に持っているそれを使いこなせるはずもなくそのうち訳の分からないことをのたまって自分の中で理論は整っているけど誰も理解しようとしてくれているはずもないから僕は一生孤独でいいやと世界の色即是空森羅万象に嘘を吐く。愉快な椅子たちはその棒の自己陶酔酩酊状態があまりにも可笑しくて可笑しくて仕方がないからぱしゃりぱしゃりと写真を撮ったりちょっと棒の方を見てやったふりをして煽り立てたりする。棒はやがて立つのもしんどくなって、でも四方八方を椅子に囲まれているから場所を今更変更するわけにもいかない。私たちは結局永遠に分かり合えないのだなどとプラスチック並みに安っぽくてくだらない諦念とか厭世観に逃避して何かを悟ったふりをする、分かり合おうという気なんて初めからなかったくせに。何の努力もなしに誰かの上に立ちたいとかいう安直な、人生を舐めているような小学生的な発想を片手に好き放題やろうとした自業自得のくせに。椅子は椅子で、竜宮城行きのバスに勝手に赤色の旗を立てて集団になって剣とか銃とか拳銃とかでカメをタコ殴りにして、集団でいる強さを自分の強さと勘違いしていたりする。下等動物同士の喧嘩を議論だの対話だの高尚な名前までつけてあれはこうだったとか武勇伝のごとく語るのだ。

初めから他人を消費するつもりの人間しかいないのは僕が一番よく知ってるよ。嘘だけど。