言語依存症

カタツムリの貝殻の中ではひとりでに動き回る物体が苦しくもないのに口元をハンカチで押さえている。物体は物体ではあるのだけど、心臓と肺は時計の様に無意味に動いている。画面の向こうでは真っ黄色のテレキャスターを大太刀のごとく振り回す人間がいる。別段変わったことじゃないなと見つめたりもする。テレキャスターは生きていた。

 

昨日から降り続いていた雨は止んだ。中途半端に曇った空が川沿いの桜を汚していた。水量の増えた川が胃酸を吐き出すように音を立てていた。アスファルトに溜まった水がどす黒く濁っていた。交差点の交通事故跡の花は萎れていた。キャリーバッグを持った親子連れが僕とすれ違って坂道を上って行った。北に聳える山脈の上のさらに上のほうがこの世の果てのような曇り方をしてぼやけていた。カメラがあればいいなと思った。

 

玩具を買ってもらった子供の様に言葉を振り回すという行為への自覚が芽生え始める。近くにいる人間を適当に言葉で刺す。うめき声が上がる。そいつを憎んでいる人間は一方的に歓声を上げる。世界のあちらこちらから聞いたこともない様な音が聞こえるのが楽しくて、言葉で手あたり次第人を刺した。気付けば自分の周りに大量の刃物が浮かんでいる。誰かに刺さった包丁の隙間に入り込んでくるような人間を探した。まだ探し続けている。永遠に見つからない予感がしている。都合がいいことこの上ない。

 

選ぶ権利がある。

麻酔と延命治療

ビニル傘を片手に雨の中を闊歩していれば、いつの間にか自分が世界で一番不幸な生き物だと勘違いをしている自分がいる。踏切ですれ違った緑色のリヤカーがガタガタと音を立てるのを、別段うるさくないなと雨に向かって嫌味を吐いたりする。傘で雨を凌いだぶんぽっかりとエーテルのごとく空いた空間に閉じ込められているから、何もかもがどうでもいいかのような気分になって、時間が経つのも厭わなくなってしまった。右から左へ列車が過ぎ去ってなお上に持ち上がらない遮断機を、そういうものかと勝手に飲み込んでしまったりする。左からも回送列車が走ってくるはずの未来に気付けなかっただけだった。

 

屈託のない夜を過ごしていれば、いずれ屈託のある夜が来て、朝を迎えたくないから眠れなくなる自分を想像したりもする。不安に不安を感じているうちに、その不安が一つの憂にすり替わってしまった気がする。誰だってそうなのかもしれない。不安の理由は確かにあるんだけど、その理由が何か不安なことがあるかもしれないから、然るに無限の未来からの恐怖に襲われているという事実。無から有を作り出すのは人間の得意技なのかもしれないけど、目下そんなマクロ的な視点から俯瞰した神よりも事実の方が何倍も大切だし、もし第三者がコントローラで人を操っているんだったら、悪趣味だから早くゲームクリアまで持ってってほしいと思う。けど僕が操る画面内のリンクは指を舐めながら一心不乱に走り続けたり、妙ちくりんなポーズを決めながらモンスターと記念撮影したりするのだし、僕が言えたことじゃないな。

ひょんな勘違いで他人を責めてしまった記憶が二桁は頭の隅に残っている。自分が正しいという前提の世界で自分の正しさの主張をするのは、遺憾これトートロジー、といった形ではあるのだけれど、それに気付けないからこそその世界を自分が正しいという歯車のみで動くプラスチックの悲しき玩具と見做せるのだろう。

ホットチョコレートを作って放置していたことに気付いたのは作ってから1時間後のことだったし、洗わずにコップに水を注いだせいで埃が浮かんできて水を全部捨てることになってしまったし、洗ったまま数時間洗濯物を放置してしまったし、印鑑はなくすし、文具屋にはシャチハタしか売ってないし、一風堂のラーメンは美味しかった。頽廃はいつも君のそばにいるからいつでも寄りかかると良い。

部屋の除湿器の音がうるさい

難解で晦渋めいた文章をわざわざ理解できないと宣う人の心の奥底には無暗矢鱈に開き直った劣等感と得体の知れない不安が狗のように付きまとっているという事実が理解させる気がないだの理解させる気がないものを書いてもお前は孤独だだのそういった本音を理解できないという短い言葉に凝縮させていることを考えるにつけても結局紙面上ないし画面上に点の集合体として描画された言葉という嘘が本物の口から放たれた言葉に遠く及ばないレベルで言葉のレゾンデートルに合致していないあるいは合致することができないほど言葉というツールに脆弱性が隠匿されているような気がしてならない。

 

伝言ゲームだと思う。

言いたいことは顔を合わせて伝えないとまるっきり伝わらないわけで、一度紙面上画面上の文字を介してしまったが最後、伝言ゲームのように嘘が電波に乗って伝播していく。画面に打ち込んだ文字はほんの少し伝えたかったこととはずれていて、相手はそのずれた言葉をさらにずれて解釈するものだから、結果的に伝わったことは伝えたかったことと正反対の色をしていたりする。だから本当に言いたかった言葉を殴って右手で握りつぶして殺してまで顔を合わせない選択をすることはおよそ賢明でないはずなのに、我々には愚行の権利があるのだから、愚かな選択をして愚かだったと遠い目をして内心安心の息を吐く域を出ない。

やっぱり伝わんないなと思うことは多い、誰だってそうだと思う。伝わらないなら伝わらないなりに一生孤独に生きていかなきゃいけないのだけど、なかなか残酷だ。考えることが孤独なら孤独を避けるためには頭を使わないことを覚えなきゃいけないけど、そうそうできるものじゃない。どうしても伝えたいことがあっても、切腹してもなお伝わらないという空虚な事実を文豪は教えてくれるのだし。

せめて自分が受け取るときぐらい、努力のひとつやふたつを支払いでもしないと人は永遠に孤独から抜け出せない。僕は抜け出すつもりもないが、灰色の脳細胞を他人がために費やす人間への救済を見えない誰かに祈りたい気持ちで溢れんばかりだ。

エイプリルフール

精神異常者ごっこ遊びの悦に浸る人間が特別視されたいという欲求を以て円形の有象無象やらの中心に侵入したところでいざ回りで行われている椅子取りゲームは彼を椅子にすらなれない木偶の棒と見做す。インサニティが誉め言葉だとかそんなはずがないとかそもそもそんなことどうでもいいだとかその心底どうでもいい議論の3秒前に人はそいつは狂ってすらいないという決断を下し溜飲を下し木偶の棒に向かって唾を吐く。お互いがお互いを見下し軽蔑し侮蔑し睥睨するものだからコミュニケーションのコの字もあっちゃいない。コミュニケーションにおける無限降下法である。棒は自身を選ばれた存在だといつの間にか取り違えてしまって尊大な言葉を矢継ぎ早に回転させてふらふらと足元を崩しているし、椅子たちは円の中心に背を向けて意味もなく途中でぶつ切りに切断される滑稽な音楽を聴きながら嗚呼愉快、嗚呼愉快とげらげらげらげら笑っている。ドグラマグラを右手に抱えた棒は右手に持っているそれを使いこなせるはずもなくそのうち訳の分からないことをのたまって自分の中で理論は整っているけど誰も理解しようとしてくれているはずもないから僕は一生孤独でいいやと世界の色即是空森羅万象に嘘を吐く。愉快な椅子たちはその棒の自己陶酔酩酊状態があまりにも可笑しくて可笑しくて仕方がないからぱしゃりぱしゃりと写真を撮ったりちょっと棒の方を見てやったふりをして煽り立てたりする。棒はやがて立つのもしんどくなって、でも四方八方を椅子に囲まれているから場所を今更変更するわけにもいかない。私たちは結局永遠に分かり合えないのだなどとプラスチック並みに安っぽくてくだらない諦念とか厭世観に逃避して何かを悟ったふりをする、分かり合おうという気なんて初めからなかったくせに。何の努力もなしに誰かの上に立ちたいとかいう安直な、人生を舐めているような小学生的な発想を片手に好き放題やろうとした自業自得のくせに。椅子は椅子で、竜宮城行きのバスに勝手に赤色の旗を立てて集団になって剣とか銃とか拳銃とかでカメをタコ殴りにして、集団でいる強さを自分の強さと勘違いしていたりする。下等動物同士の喧嘩を議論だの対話だの高尚な名前までつけてあれはこうだったとか武勇伝のごとく語るのだ。

初めから他人を消費するつもりの人間しかいないのは僕が一番よく知ってるよ。嘘だけど。

わたがしスパイラル

踏み台とか足場とかサンドバッグとか、何であれ他人に利用価値があったり吸い付ける蜜が残っていればなんでも良くて、首から上と首から下が綺麗につながっているかつながっていないかは心底どうでもいいんだよな。呼び方は敵だとか味方だとか、まぁ日本語の多様性カッコワライはどうでもいいところで他人を分類してるんだけど、やっぱり他人は利用さえできれば性別家系人種生死なんて心の底からどうでもいい。そうじゃなきゃ異常なんだよ、精神異常者なんだよ、どこかおかしいんだよ、狂ってるんだよ、頭の螺子がどこかにぶっ飛んでるんだよ、五体満足とは呼べないんだよ。全部エゴなんだよ。誰も他人の事なんて根っから考えてないんだよ。自分のことを考えてるついでに他人のことも考えてるふりが上手いだけなんだよ。自分を良く見せたいだけなんだよ。全員が全員各自に割り当てられた鏡の前で必死に踊り狂ってリストカットしてるんだよ。切り落とそうにも両手首の皮膚はまだ繋がってないわ切り落とせる皮膚は残ってないわで大変なんだよ。しょうがないから頸椎を切り落としたいとか思っちゃうんだよ。でもそんな勇気ねえのな。両手はどこまでも真っ赤っ赤の朱肉のスポンジのごとく染まりに染まってるのに、右手のカッターはやれ切り落とすには刃の強さが足りんだとかまだほかのとこ残ってるだとか精一杯否定しようとするんだ。

さっさと切るの続けろよ そういうの得意だろ なぁ よく他人の右手切り刻んでんじゃねえか 同じ要領だろ 出来ないはずないよな

拝啓

苦しんでいる。僕にはどうすることも出来ない。もう打つ手がない。事実だ。僕が味わったぶんの苦しみぐらい味わってくれ。今まで蔑ろにしてきた幸福を噛み締めてくれ。僕はそんな人間が好きなんだ。今まで噛み締めてきた幸福がすべて砂の様に崩れていくのを見てくれ。全うに生きることに少しの意味もないことを知って笑ってくれ。僕にはどうすることもできない。心に鍵でもかけて、不幸の上にある幸福を味わってみないか?僕はそうだったんだぜ。

それが幸福だったんだよ。

2-4-6-8-切断虚飾

本当の意味で無駄じゃないものなんてあるはずがないわけで、その時点で無駄という言葉は意味を失っていることがよくある。今こうやって無駄な文章を永遠に生産しているのと同じように、生き物は無駄な生き物を量産していく。生き物はいつだって無駄だ。無駄というのは主観的な発想だから、自分が何かを享受すれば無駄じゃないし、自分が何かを不必要だとみなせばもうその時点で無駄なのである。当たり前だ。その無駄という言葉を第三者と共有したり、存在する全員が同じように無駄だと思っていると考えたりするから人はややこしい。ごく自然のことだけれどある人にとって無駄なものは他の人にとって無駄じゃないかも知れないし、その逆も然りなのである。

さて無駄という言葉と寸分たがわないベクトルで他の言葉も本来同じ土俵に乗っているはずなのである。ところが人はそのままでは意思疎通ができなくなってしまうから、この事実は言葉のレゾンデートルを完膚なきまでに破壊してしまうから、欺瞞を欺瞞のままに意思疎通を行ったことにしている。言葉は人が考えるよりずっと繊細なもので、同じ発音の同じ言葉ですら別の意味になってしまうほど脆弱なものだ。同じ文章を読んだところで同じ感情だとか同じ感想だとかを抱くはずもない。すなわち言葉を武器に他人の身体を抉るに傷つく場所は多種多様、ということだ。鑑みるに、僕が常日頃感じることなのだけれど、大衆受けするものを書くことがいかに難しいか。美徳だとか真実だとかは関係なく、迎合される、人口に膾炙するような言葉の羅列は随分エラボレイトされたものだなぁと思う。常人のなせる技ではない。その位置まで到達するつもりがないのは、僕が月まで歩くような欲望が一切ないのと同じメカニズムなのであろう。

 

チョコレートおいしいね。おいしいけど気が付いたらほとんどなくなってるから怖い。

誰か叙々苑奢って。